【長編小説】『空色806』第14章(1)「歴史の短針を進めるべき時が来た」

空色806

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【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)

 どれくらい眠っていただろう。眠りから醒めると、そこは自分の部屋の中だった。体の節々が痛む。それが長い間、そこに横たわっていたからなのか、それともどこか知らない場所を歩き回ったからなのか、彼女には区別がつかない。

 夢を見ていた。どこかから歌が聞こえて、城中がぼんやりとした光を放つ。あの記号。城の至るところに刻まれたあの記号が、光っているのだ。閉じ込められた感情たちが音に乗せて躍り出る。わくわくする気持ちも、おいしい気持ちも、誰かへの羨みも、失った哀しみも、光の粒になってちゃんとあるべき場所に帰っていく。

 「もう戻ってきていいよ」とあの子は言う。わたしと入れ替わったあの子は、あそこで何かを終えてきたのだろう。わたしは、もうほとんど覚えていない自分の母親に、五年ぶりに再会した。そんな夢。

 見慣れたはずの大きなベッド。ここで眠ると、いつも自分の小ささを思い知らされる。南側に位置する彼女の部屋には、まだ陽が射し込んでいなかった。ベッドの上に起き上がると、右手の窓の奥にちょうど昇ったばかりの太陽が顔を出しているのが見える。

 朝の早い時間。たまに目を覚ましてしまう時の、この時間が少しだけ苦手だった。遠慮がちに朝を知らせる太陽は、窓から思い切り顔を出すと、待ってましたと言わんばかりに彼女の顔を照らす。この瞬間だけは、ああ、戻ってきてくれたのだと安心する。

 朝陽はなぜか夕陽よりもせつない。

 「またあした」と笑って去っていく夕陽を、彼女はちゃんと見送ることができる。そして、自分も安心して休むことができる。朝になったら太陽は必ず姿を見せるから。さよならと言ったきり、どこかに行ってしまったりしないから。けれど、朝陽は違う。いつか朝陽はいなくなる。いなくなるにもかかわらず、彼女は日がな一日太陽を眺めているわけにはいかないのだ。そこに太陽がある間は、彼女は太陽の存在を忘れてしまおうと努める。だんだんと別れに近づくまでの間を、うまくやり過ごすことができない。別れる瞬間は、ちゃんと笑えるのに。

 彼女は部屋の中に視線を戻す。

 美しい花柄の壁紙。
 たくさんの服が入ったクローゼット。
 「王 四十七歳 七月十日 空色 3206番」と書かれた時計。

 ああ、今日はたぶん雨なんだな。彼女はもうじき雲に隠れてしまうであろう朝陽に想いを馳せる。太陽を見なくて済む日は、さみしいけれど、気が楽だ。

 部屋の中のどんなものも、彼女を満たすことはできないでいた。

 こんこん。

 誰かが彼女のドアをノックする。

 「スズ、起きてる?」
 サクだ。何ヶ月か前に地上から来たこの人は、とても不思議な人だ。ずっと前から知っているみたいな気がする。やっと見つけた、そんなふうに感じた。いつも何か足りないものを探していたわたしの、その心の穴ぼこを少し埋めてくれた気がした。左指がないその人は、わたしと同じように何かが足りない人なのだと思った。仲間を見つけた気がした。

 けれど、サクは左指がないことを全然気にしていないふうだったし、それを誇りにすら思っているように見えた。そうなると、途端に左指がないことは「持っている」ことになった。お姉ちゃんが肌の色を変えるように。ルカが空を飛べるように。ルルが色を見分けられるように。ヨーテが魔法みたいにキラキラした料理が作れるように。

 わたしはまた、ひとりぼっちの「持っていない」子になった。

 「起きてるよ。サクはもう起きたの?」
 内開きの扉が、音もなくスズの方に開かれる。

 「昨日あの後すごく眠くなって、あのままあの部屋で寝ちゃったのかと思ったら、さっき自分の部屋で目が覚めたの。いつの間に自分のベッドに戻ったんだろう。スズもちゃんとベッドに戻ったんだね」

 「何のこと? スズはずっとここで寝ていたよ。すごく長く眠っていた気がするけれど」

 「覚えてないの? もしかして、あれも夢なの? 近ごろ、夢と現実の区別がつきにくくなっているみたい」

 「サク、疲れてるんじゃない? 昨日、お花畑ではしゃぎすぎたんだよ、きっと」

 「スズ……?」サクは怪訝そうな顔をしてわたしを見つめる。

 「確かに昨日のスズはちょっと変だった。キベの家のピアノのことだって知っているはずないし。それに、お花畑に行ったのは、もう二週間と四日も前だよ! もしかして、また記憶を失くしたの?」

 また? 記憶? やっぱりサクは不思議な人だ。

 「サク、やっぱり夢を見ていたんじゃない? キベって誰なの?」

 「夢。夢なのかもしれない。でもわたしたちがお花畑にいたのは、本当に二週間と四日も前の話で、それからあなたは二週間いなくなって、見つかってからも記憶が戻らなくて、やっと昨日記憶が戻ったところなのに、また振り出しじゃない。いったい何がほんとうなの?」

 目の前で混乱する大人の女性は、なんだかひどく子どもっぽく見えた。

 「スズ、あなたピアノが弾ける?」

 「弾けないよ。サクもよく知ってるでしょ」

 「じゃあやっぱり昨日のあの子はスズじゃなかったんだ。誰なの、あの子は」

 「サク、キッチンに行こう。温かいココアを淹れてあげるから。夏なのに、今日は冷えるね。お日さまがどこかへ行ってしまったみたいに」

 わたしには、この人を癒すことができる。それがわたしの「持っている」力なんだ。スズはやっと見つけた宝物を見失わないように、サクの手を取って部屋を出た。

 代わり映えしない一日が始まったように見えた。

 朔とスズはキッチンでココアを飲み、芥子の実がたくさんついた小さなパンを一人にひとつずつオーブンで温めなおす。大きなビルトインオーブンに、小さなパンが二つだけ入っている様子は、なんだかお母さんのお腹の中にいた頃のわたしたちを思い出させた。

 わたしたち? 朔は思考を現実に引き戻す。

 「昨日のお昼のことも覚えてないの? にんじんのパンケーキをたくさん食べたこと」

 「それなら覚えてるよ。でも、パンケーキじゃなくてシナモンのにんじんケーキだけどね。ミス・オーラのあのケーキはほんとに美味しいよねえ」

 「そうだね」

 朔は拭い切れない違和感を抱えたまま、ほんのり手の中で温かいカップを口元に運ぶ。あまい匂い。おさない匂い。そう言えば、わたしはココアが苦手だった。いつからか、ブラックの珈琲しか飲まなくなった。それでも、まだ陽の昇りきらない、ひんやりとした薄暗い朝に飲むココアは、朔の体に歓迎されているようだった。

 ヨーテが起きだして、みなの朝食を準備し始めるまで二人はそうしていた。だんだんと高くなる太陽が、キッチンの大きな窓から射しこむのを眺めながら。朝ごはんを食べる場所が東側にあるっていうのはいいな、と思った。

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第14章(2)「歴史の短針を進めるべき時が来た」

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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