【長編小説】『空色806』第14章(7)「歴史の短針を進めるべき時が来た」

空色806

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【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)

 こいつは。

 うんと引き伸ばされた一分の沈黙の後、キベが口を開いた。

 「こいつは、ここに置いていきます。隣の塔の地下に押し込められている楽器同様、好きに処分してください。もう楽器は作りません。それが王様、あんたを五年間苦しませ続けた俺にとってのせめてもの罪滅ぼしであり、最後の訴えです。もう押し付けはしない。けれど、俺の考えも変わらない。あとはあなたが、一国の王として決めてください」

 そう言って、相変わらず隣に堂々とそびえるピアノの弦を撫ぜるキベはもう、楽器職人としての背中を失っていた。同時にそれは、五年間苦しみ続けたカードル一人に背負わせるには、きっと重すぎる荷物だった。そしてキベとルカの二人は、こちらもトラリアを思うあまりに五年間戦い続けてすっかり疲れてしまった二人は、静かに部屋を出て行った。あとに残されたのは、風のない湖の水面のように、静かな沈黙だった。けれどその水面下では、やがてすべてを呑み込んでしまうような大きな渦、なにもかもを消し去ってしまうような海底火山のたまごたちが機会をうかがっていることを、その中の数人は気づいていただろう。

 朔は、場の空気に耐え切れず目の前のカップを口につけた。もう珈琲はすっかり冷たくなり、申し訳程度に喉を潤してくれるだけだった。冷めた珈琲は、氷の入った冷たい水よりもつめたく感じるな、と朔は何の気なしに思った。珈琲の味はしなかった。

 「私も、王様の判断に委ねることにします」

 意を決したように椅子ががたり、と音を立てる。子を失った悲しみから、五年の間だけ解放されていた女が立ち上がった。彼女は演奏否定派だった。

 「魔法が解けて、せっかく忘れられていた悲しみをまた思い出してしまった。この悲しみを抱えたまま、これからも笑って生きていく自信はないし、もう一度演奏が聞けるなら、そしてあの夢を見られるなら、私は手を伸ばしてしまうでしょう。それでも、あの子の存在さえ忘れていたあの夢は、間違いなく悪夢でした。麻薬のような、人をだめにしてしまうような夢。人は孤独には耐えられない。だから、王様があの時国中から楽器を葬り去ったことは、間違いではなかったと思うのです。ホープ様とサンドラ様には悪いけれど、お二人の犠牲と、王様自身の苦しみの上でなら、生きていける気がするのです。つらいのは私だけじゃないんだって。私ってとっても自分勝手でしょう?」

 カードルはゆっくりと首を横に振る。その目には、涙が浮かんでいた。

 「そうか、ありがとう」

 「俺は、あの演奏があってこそ、この国は平和になると思う」安堵しかけた王の背中に剣を刺すようにそう言い放ったのは、著名な絵描きとアクセサリー職人の親を持つ少年だった。彼の両親は確かフラスコへ行ったきり、もう十年は戻っていなかった。

 「俺は十五だけれど、来年から働きに出る。婆ちゃんを楽にしてやらなきゃいけないからな。俺の両親は、勝手に俺を産んで、自分たちは芸術の世界がなんのかんのだの言って、陰気な海の底から戻ってこない。俺は、毎日のように婆ちゃんに謝られて育ってきたよ。そりゃ、親にも親の人生がある。金に困ったことはない。親が有名だからな。毎月のように、俺を気遣う手紙や贈り物だって届くよ。でも、せめて俺が働きに出られるようになるまで一緒にいてくれる気もないなら、なんで産んだ? 誰が産んでくれって頼んだよ? 俺がいなけりゃ、父ちゃんも母ちゃんも好きなことに熱中できたし、婆ちゃんは幼い俺の心配ばかりせずに済んだんだ。俺は何のために産まれた? こんな疑問を、誰にぶつければいい? 俺を唯一救ってくれたのは、あの音楽だったんだよ。今度は婆ちゃんと一緒にそれを聞いて、親のいる子どもを羨むこともなく、婆ちゃんを謝らせることもなく、二人で平和に暮らしていくんだ。だから王様、俺は、可能性があるなら、あの演奏をもう一度聞かせてほしい」

 少年、いや早熟な彼は、五年の間に青年になろうとしていた。彼はここまでを顔を紅潮させながら一気に話し、深く息を吸って続けた。

 「けれど、俺ももうそろそろ大人だ。働きに出るってことは、大人になるってことだ。好きなように自分勝手じゃいられない。そうだろ、王様? きっと王様って仕事は、目の前のお客さんの相手をしているよりもずっと大変なんだろう。それを十何年も続けているあんたを、心底尊敬してるよ。だから、俺もあんたの決断を尊重する」

 ぶわっ、と勢いよく会議室に風が吹き抜ける。半分だけ空いた窓から入る夏の風が、カーテンを太らせていた。そのやわらかな風には、太陽のにおいが混じっていた。朝は雨が降っていたのに今はなんていいお天気なんだろう。こんな日、ルルは大忙しになる。外に出てお日さまを浴びなくちゃ、トラリアの夏は短いんだもの。一国の舵を取る父の傍で、少女ははやる気持ちをおさえていた。その場にいた者たちは、それぞれの複雑な思いを抱えつつ、今や王に決断を期待していた。五年ぶりの、生身で感じる太陽のにおいを胸に吸い込みながら。

 「わかった」カードルはもう、自分の足でしっかりと立っていた。

 「一週間ほしい。私自身にも弱いところがあったからこそ、こんなことになっているのだ。トラリアを愛するからこそ、その気持ちで動いてきたからこそ、良くも悪くも今がある。だから、もう一週間、私に考えさせてくれないか。朔、まだそれくらいの時間はあるか?」

 「おそらくは」朔はほんのすこし、考えるふりをしてから答えた。

 「特にこの後の予定は決まっていませんから」自分に時間がどれくらいあるのか、またはないのか。先ほど去った二人がその答えを知ってくれていますように、と心の中で祈った。

 集まった人々は、いったんそれぞれの家へと帰っていった。彼らも彼らなりに、精神的に失われた五年間を埋め合わせる必要があるのだ。家族のある者も、そうでない者も。城に住む彼らも、努めていつもの生活に戻ろうとした。会議室には、一週間の執行猶予を言い渡されたピアノだけが残された。

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第14章(8)「歴史の短針を進めるべき時が来た」

書いた人

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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