【長編小説】『空色806』第14章(4)「歴史の短針を進めるべき時が来た」

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【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)
王は、その場にいる者が知っているであろうこともそうでないことも、順を追って事実を淡々と述べていった。スズとホープの演奏がもたらした事態、トラリアから音楽と王妃と一人の王女が消えた事実、それらを聴いていない者たちに納得させるまでの軌跡、当時の彼自身の迷い、決断。ある種の催眠状態に陥る家族たちを目にしながら、それぞれに葛藤を抱え、悩みを王にぶつけてきた「精神的遺族」たち。今や、本人のもとに精神は戻り(この言い方が正しいかどうかはわからないが、と王は付け加えた)、その答えが真っ二つに分かれている中で、国の進むべき方向として次の道を見出さなければならない。それはトラリアに光をもたらすかもしれないし、あるいはさらなる混乱と病の年月に、この国を再び放り込むのかもしれない。
レベッカもまた、涙していた。彼女は、早熟な彼女は、周りが思うよりもこの歴史をずっと深いところで理解していた。消えた妹。封印された楽器。二度と交わることのない、母と妹との時間。それらをうまく議論するだけの言葉を持たず、努めて子どもらしく振舞ってきた彼女は、皮肉なことに心のいちばん奥だけがどんどん大人になっていた。
スズは何も言わずにぎゅっと父の手を握っていた。やはり自分の中の欠落感は間違っていなかったのだという想い、娘を失う哀しみを二度と父に味わわせてはいけないという覚悟、そして何より、とてつもなく大きな罪悪感が彼女を小さな体をぺしゃりと押しつぶしてしまいそうだった。どうしてあの子だけが。
五年前のあのことは、誰も悪くない、と王はことさらに強調して言った。
「あるいは国民全員があの状態になれば、この国から争いは消えただろう。そういう意味では、私の判断は誤っていたことになる。けれど、当時の私にはどうしても不自然に見えたのだ。人が感情を伴わない抜け殻のようになることが、例えそれが本人にとって平和と安寧をもたらすにしろ、それは人間を生きていることにはならないのではないかと。そして私は、弱い私は、そこで時計の針を止めてしまうことに決めた。たくさんの犠牲を払って、あらゆる可能性に蓋をした。私とて、幸せな人々がいる一方で、日々苦しむ国民が少なからずいることも承知していた。彼らを簡単な方法で救ってしまえる方法は、相変わらず魅力的な存在としてそこにあり、私は弱い自分自身のためにその可能性を消し去る必要があったのだ。そして、期せずしてこの瞬間は訪れた。実際に救われた状態を体験し、目覚めたあなたたちがどのような行動を起こすのか、私にははっきり言って予測がつかない。もうホープはいない。あの演奏を再現する方法はない。けれど、どうか人間を生きてほしい。苦しみも妬みも哀しみも、歓喜も愛も、全てを抱えて。これが私からあなたたちに向けた最大の願いだ。もう奇蹟は起こらない。それでもトラリアに音楽を解放することは、ある意味で痛みを伴うだろう。あなたたちの考えを聞きたいのです」
王はついにひざまずいた。そこには王様ではなく、カードルという一個人が存在していた。部屋の中は沈黙に包まれ、時折誰かのすすり泣く声だけが響いた。ぬるくなってしまった珈琲の、それでもかすかなこうばしさと、アプリコットジャムの乗っかったクッキーのほんのりした甘さだけが、その場の状況をまるで理解していないかのように、幸せにかおっていた。泣きたくなるくらい、ほんとうの「平和」のにおいがした、ような気がした。
何かを話さなくちゃ。その時、朔は妙な使命感に囚われていた。わたしはとことん部外者だった。けれど、部外者にしか見えないこともあるのかもしれない。わたしは今ここで、何を話せばいい?
「ぶつかるぞ! 気をつけろ!」
突然部屋の外からしわがれた声が聞こえたのは、その時だった。
「どうしてこんなに大きなピアノをこしらえたんです、運びにくいったらありゃしない」
「国民全員に聴かせるには、これくらい大きくないとダメだろうが。それに、本当は俺の部屋で演奏するはずだったんだ」
「キーボードと電波で流すんだから、大きさは関係ないでしょうに」
「うるさい! 今はそんなことを言っている場合ではない!」
「わかっています!」
静かな会議室の中に、その外からのがちゃがちゃとした雑音はするりと入り込んできた。助かった、と朔は思った。たとえどんな形であれ、誰かがこの沈黙を破る必要があった。タイミングはいいのか悪いのかわからなかった。いずれにせよ、この瞬間は遅かれ早かれ訪れるはずだった。
会議室の扉が左右に大きく開かれる。
「だから言ったんだ!」扉が開くなり、誰に言うでもなくキベが叫ぶ。
「だから、言ったでしょう?」王の姿を認め、今度は少しだけ悲しそうに呟く。
「こうなる前に、国民全員に聞かせるべきだったのです。ただでさえあちらこちらに火種はくすぶっていたんだから。今に暴動が起きますよ。ここにいる奴らと、その話を聞いた者たちによるね」
「キベ、久しぶりじゃないか。いつも手紙をありがとう」カードルは旧友に会ったかのような細い目をして、元楽器職人に笑顔を向けた。
「ことごとく無視しておいて、よく言いますよ。私は楽器職人を辞めたわけじゃないんです。いいですか、今こそ長年夢にまで見た瞬間なのです。ホープ様とスズ様の演奏を国中に響かせることができる、最後の機会かもしれないのです」
「残念ながら」カードルは絞りだすように言った。
「ホープはもういない。君が森の奥に篭ってしまったのとほとんど同じ時、彼女と私の妻は地上のどこかへ旅立った。もう戻るすべはない。それに聞いてご覧。例のあれが解けた者たちのおおよそ半分は、今の状態をより好いているようなのだよ」
キベは怪訝そうな顔をして周りを見渡す。
「兄さん」リセを目に止めて、彼はしばし口を閉ざす。
「兄さん?」ことの成り行きが見えていないスズの、あどけない声が会議室の空気を少しだけかき乱し、それはたぶん、なにかを前に動かした。
「スズ、後で説明してあげるから今は静かに」カードルを挟んでスズの反対側に立つ姉が、しっかりとした声で妹を諭す。ここにいる誰ひとりとして、隣に座る者と談笑したり、あるいは瑣末な考え事に耽る者はいなかった。みな一様にして、この五年間とこれからのトラリアの行先についてをしっかりと見守っていた。当事者としていつでも発言権を行使できるように。
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第14章(5)「歴史の短針を進めるべき時が来た」
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