【長編小説】『空色806』第15章(2)「雨の日の少女 五年後」

空色806

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【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)

 青く可憐な花を咲かせていたリネンは、すっかり茶色くしぼんで、茎はきれいに刈り取られ、横たえられていた。

 「ほんとうだね、お姉ちゃん」スズは、確かに最後の記憶からの時の経過を目にした。

 夏の景色だった。この刈り取り作業が終わると、もうぐんぐんと夏に向かっていくあの感じはなくなる。あとひと月もすれば、秋の支度をはじめなきゃならなくなる。

 「今年の夏、楽しみそびれちゃった。たくさんしたいことがあったのに」

 「まだ夏は残ってる。今年の夏も、来年も、再来年も、ずっと」

 「スズね、たぶんおかあさまに会ったの」スズは思い出したように、ふいに姉に告げる。

 「お母様に?」姉も、静かにその告白を受け止める。

 「そう。夢だったのかもしれないし、ほんとうに会ったのかもしれないし、それはわからないんだけど、地上のどこかでたくさんの野菜を作っていたよ。スズにも食べさせてくれたんだ。スズはあれが好きだった。とうも、とうころ、とうもこ、コーン! つぶつぶのね、黄色くてあまいの」

 「あんた今、名前ごまかしたでしょう」

 「コーンだってちゃんとした名前だって、おかあさまは言っていたよ。地上はね、ここよりもたくさん夏があるんだって」

 「たくさんの夏かあ、いいだろうね」

 「お姉ちゃんのことも、元気だって言っておいたからね。男の子みたいだから、お嫁さんをもらえるかもしれないって」

 「何それ」レベッカは歯を見せて笑った。数週間ぶりに頬が目に向かってぐうっと押し寄せる感覚は、悪くなかった。

 「スズがいない間、もうひとりのあの子がここに来たでしょう?」

 レベッカの顔が、そのまま固まる。「ホープが?」

 「そう。あの子が、一日だけスズと入れ替わったの。そのあいだ、地上にあの子の居場所はなかった。だから、ここに来ていたのかなって」

 「わからない」レベッカはほんの少し、苛立っているようにも見えた。

 「最初にスズが目を覚ました時、それがスズじゃないことはわかった。あたしが作ったにんじんのパンケーキばっかり食べるのも、なんか変だなって思ってた。だから、今日あんたが起きた時に、ちゃんとスズに戻っていたから、ちょっと安心したくらい。あれは、ホープだったのね」

 「スズ、にんじんのパンケーキきらいじゃないよ。チーズオムレツのほうが大好きなだけで」

 「ヨーテじゃなくて、あたしが作ったのも?」

 「悪くはない」

 「何それ」姉の顔に、再び花が咲く。

 「ね、サクは? サクは、ホープだと思う?」

 「あんたねぇ」レベッカはいささかうんざりしかけていた。

 「もう考えるの、やめなさい。サクはサク。ホープはホープ。きっとあの子は今ごろ、地上でお母様とそのとうこも……コーンってやつをおいしそうに食べてるわよ。そして、一番忘れちゃいけないこと。スズはスズ。他の誰にも変えられない。欠けてもいない。何も持っていなくなんかない。スズは、全部を持ってるの。あとはあんたがそれに気付くだけ。わかったね?」
 わたしの肩をつかんで、またお姉ちゃんは泣きそうになっていた。

 ぐうう。
 雰囲気を推し量ったのか、または推し量りそこねたのか、レベッカのお腹が鳴る。

 「う、お昼ごはん、あんまり食べられなかったから」

 「お姉ちゃんと一緒に、ミセス・オーラのにんじんのケーキを食べたら、わかる気がする。そう思わない?」

 「かもしれないね」
 二人は顔を見合わせて、くすくすと笑いあった。

 二人は、ほんの半月ほど前に叩いたドアを、けれどずっと前に叩いたような気がするドアを、再び叩く。今度は二人だけで。

 反応は、なかった。

 「留守なのかな?」

 「お昼寝してるのかもね。それともお洗濯かも。今日は天気が良いから」
 姉妹でそんな推理を巡らせていると、屋根に取り付けられた扉が遠慮がちに開いた。

 「サク!」
 「どうしてここに!」

 姉妹は、屋根の下から見上げる見知った顔を見て、同時に叫んだ。

 「二人こそ! 今、シオンさんがいなくて、出るべきかどうか迷ってたの」

 「シオンさん? ああ、ミセス・オーラのこと。入ってもいいかな? つかれちゃって」

 言いながら、スズは半分足を扉の中に入れかけていた。幼い頃から何度も遊びにきたことのあるこの家は、姉妹にとって親戚の家に遊びにくるようなものだった。

 三人は扉から続く階段を降り、天窓から太陽がたっぷり射しこむ部屋へ腰を落ち着けた。

 「そこのリネンの丘でシオンさんにばったり会って。それでケーキをごちそうになることになったんだけど、彼女出てっちゃったのよ。夕飯の買い物に行くから、しばらく留守番しててくれって」

 「このにんじんケーキ、サクが一人でぜんぶ食べられると思ったのかな?」

 スズはテーブルの上に載せられた、三十センチ四方はあるケーキを見てけらけらと笑った。できたてでまだほかほかと温かいそれは、例のヤギ乳クリームが隣に添えられていた。

 「あたしたちが来ることがわかってたのよ、たぶん」

 レベッカはそう言って、慣れた手で珈琲をつくりだした。

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第15章(3)「雨の日の少女 五年後」

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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