【長編小説】『空色806』第15章(3)「雨の日の少女 五年後」

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【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)
よく晴れた夏の午後。
部屋いっぱいに射しこむ太陽。
大きな木の柱が真ん中にある、土のかおりのする部屋。
仲の良い姉妹と、彼女たちの母親より少し歳下くらいの女性。
ほんのりあたたかいにんじんのケーキと、淹れたての珈琲。
それは、美術館に飾ってある絵の中みたいな、平和な光景だった。そして、本人たちも、実に平和な気持ちでそのケーキを味わっていた。そのケーキを食べているあいだだけは、何もかも忘れられる気がした。
「だめ。もう食べられない」
シナモンの香りが漂ってきそうなにんじんケーキ色になったレベッカが息をつく。
「お姉ちゃん、晩ごはん食べられないね」
「何言ってるの。ここから家まで歩いて帰るうちに、またお腹がすくに決まってるわ」
皿の上には、ほんの十センチ四方のかたまりが残っているだけだった。
三人は、ふうっと息をつき、窓から空を見上げた。
気まずいような、居心地の悪いような、けれどずっとこのまま黙って空を見上げて、ここに座っていたいとみんなが思っているような、妙な空気が流れていた。時間よ、止まれ。
そんな中、太陽だけは少しずつ、確実に西へ西へと傾いていくのだった。
「これ、おじさんが食べるかな?」
最初に沈黙を破り、あたふたと片付けを始めたのはレベッカだった。
「ねえ」
朔は、思い切って姉妹に向かって問いかける。視線は目の前のケーキに向けたまま。
「二人はさ、わたしがホープだと思う? その、二人のもう一人の妹」
レベッカは束の間朔のほうを見やり、上げかけた腰を再びどさっと椅子に下ろす。
「やっぱりこれは、あたしたちの間で一度話し合ったほうがいい問題よね」
彼女は長女らしく場を取り仕切ろうとする。
「キベたちは、サクがホープだって言ってた。地上とここがどんなふうに繋がるのかはわからないけれど、五年前に地上に降りたはずのホープを見つけて、連れてきたって言ってた。それは間違いないと思う?」
「わからない。でも、二人の会話を聞いてると、そんなところだと思う。少なくとも、あの二人はわたしがホープの成長した姿だって思っていると思う」
「今トラリアで知られているここへの来かたは、皇鳥便だけなの。お父様は、リセの部屋の本棚から、今の地上じゃないどこか別のところへ二人をやった。皇鳥便は使えても、少なくとも今のトラリアには戻って来られないように。でも、サクはそれで来たんじゃないって言った。つまりそれは、サクが気付かなかったか、皇鳥便のない地上の時代が別に存在するってこと」
レベッカは頭がいい。朔は、彼女の推理についていこうと必死で頭を巡らせる。
「鳥一族が行き来できるのは、基本的には今の地上だけのはず。たまに過去や未来にも紛れ込むみたいだけれど。でもね、どの時代にも、皇鳥便は存在していたのよ、少なくとも今まで鳥一族が行った時代にはね。ただ、皇鳥便はその時のトラリアとしか行き来できないだけ。あたしの言いたいことはわかる?」
レベッカは、目の前の大きな黄緑色の四角い皿に、フォークとクリームを使って器用にすうっと一本の線を描く。
「つまり、これがトラリアの時間軸。こっちが過去で、ここが今で、これが未来ね。それで」
続いて彼女は、それと平行にもう一本の線を引く。
「これが地上の時間の流れ。この間を、はしごみたいに垂直の方向で、皇鳥便は行き来する。鳥一族だけは、たまに過去や未来も行き来できる」
フォークは二本の線の間を垂直に繋いでいき、時折はしごの段がななめに行き交う。
「あたしに考えられるのはここまで。サクはどう思う?」
フル回転した頭をしばし休めるように、レベッカはふうっと椅子の背にもたれる。
「それに、サクはおとなでしょう。スズと同じ歳じゃない。双子だとしたら、これは、おかしい」
スズは、幼いなりに会話に参加しようと試みていた。
「妹が自分より倍も歳上なんて、たしかに変な気分ね」レベッカは自分の思考を止めないようにしながらも、妹に相槌を打ってやる。
「そうね、世界がこの二本の線の行き来だけで出来ているとすれば、不可解なことがいくつかある。まず、地上に降りた二人が、今の地上じゃなくて過去や未来のどこかに降りたとしても、かなりの確率でそこに皇鳥便はあったはずでしょう? 違う時代のトラリアに戻るくらいなら皇鳥便を使わなかったとしても、せめてそれでトラリアに行こうとする人に手紙のひとつくらい託すんじゃないかしら? そうすれば、スズとホープの演奏を止められるじゃない。だから、地上の過去に二人が行った可能性は薄いと思うのね。それに、仮にわたしがホープの二十四年後の姿だとして、彼女たちが地上の未来に飛んだ可能性も薄い。わたしは、地元にあるちょっと変わった図書館からこの世界に入り込んだの。このまま何らかの方法で地上の時間軸に降りたとしても、わたしがもと来た場所には戻れない気がする。わたしの世界に皇鳥便なんていうシステムはなかったし、それに、わたしの世界では、こういう島は空に浮かべないことになってる、物理的に。『伝説の空島』は確かに存在する。けれどそれは、マンガや映画の中にだけ。つまり」
朔はレベッカからフォークを受け取り、クリームをたっぷり付けて、黄緑のキャンバスにもう一本、長い線を付け足した。
「トラリアのない世界がある。とすれば? そこにサンドラ様とホープは飛んで、そこでわたしは成長した。それをどういうわけかルカが見つけ出して、エネルギーポイントを使ってわたしをここにねじ込んだ。これで理屈が合わない?」
目の前の二人は黙っていた。
「それで、サクはどう思うの? そんな難しいのは抜きにして、サクは自分が、スズのもう一人の妹だって思う?」
スズが疲れたように自分のフォークを弄ぶ。トラリアの夏は日が長いから、まだまだ太陽は高いところにある。けれど、三人ともそろそろ城に帰らなければならない時間だ。
「さっぱりわからないわ」
かちゃん、と朔はフォークを皿に投げ出す。
「あたしも」「スズも」
三人が顔を見合わせて吹き出した瞬間、両手に山ほどミルクやパンやらを抱えたミセス・オーラが、扉を足で蹴り開けながら入ってきた。
「あーら、二人も来てたの! ね、ケーキをたくさん焼いておいてよかったでしょう?」
そう言って彼女は、息を切らせながら朔にウィンクした。
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第16章(1)「音楽をもういちど」(王 四十七歳)
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ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。
文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。
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