【長編小説】『空色806』第14章(3)「歴史の短針を進めるべき時が来た」

空色806

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【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)

 「そこはとても不思議な場所でした。静かな場所、という方が正しいかもしれません。そこにはあらゆる感情が欠落していました。嬉しさ、楽しさ、哀しさ、恐れ、怒り、妬み。善きものも悪しきものも含めて、どんな意味においてもそこには何もありませんでした。私の場合、そこにあったのは、ただ『無』だったのです。私はそれまで、『無』の存在をこれほどまでに意識したことはありませんでした。しかしそれは、決して悪い心地のするものではありませんでした。そこには『悪い心地』というものすら存在しないのです。時間の流れない、真っ白な空間。そこでは現実に存在するはずの肉体というのは、ただ精神の静寂を保つための容れ物に過ぎず、むしろその静寂を損ないかねないものでした。そこでは実際的なあらゆるものごとは色彩を失うのです。この五年間は比較するものもありませんでしたから気が付かなかったけれど、今こうして世界を眺めてみると、いったい自分がこれまでどのようにして生きていたのだろうと、半ば可笑しな気分になる」

 ふ、と彼は懐かしむように微笑む。

 「小麦の甘い味、肌を撫ぜる七月の風のにおい、ひんやりとした城の壁、レベッカ様のお声、私の体から出る涙。私の肉体は、こんなにも豊かなものたちに囲まれていたのに、この五年間そんなことに全く気が付かなかった。肉体と精神は、ばらばらになっていたのです。そしてそれに何の疑問も抱かなかった。私は五年ぶりに、生き返ったようです」老人は目に光を宿し、きっぱりそう言い切った。

 「僕の言葉で言うと、それは『平和』でした」隣に座っていたニーマが言葉を継いだ。

 「僕はいつも計算を間違える。城の人たちは好きでしたが、財政係という仕事は僕には合っていなかった。計算そのものは得意なのです、ご存知のように。でも、目の前の人にいくら渡せば、城がいくら損をするかという計算ができなかった。僕はいつも劣等感を感じ、怯えていた。いつも何度も確認して、それでも計算が合わずに、おどけたふりをして、失敗を笑いに変えることでしか僕は自分を守ることができなかった。あの演奏は、そんな毎日から僕を救ってくれた。僕にとって、感情というものはあまり良いふうには働いていなかったから。感情を持たずに人々と暮らす日々は、とても楽なものでした。表面的なことを無難にこなしていれば、あとは好きなだけ、何もない平和な沼に身を沈めていられたから。だから、僕はこの魔法が解けてしまったことが本当に悲しく、つらい。ホープ様は? あの人は今どこにいるのです。王様、もう過去を隠しながら暮らすことはやめにしてください。ホープ様を連れ戻して、スズ様との演奏を国民に聞かせてください。僕のように苦しむ人々は、それで救われるのです」

 「ホープは、もういない。サンドラもだ。お前、昨日ホープに会ったことを忘れたのか?」

 「昨日? お父様、何を言っているの?」王の発言に、今度はレベッカが口を挟む。

 「お前はあの時八つだったものな、無理もない。昨日一緒にここに座ったのは、お前のもう一人の妹だったんだ。少なくとも私はそう思っているよ。あの子はにんじんのパンケーキが好物だった。てっきり、お前も気づいていると思っていたよ」

 「どういうことなの? スズはここにいるじゃない。今もちゃんと」

 「そうだね、お帰り、スズ。久しぶりだね。戻ってくれてよかった」

 王だけが何もかもをわかっているふうで、その場にいる者たちは小さな混乱に見舞われていた。朔だけが、頭の中でパズルのピースがかちりとはまった感覚を覚えていた。

 会議室にいた者たちが、そのようにそれぞれの想いをぽつりぽつりと順繰りに話していった。意見はほとんど真っ二つにわかれた。つまり、「魔法」を肯定する者と、そうでない者。不思議と中間層は、つまりどちらの状態をも肯定したり否定する者は存在しなかった。答えはただ二つしか存在しなかった。ただ二つなぶん、それらは真っ向から対立し、決して相容れない様子をしていた。みな魔法にかかる前の自分、五年間の自分、今の自分を照らし合わせて、何らかの明確な答えを得ているようだった。

 「トラリアの歴史の短針を進めるべき時が来た。もうこれ以上ぐるぐると長針ばかりを回し続けるわけにはいかない。私も歳をとった。娘たちも大きくなった。隠された歴史に未来はない。そして未来に答えはない。けれど、私はこの国の王として、これからみなに事実を話し、私の考えを述べる」王はゆっくりと立ち上がり、二人の娘の手を取って部屋の中央に歩み出た。

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第14章(4)「歴史の短針を進めるべき時が来た」

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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