【長編小説】『空色806』第14章(6)「歴史の短針を進めるべき時が来た」

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【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)
「終わっていない?」今度はカードルが声を上げる番だった。
「ホープ様とサンドラ様があの時トラリアを去って地上へ降り立ったことは、私も承知しています。ルカが状況を知らせてくれていましたから。それから、私たちは同志になったのです」そう言って、キベはちらりと隣の鳥人間を見やる。ルカはこの部屋に入ってから、まだ一度も言葉を発していなかった。まるで然るべき時に然るべき言葉を放つために、大切にしまっている政治家のようにも見えた。
「兄の部屋にあるエネルギーポイントから、お二人は地上に降りられました。今の地上と直接トラリアを結ぶ皇鳥便ではなく、もう戻れる見込みのない地上のどこかへ飛ばされるあのやり方で。もっとも、秘密を守るために皇鳥便は一般的にはトラリアへの一方通行ですが、けれどそれは、国民向けの説明でしょう? サンドラ様たちがトラリアの秘密を破るとは思えない。王様は、あらゆる可能性を絶ちたかったのでしょう? あの二人の存在を地上に感じながら、それでも国民のために、国民のためと自分が信じるエゴに、しがみつづける自信がなかった。いつか、恋しさに破れて皇鳥便でお二人を呼び戻す自分の未来を、どこかに感じていたから。いつの時代のどこにいるかもわからなければ、連れ戻しようがありませんから」
「王様を責めるような発言は慎んでください」隣でルカが窘めた。
「失礼、話が逸れた。今日はどうも感情的になりすぎる。兄さん、とにかく奇蹟は終わっていないんだ。こんなふうに、五年前の演奏の効果が切れてしまう前に、本当はやり遂げなければならなかった。どうしてこうも唐突に終わったのだろう? まあいい、今は一刻も早く演奏を再現すればいいだけなのだから。この日のために、私とルカは周到に準備をしてきた。国の真反対に、つまり兄の部屋のそれのちょうど180度反対に、もう一つの逆方向のエネルギーポイントを作り出したのです。人間が地上からこちらに『移動する』ことのできるエネルギーポイントを。その作業に対して払った犠牲の話は、ここでは割愛します。涙なしでは語れない、数年がかりの話になりますからね。とにかく、これで地上のあらゆる時代から、鳥人間以外の人間が事実上こちらに来ることができるようになったのです。事実上は、と言ったのは、ふとした拍子に間違って、関係のない人がこちらに飛んでしまわないよう、各時代の地上のエネルギーポイントは入念に隠されているために、実際にはこのエネルギーポイントを通してこちらに来る人はいませんでした。あとはルカが仕事の傍ら地上のあらゆる時代を飛びながら、ホープ様、あるいは降りたあと数年経った姿の彼女を探したのです。この作業は随分と骨が折れました。何しろこのエネルギーポイントは、兄の部屋のものと同様、ランダムに地上の時代とつながるからです。私たちは、ルカが地上でホープ様を見つけた時代と、このエネルギーポイントの繋がる時代が一致する瞬間を待ち続けた。その間、私はホープ様が戻られた時に使うための、国中に響くピアノを作っていました。ルカに皇鳥の羽根を少しばかり持ってきてもらってね。そして、ついにその瞬間がやってきたのです」
ああ、やっぱりそうだったんだ、と朔は部屋の隅で驚きもなく納得していた。
「それがそこにいる朔、いやホープ様だってわけです」
そこにいる全員の視線が朔に注がれた。
「彼女は皇鳥便なんかでここに来たわけじゃない。逆方向のエネルギーポイントで地上からトラリアに戻ってきた、ホープ様なんですよ」
「サク、どういうことだ? 君は、皇鳥便でトラリアに来たわけじゃなかったのか? サルホールで働くコトハのように、地上での暮らしに疲れてここに来たわけじゃ?」
朔は改めて、今この瞬間まで王が自分を一欠片の疑いもなく純粋な今の地上の人間だと信じていたことを知った。
「王様、ごめんなさい。わたしは皇鳥便というやつで来たわけではなさそうです。でも、わたしは千本朔として育ってきたし、自分がホープ様だという自覚もありません。ご覧のとおり、左指もありません。これは生まれつきです。あなたの娘さんは、左指がありませんでしたか? あったでしょう、ピアノを弾いていたのですから。それでも、あるいはそうなのかもしれない、つまりわたしは成長したホープ様なのかもしれない、と最近になって思うようにはなってきたけれど、わたし自身にも今ひとつ事態が飲み込めていないのです。どうしても地上での生活に違和感を覚えていたのは確かです。それで、わけもわからないままに、目の前に現れたルカの言うとおりにして、気がついたらキベの部屋にいた。わたしは実を言うと、いまだにここに立っている自分に自信がないんです。騙しているつもりはなかったのだけれど」朔は今自分にできる最大限の説明をした。
その時、何か重大な違和感が朔の脳天を叩いた。けれどその正体が今の朔にはつかめなかったし、目の前の事態を処理することのほうが目下のところ優先課題であった。
「わたしはここに来てからというもの、スズのいなくなった二週間を除いて、ほとんど毎日のようにキベの家へ行っていました。城を離れて一人の時間がほしいというのは嘘ではなかったけれど、そのあいだ彼の家でピアノを練習していたんです。ピアノのようなものを。今にして思えば、あれはスズとの演奏を再現させるためのものだったようですね。けれど、わたしには断る理由がなかった。少なくとも、わたしをここに導いたルカと、ここに来た瞬間を知っているキベの言うことをこなすことで、わたしなりに置かれた状況を飲み込もうとしていただけなのです」
今この場で朔がどんな言葉を発しようと、いや、言葉を発すれば発するほど自分の立場が悪くなることは目に見えていた。それでも朔は話すことをやめなかった。今ここで全てを吐き出してしまわなければ、わたしはこのままわけの分からない空想に巻き込まれて、現実に置き去りにされてしまうという恐れが朔を覆っていた。
「申し訳ございません、王様」ルカがようやく口を開いた。
「ルカ、どういうことだ? 五年前、私とお前は同じ結論に至ったと思っていたが」
王は今や、十歳は老けこんだように見えた。隣にいるレベッカに支えてもらわなければ、そのまま床に倒れこんでしまいそうなほどに。
「こいつはですね」俺が説明してやろう、と言わんばかりに、キベが横から口を挟む。
「こいつは、毎日毎日せっせと白樺の木にペンキを塗り続ける、出来損ないの従兄弟のために、例の演奏を復活させようとしていたのさ」
「キベ、それは言わない約束だ。それに、あいつを侮辱する言い方は許さない」今度はルカがキベを睨みつける番だった。
「いいじゃないか、ここにルルはいない。相変わらず潔癖なやつだな。王様、あんただって気づいているでしょう。あいつは心に闇を抱えてる。一族にうまく溶け込めず、なまじサンドラ様に存在価値を与えてもらったおかげで、あいつはもう毒を吐いたり自暴自棄になる権利を失った。その小さな闇はあいつの心の中でずっと、ほんのすこしづつ、けれど着実に育っているのさ。そして、そんなやつはこの国に山ほどいる」
「王様」ルカは吊り上がった細い目尻を下げ、許しを乞うように頭を垂れた。
「わたくしは、従兄弟を勇気づけてやりたかった。けれど、わたくしがどんな言葉をかけようと、どんな態度を取ろうと、彼の深い意識の底には届かなかった。わたくしは今の彼の毎日が間違っているとは思わない。余計なお世話なのかも知れない。けれど、そうせずにはおれなかった。あいつの心を救う方法があるという可能性にしがみつきたかった。思えば、わたくしはその可能性を実現させる努力をすることで、自分自身の後ろめたさから解放されたかったのかもしれない。実を言うと、彼にとってその演奏を聞くことが良いことなのか、本当に自分が演奏を望んでいるのかさえ、少しわからなくなっているのです」
「お前……」
「その奇蹟の可能性が終わっていないとしても」
口を開きかけたキベを制するように、リセが再び場の者の注目を集めた。
「それでも、私は今の方がいい。生身のからだを持って生きるということは、そういうことだ」
その一言で、キベを黙らせるには充分だった。
キベもルカも今や意気消沈とし、行き場のない思いの渦だけがこの場を取り囲んでいた。
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第14章(7)「歴史の短針を進めるべき時が来た」
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ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。
文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。
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