【長編小説】『空色806』第15章(1)「雨の日の少女 五年後」

空色806

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【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)

 七月のある雨の日のことでした。傘も差さずに、わたしは歩き出します。自分をどこか知らない場所へ洗い流してしまうために。

 雲の上にあるこの島には、どうして雨が降るのだろう。雲の上には、もっと上の宇宙雲が重なっていて、きっとそこから雨は降るのだろう。ほんとうは雨のほうが好き。部屋の中で、屋根にあたる雨の音を聞くのが好き。お日さまだってもちろん好きだけれど、晴れの日はなんだか気持ちが落ち着かない。むしょうに、焦る。短い夏の太陽を、ほんの少しだって受けそびれないようにしなくちゃいけない気がして。わたしのこころは渇いていく。浴びれば浴びるほど、渇いていく。何も持たないわたしは、いつも渇いている。ひとりになりたくなくて、寂しくて。雨はたったひとしずくでその渇きを潤す。雨は、音を立てる。雨が音を立てるのは、ひとりじゃできない。雨があたる屋根があって、雨を受けて流れる川があって、それはぽつりぽつりと秘密を告白するようで、それはごうごうと罪を流してしまう。そして、その音はきっとどこかでだれかが聞いている。同じ音を。そんな時、わたしはひとりじゃなくなる。

 ううん、ちがう。そんな難しい理由で、雨が好きなんじゃない。わたしが雨を好きなのは、なんだかわたしみたいだからだ。ひとりじゃ輝けない。だから、誰かに音を立ててもらう。そしたら、ああ、自分はここにいるんだって分かる気がして。

 うそ。空はくやしいくらいのいいお天気。

 雨の想像をしながら、スズは青く晴れ渡った七月の空を見上げる。今日は雨の日になるはずだったのに。どこでなにがずれてしまったんだろう。

 どうしてあの子じゃなきゃいけなかったんだろう。

 スズの足は止まってしまっていた。城を出て、すでに一時間は経過している。リネンの丘に行こう。そう決めたはずなのに、なかなか足が向かないのだった。隣にはレベッカがいる。自分の中から消えてしまったらしい二週間と四日の記憶。リネンの丘に行けば、何かわかるかもしれないと思ったのだ。わたしの最後の記憶。レベッカは、そんなスズの気持ちを察し、黙ってついてきてくれた。王も、レベッカと一緒なら、とスズの外出を許してくれたのだ。王は王で、一週間で国の運命を決める意思決定に忙しいのだろう。

 「クッキー、食べる? お昼の残りだけど」

 「いらない」

 「そう」

 「水は?」

 「大丈夫」

 「そう」

 姉は余計なことを話さず、スズの歩調に合わせてくれていた。リネンの丘のふもとは、もうすぐそこだった。

 「夕ごはんまでには帰ろうね。お父様が心配するから」

 「うん」

 リネンでできたさらさらのワンピースが風になびく。この風通しのいい薄紫のワンピースは、洗うたびに柔らかくなり、スズの体を包んでくれた。

 「お姉ちゃんは覚えてるの? その、もう一人の妹のこと」

 のろのろと歩きながら、スズは思い切って聞いてみた。レベッカは前を向いたまま、スズとつないだ手をぐっと握りなおした。平気な顔をしている姉の、手だけがかすかな動揺を伝えていた。

 「なんとなくね。お母様と、あんたと同じ歳の女の子の記憶がある」

 「その子はどんなだった? スズよりもかわいかった? 何色が好きだった? なんでいなくなったの? どうしてみんな隠してるの? 悪いことが起こったの?」

 昼間の出来事から、まだ誰ひとりとしてスズに五年前の事件を詳しく話してやっていなかった。まだ八歳のスズにとって、事態はあまりに複雑だった。そしておそらくは十三歳のレベッカにとっても。

 「あたしもあんまり覚えてないから詳しいことはわからないけれど、スズとホープは二人して産まれてきたの。気を悪くしないでほしいんだけれど、あたしは正直うんざりだった。だって、お母様の手がいっぺんに両方ふさがってしまって、あたしはお父様としか手をつなげなくなったんだもの。それで、あんたたちが三歳の時になにかが起こって、トラリアから音楽が消えた。今となっては、あたしもそれがどんなふうだったのかうまく思い出せないの。なんとなく、聞いてはいけないんだってことだけはわかるんだけど」

 「おかあさまがいなくなって、お姉ちゃんは悲しかった?」

 「そりゃあね。でも、お父様のほうがずっと悲しかったと思う。わんわん泣くあたしのそばにずっといて、お父様は決して泣かなかったけれど、すごく痛そうな顔をしていたから」

 「パパは怪我をしたの? 痛かったの?」

 「うん、たぶん、パパは怪我をしたよ。あたしたち三人のパパとして、一生治らない怪我をして、それであたしとスズ二人のお父様になったの」

 「お姉ちゃんは、ホープが好きだった? お姉ちゃんは、スズがいなくなったほうがよかった?」
 スズは、ずっとずっと胸に抱えていた、自分でも気づかなかった、気づかないふりをしてきた疑問をついに口にした。その途端、スズの手はくいっと後ろに引かれた。横を歩いていたレベッカが突然立ち止まったのだ。

 「お姉ちゃん、いきなり止まったらあぶな……」
 「あんたバカじゃないの」

 姉の顔はひどく怒っていた。そして泣いていた。

 「あんたバカだよ! それ、本気で言ってんの? ばかあああ!!」

 そう言って、姉は、静かな一本道の上でわんわん泣き出した。通りかかる人はいなかったけれど、そこにいた小さな虫たちや、草花や、姉の周りにあった空気たちはすごくびっくりしていた。スズにはそれが見えた。そしてそれらは、フラスコから見る魚たちみたいに、ぼんやりと輪郭を歪めた。

 「お姉ちゃん、ごめんなさいい」喉が枯れるほどの声を上げて、幼い姉妹は、堰を切ったように涙を流し続け、しっかりと抱き合った。自分の涙を見せないように。互いの涙を見なくてもいいように。相手の涙を、自分の背中で受け止めてあげられるように。

 雨が降ればいいのに。
 スズは思った。

 涙だって、なかったことになる。涙は雨のしずくに隠れて、泣き声はその音で消してくれる。

 ねえ、お日さま。少女は上を見上げる。そうじゃないなら、あんたがこの涙を乾かしてよ。あのいい匂いのするお布団みたいに、わたしたちのこともあったかくしてよ。

 そうして、長いあいだ蓋をされていた感情をほとんどすっかり吐き出してしまった後、今度こそしっかりとした足取りで、彼女たちは丘へと向かう。

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第15章(2)「雨の日の少女 五年後」

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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