【長編小説】『空色806』第14章(9)「歴史の短針を進めるべき時が来た」

空色806

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【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)

 気が付くと、リネン畑の丘のふもとまで来ていた。

 「目をつむったままでも行けますよ」城からリネン畑までの道順を教えてくれたヨーテの声を思い出しながら、朔は安堵する。考え事をしていたせいか、さっき手をかざしたところからここに歩いて来るまでの記憶は全然なかった。あはは、と思わず声が出る。四六時中スマホを握ってSNSなんか見ていなくても、わたしは「今」を受け止め続けるほどの体積を持っていないのだ。それをこんなふうに、からだの中から溢れてしまうくらいに自分の中に溜め込み続けるか、受け止めたそばからどこか別の場所に吐き出してしまうかのどちらかなんだ。そしてきっと、SNSには全部の感情を吐き出すことはできない。それなら、言葉にできない感情ばかりが余ってしまってそれを自分で抱えて病んでいくくらいなら、たまには温かくて単純な感情だってまるごと、あふれるくらいに自分の中に注ぎ続ける、こんな時間があってもいいんだ。いつまでも忘れないでおこう。こんな時間があったこと。どういうわけか、朔はここに自分があまり長く居続けるような気がしていなかった。

 リネン畑は、どこにもなかった。朔は、自分が丘を間違えたのだろうかと思った。いや、確かにこの丘のはずだった。けれどその姿は、スズがあの日の朝出かける前に話してくれた様子とはあまりに違っていた。「青い花がいっぱい咲いていて、お祭りの飾りがきれいで、美味しいケーキだって食べられるんだから! 朔も来たらいいのに」とせがむスズを、城の仕事があるからと断ったのだ。あの日一緒に行っていたら、何かが変わっていただろうか。

 おそらくスズの話すリネン祭りの話に出てくる丘は、お祭りのためもあってかあちらこちらに派手な装飾がされていただろう。その装飾を抜きにしても、目の前に広がる景色はあまりに殺風景に過ぎた。夏の真ん中に忍び込んだ、冬の気配。秋をすっ飛ばして、そこには寒々しささえ思える風景が広がっていた。まだ半袖でも過ごせるほどの陽気とその景色はあまりに不釣り合いで、日本の四季に慣れている朔にとっては受け入れがたい光景だった。日本の四季。本当の日本の四季って、どんなだったっけ。思い浮かぶのは、幼いころの記憶でしかなかった。今の日本も、こんなふうに夏と冬がごちゃまぜになっているのかしら。

 「夏の景色ですねぇ」

 突然うしろから声を掛けられ、朔は飛び上がった。

 「あら、すみません。驚かすつもりはなかったのです」

 振り向いたところに立っていたのは、ミセス・オーラだった。もちろん朔と彼女が顔を合わせるのは、初めてのことだ。

 「あの……」

 「私は、シオン・オーラと言います。ここでリネン畑のお世話や、家庭菜園なんかをしながらのんびり暮らしているの。リネンを刈り取る作業は結構な重労働だから、夫やその友人たちが主にしてくれるんだけど。この広い丘にはね、トラリアで使われるリネンが全部植わっているのよ。もっとも、リネンを育てた後は、五年は次のリネンを植えられない。それくらい、土の養分をたくさん使ってしまうんです。だから、丘をぐるりと囲む形で、順番に植えていくのよ。ここは今年リネンを植えてしまったから、来年は私がじゃがいもでも育てるつもりよ。あら、私ったら初めてお会いする方なのに喋りすぎてしまって。ごめんなさいね、いつも夫の分まで話さなくちゃならないものだから、一人でべらべら話してしまうの。不快に思ったらごめんなさいね」

 「そんな、興味深いお話ばかりです。もっとリネンのことを聞かせてください」

 朔は、まくしたてるように話し続ける目の前の陽気な女性が、どうしてこんなにも何かを不安がっているのかよくわからなかった。笑顔の裏にある、繊細過ぎる感情。人と接する時に懸命に計算して、どんなに完璧な応対をしたとしても、後から押し寄せる後悔。そしてそれは、決して目の前の人に悟られてはならない。そんな対人関係のあり方に、朔は少し心当たりがあった。だから、今はできるだけこの人を傷つけてはならない、と瞬時に察していた。

 「そう、よかった」彼女の顔には、明らかな安堵が広がり、話すスピードが少しだけ緩まった。

 「この植物は、本当はフラックスという名前なの。でもみんな、『リネン』って呼ぶわね。その方がかわいいからかしら? そういうことってない? 本当の名前とは違うけれど、なんとなくかわいいから、とか呼びやすいからとかいう理由で、便宜上その名前で呼ばれているものって。まぁ、フラックスから採れる麻がリネンだから、あながち間違いでもないんだけれどね」

 「知り合いに聞いたところでは、リネンは鮮やかな緑の茎の上に、小さな青い花を咲かせているって話だったんですが、これはリネンなんでしょうか?」

 あら、という顔をして、シオン・オーラの顔はほころんだ。

 「あなた、リネンの畑を見たことないの? リネンの花は、一年に一度だけ、たった一日咲くの。この畑全体でも二週間が限度ね。そうしてその後は、こんなふうに茶色くしぼんで、花の部分が種になる。フラックスシードは、ほら、女性の生理の問題にも効果があるのよ」と、彼女はここだけ少し小声で言った。

 「そして、この茶色くなった茎の部分が生地になる。この国の繊維製品は、ほとんどがリネンよ。だから手間ひまかけてでも、ちゃんとしたものを作らなくちゃいけないの。音楽のないトラリアには、美味しい食べ物だとか、心地良いベッドシーツだとか、そういうからだに入ったり触れたりするもので人を癒す必要があると思っているの。フラスコの人たちがちょっとこっちに戻ってくれたら、人のこころの部分も癒せるかもしれないけれどねぇ」

 おーい、こっちもわりに静かですよ―、と大地に向かって、おそらくはそのずっとずっと下の方にいるフラスコの人たちに向けて声をかけるシオンの様子は、朔の胸をぎゅうと締め付けた。

 夏の景色。これだけは、何十代も前のトラリアの王様がいた頃から変わらない景色なのかもしれない。トラリアの、夏。夏は、国の数だけ、いやたぶん人の数だけある。

 演奏を断ろう、と朔はふと思いつく。それは強い決意というよりも、はじめからそこにあった答えを見つけたと言う方が正しかった。王様がどんな決断をするのかはわからない。それは尊重されるべきものだろう。それに、朔とスズが演奏を行ったところで、五年前と同じことが起こるかどうかなんて、わからない。けれど、少なくとも朔は、全然ピアノなんて弾きたくなかった。

 「ねぇ、うちに寄って、にんじんケーキを食べていかない? もし、にんじんとシナモンが嫌いじゃなかったら。実は、今年は王様たちがうちのケーキを食べに来てくれたのよ。丘で一番おいしいものだったかはわからないけれど、うちには娘もいないし、なにより目の前の王様や王女様たちがおいしそうに召し上がってくださったものだから、自慢して回りたいのよ。青い花祭りのジンクスは知ってる?」

 「いいえ、まだここに来て日が浅いものですから」

 「じゃあ、ケーキを食べながらゆっくり話しましょう。私も今日の畑仕事はもう終わったから」

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第15章(1)「雨の日の少女 五年後」

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