【長編小説】『空色806』第14章(2)「歴史の短針を進めるべき時が来た」

空色806

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【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)

 代わり映えしないように見えた一日に異変が起こっていることが判明したのは、リセとニーマが朝食の席に現われなかったことから始まった、のだろう。誰もが自分のリズムで生活することをおおむね許されている城では、それは別段珍しいことではなかった。しかし、彼らはほとんど陽が真上に昇るころまで姿を見せなかったし、それは何十人もの国民がおいおい泣きながら城に集まりだしたことで、ようやく関わりを見せた。

 すぐに王が呼ばれた。彼はちょうど書斎で昼食の知らせを待っているところだった。

 「王様、戻してください」

 「あれはほんとうによかった」

 「知らない間に、俺はこんなに痩せていたのか」

 「もう二度とあれを起こしてはならない」

 「怖い、助けてください」

 「私の子どもたちはどこに行ってしまったのでしょう」

 「また貧乏の家の子に逆戻りじゃないか」

 「ありがとう。戻してくれて、ありがとう」

 「あたし、こっちの方が好きだわ」

 集まった人々は、揃って涙を流しながら矢継ぎ早に王に訴える。ヨーテは昼食を支度する手を止め、朔は階段を拭く手を止め、人々をなだめにかかる。

 彼らはあの時スズとホープの演奏を聴いた者たちだ、と王は独りごちる。

 「リセとニーマを呼んできなさい」心配そうに人々を眺めていたレベッカとスズに、王が指示を出す。まだルルやルカは戻っていない。オーイシは今日は城でお昼を食べるだろうか。彼女たちは、普段自分たちがいかに守られた存在であったかを、今になって思い知るのだった。

 あまり足を踏み入れない地下への階段を、一段とばしに降りる。

 どんどんどん。スズはニーマの部屋の扉を叩く。お姉ちゃんはリセの部屋に行った。いやだ、もうひとりにしないで。あの花畑で、突然ひとりぼっちになった時のことを思い出していた。

 だめ、そんなことを言っている場合じゃない。何か大変なことが起こっている。あの子がいなくなってしまった時みたいに。
 「ニーマ、ニーマ! 開けるよ!」返事を待たずに扉を押し開ける。

 ぼんっ。何かにぶつかる。ニーマのかたい腹だった。恐ろしく悲しい顔をした、泣き顔のニーマがそこにいた。毛むくじゃらで筋肉質な彼の体に、泣き顔は似合わなかった。いつもの上の空をした彼の顔が、スズの脳裏をよぎる。くすんだ二つの瞳が、涙で光る。

 「ごめんなさい」スズは怯えた顔をして、一歩後ずさる。

 「ああ、スズ様。ホープ様は? あの魔法が解けてしまったのです。あの素晴らしい魔法が。今日からまた、僕は劣等感を抱えて生きていかなくてはならないのですか?」

 お姉ちゃん。

 スズは反射的に隣のリセの部屋へ向かった。半分だけ開かれたドアからは、レベッカがリセに優しく抱きしめられているのが見えた。リセは言わずもがな、レベッカまでもが泣いているのだ。

 「……ちゃん。おねえちゃん」スズはやっとのことでつぶやいたけれど、そこにはスズの知っているリセとは違う人がいた。いや、正確には、スズの知っているリセと同じ顔をした、けれどもっとスズに近いような人がいた。にんげんらしい人。スズの知っている言葉で表すとすれば、それが限界だった。目の前のリセには、今までにはなかった感情という目に見えないものが確かに宿り、レベッカにはその違いがくっきりと感じ取れるようだった。

 「リセ、戻ったんだね」スズより五つ歳上の姉は、いつもスズよりもずっと多くのことを知っているのだった。

 「レベッカ様、ただいま戻りました。それにしても妙な五年間でしたよ」

 泣きじゃくるニーマと、静かに涙を流すリセを含め、あの時聴いた者たちが城の会議室に集まった。そこに王、ヨーテ、レベッカ、スズ、朔が加わって、昨日とはまったく違う形の、異様な雰囲気に包まれた昼食会が始まった。ヨーテが慌てて準備した昼食は、昨日よりは明らかに質素だったが、そこにいた者たちは揃ってがつがつとたくさん食べた。まるで何日間も飲まず食わずで過ごした後のライオンの子のように。

 その会議室で、朔は再び感情の波に呑まれそうになっていた。

 あの時と同じだ、と思う。昨夜ピアノを弾き終わった時に感じた、あの溢れる感情の洪水。あれはあるいは、彼らの感情が解放されたしるしみたいなものだったのかもしれない。誰も彼もが泣いていた。ある者は怒り、哀しみ、絶望しているふうにさえ見えた。そしてまたある者は感激し、安堵し、歓喜していた。王はただ、切ない目でその光景を見つめるだけだった。

 「私が説明しましょう」食後の珈琲をひとくち飲んだ後、リセが場を代表するように立ち上がった。

 己に起こった出来事をどのように言葉にしていいかわからないでいたその場の者たちは、祈るようにリセの方を見つめた。

 「五年間」リセはすうっと息を吸い込んだ後、目を閉じてそう始めた。

 「私たちは、おそらくみな夢の中にいました。それはとても奇妙なものでした。私たちは、私たちを生きながら、同時に私たちを生きてはいなかったのです。これを言葉にするのは、非常に難しい。けれど誤解を恐れずに言えば、我々はある意味で、あくまでもそれぞれのユートピアにいたのではなかろうか、と思います。つまり、この場にいる者たちは、精神的にということですけれども、同じ場所にいたわけではないのです。しかしながら、我々にはどこか共通した認識のようなものがありました。ここはトラリアではなく、まして地上やフラスコでもなく、物質的な何かを超越したどこかなのだ、という共通認識のようなものです」

 リセは確認するように周りを見渡した。何名かが大きくうなずき、あとはただ黙って泣いていた。

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第14章(3)「歴史の短針を進めるべき時が来た」

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ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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