【長編小説】『空色806』第16章(2)「音楽をもういちど」(王 四十七歳)

空色806

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【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)

 「ねえ、優等生でいることだって、結構大変なんだよ」この薄暗い部屋でなら、言える気がする。レベッカのよく通る声がニーマを包む。

 「あたしはよくできる子じゃなくちゃならなかった。あまりわがままも言わないで、王家の長女として、いろんな勉強をしてきた。武術だって、しっかりとこなしてきた。特にあの日からは、いなくなった妹の分も、そしてお母様の分も、傷ついたお父様の心を埋めてあげたかった。うちには男の子がいないから、いずれあたしがスズを守らなくちゃいけない時が来るかもしれないし。はじめのうちはね、ただ褒められるのが嬉しくて、必要とされたくて、そうしてたの。そうせずにはおれなかったの。そうじゃなきゃ、あたしはここに残った価値がないから。でもね、だんだんとわかってきたよ。それってあたしなんだろうかって。ちゃんと、あたしなんだろうかって。お父様が王様じゃなくなった時、あたしはお父様の期待だけに頼らずに、ちゃんと自分を生きられるんだろうかって。そう思ってから、できるだけそんなふうに自分ってものを見ながら毎日を生きるようにしているんだ。もちろんまだまだ癖みたいなものはぜんぜん抜けないけれど、だって優等生でいるってことは心地良いからね、でも、世界がちょっとだけ怖くなくなった。その分、みんなに愛してほしい見てほしいって気持ちが、みんなが大好きだって気持ちに傾くの。合ってるのかな、これで。わかんないや。でも、ニーマだけじゃないんだよ、そんなふうに思っているのは」

 最後の方は、涙声に紛れてしまった。リセがレベッカの頭を撫ぜた。

 「レベッカ様の教育係は、ある意味で私には試練でした。この方はどこかしら、私の幼い頃に似ていました。自分で言うのも何ですが、よくできる長男長女というのは、無意識のうちに背伸びをしてしまうのかもしれませんね。そうすることで、つまり周囲の期待を充たすことに自分の価値を見いだすことで、自分の内面というものと向き合うことを避けてしまうのです。それはある意味で楽なことでもあるけれど、生き地獄でもある。何もかもが怖いのです。そうして遅かれ早かれ、自分の一番奥の部分が空っぽであることに気付かざるを得なくなる。でも」

 言いながら彼は、横で涙をこらえる十三歳の少女を優しく見つめる。

 「レベッカ様は、この五年で見違えるほど逞しくなられました。もちろん見た目は美しく、そして内面も。私はこの五年間、この方の成長をまともな、つまり葛藤を抱えた状態の自分で見られなかったことに対して惜しかったとさえ思っています」

 みんなの思いが交差していた。ぐちゃぐちゃになるほどに、本音だった。人は、嘘をついているのではなくても、日常をむき出しの本音で過ごすことはなかなかできない。暗闇は、人を正直にさせる。

 「レベッカ、おいで。すまなかった」王はその胸に娘を抱きしめた。五年間の空白を埋めるように。明るく活発で、欠けたところのない少女は、その胸で子どものように泣いた。しばらくの間、一同はただ静かにその泣き声を聞いていた。その他には、物音ひとつしない。世界はこんなにも静かになることができたのか。ロボットのオーイシは何を思っていただろう、彼にも心があるとすれば。朔は、そのあいだずっとスズの手をしっかり握ってやっていた。

 「ルカ、お前はまだ演奏を望んでいるのか? 自分のためではなく、ルルのために」
 ふと思い出したように、王がルカのほうへ視線を向ける。

 「僕のためだと? 余計なおせっかいだ。僕は、今の仕事に、今の生き方に、今の仲間に満足している。僕を見下しているその態度が気に入らないんだ!」ルカが答える前に、隣にいたルルが声を荒げ、従兄弟の胸ぐらを揺さぶる。

 「わかってるよ!」ルカがその細い目を少しだけ見開く。彼がこんなにも感情的になるところは、誰も見たことがなかった。

 「別にお前のためじゃないよ。そう思い込もうとしていただけだ。自分のためだ。未だに鳥一族とまともに目も合わせてくれないお前を、僕が見ていられなかったんだよ。お前は知らないだろう、お前のペンキ塗りのおかげで、どれだけ郵便業がやりやすくなったか。お前のポンチョのおかげでどれだけ鳥一族の死亡率が下がったか。飛ぶ人間ってのはな、地上の人間に狙われやすいんだよ。あそこでは、他人と違うことは悪なんだ。生意気だって握りつぶされたり、見世物にされたりするんだよ。地上に降りるようになって、僕はトラリアがいかに生きやすいところかを思い知ったよ。ごく普通に見えるスズ様が、自分は特別なものを持っていないって悩んでいるくらいなんだから。地上に行ってご覧。みんな努めて他人と同じように見えるようにふるまいながら、心の中だけで自分は特別だって思ってるんだ。お前はまだ、自分で自分を受け入れられていない。僕にはそう見えた。どれだけ鳥一族が、仲間としてお前に感謝してるか、お前は知ろうともしない。僕たちを見る時の、お前の怯えたような目から、僕が解放されたかったんだよ。だから、あの演奏を国中に聴かせて、お前の葛藤も僕のやりきれなさも、全部なかったことにしたかったんだよ。どうだ、笑えるだろう? これで満足か?」

 「違うでしょう」

 違う。ルカの言っていることは違う。さっきから心の中で何度も繰り返し言っていたことが、ついに口をついて出た。

 「あなたはわたしに来てほしくなんてなかった。ほんとうは」

 朔は、一週間前に頭を叩いた、強烈な違和感の正体をすでにつかんでいた。

 あの会議室で自分が発した言葉を反芻する。頭の中で。

 『どうしても地上での生活に違和感を覚えていたのは確かです。それで、わけもわからないままに、目の前に現れたルカの言うとおりにして、気がついたらキベの部屋にいた』

 ルカの言うとおりにして。
 違う。これもちがう。

 「ルカ、わたしはあなたに見つけてもらって、ここに来た。丁寧にここへの飛び方を教えてもらって」
 ルカは朔をじっと見ている。彼の目は、吊り上がった細い目は、何を考えているのか全くわからない。

 「そして、わたしはあなたの言うとおりにして、ここに来た。キベの小屋にあるエネルギーポイントを通って。でも」
 朔は確かめるのが怖かった。この人はそんなことをするはずがない、そんな弱い人ではないと信じていたかった。けれど、もうそれはほとんど確信に変わっていた。

 「わたしは間違えたの。最後の手順を、間違えたのよ。ねえ、これが意味することは、わかる? あの時、キベの小屋にわたしを迎えに来た時、あなたはこう言った。どうしてここに、と。もし手順を間違えなければ、わたしはどこに行くはずだったの? あの、逆行不可能なはずの、リセの部屋? あなたは」

 ごくり、と唾を飲み込む。言わなくちゃ。言わなくちゃいけない。

 「あなたは、わたしを殺すつもりだったの?」

 逆行不可能。リセの部屋のエネルギーポイントからトラリアに入ってくることは、少なくとも「正常な状態で」入ってくることは、できないはずだった。それは、ルカだって当然知っていた。

 全員の目が、ルカに注がれる。彼は頭を垂れることもなく、ただまっすぐ一点を見つめていた。しかしその目からは、誰も何も感じ取ることはできなかった。

 呼吸の音。心臓の波打つ音。手を強く握る時に擦れる肌の音。人は、どれだけ静かなところにいても、自分自身が発する雑音から逃れられない。生きている限り。

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第16章(3)「音楽をもういちど」(王 四十七歳)

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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