【長編小説】『夢のリユニオン』第2章「不健全な魂を救う職業」

星空

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【長編小説】『夢のリユニオン』概要・目次

「それでは、今月から広域営業統括本部第一営業支部に配属になった佐々木の活躍を祈って、乾杯!」

大手チェーン居酒屋の広い座敷の中央で、支部長の田部が大きなジョッキを掲げている。全員に飲み物が回るのを待つあいだに、グラスの中の泡はすっかり消え失せてしまっていた。
透き通った黄金色の液体は、ただの空気の集まりでしかない白い泡を飲み込んで、ひどく不味そうに見えた。

「乾杯」「かんぱーい」「乾杯っ!」座敷のあちらこちらから、田部に続く声が聞こえる。

アイスクリームを食べる気すら失せるほど、体じゅうの血液が沸騰しているような暑い七月のある夜、松永栄一(まつながえいいち)は自分の部署に配属された新入社員の歓迎会に出席していた。

夏はビールメーカーにとって書き入れどきだ。正直なところを言うと、松永は今日も得意先を回りたかった。けれど、新しい仲間の歓迎会となればそうもいかない。
今は小さな声で自己紹介をする彼女も、一年もすれば自社製品への愛着が湧き、汗を流して担当先へ熱心に商品説明をすることになるのだ。

松永は、この会社の社員たちの熱さが好きだった。皆それなりにやりがいと信念と誇りを持って自社製品を世に送り出していたし、そこには疑問の入りこむ余地はなかった。
社内での陰湿ないじめのようなものも、松永の目の届く範囲内という但し書き付きではあるが、まったくといっていいほどない。

何より、自分はビールメーカーの最大手で働いているのだという優等生的自負が、全員の心の中にあった。
そしてその傾向は、業界の二番手に甘んじていたころから最大手を勝ち取った経験を持つ、松永より少し下の世代以上の社員により強く見受けられた。

「課長、これからよろしくお願いします」

かけられた声に振り向いた松永の目の前で、漆黒のポニーテールが揺れていた。
見ると、まだ体に馴染まないスーツを纏った佐々木が瓶ビールを手に松永の隣の席に座っていた。日に焼けた肉付きのいい脚が、スーツの布地を押し広げている。

「おお、ありがとう」松永はグラスに残ったぬるいビールをぐっとひと息に飲み干し、佐々木の方へ空のグラスを差し出した。

「みなさん優しそうな方で安心しました。右も左もわかりませんが、一生懸命がんばります。よろしくお願いします」

「大きな部だけれど、営業は五人くらいのチームを組んでやるんだ。佐々木は俺のチームだな。最初はわからなくて当たり前だから、やる気さえあれば大丈夫だ」松永はそう言って、得意の人懐っこい笑顔を見せて佐々木を安心させようと試みた。俺はいつから、こんなおっさんみたいな台詞を恥ずかしげもなく吐くようになったのだろう。

「私、お酒が大好きなんです。これからは、サンドビールのあるお店を選ぶようにしなきゃ」そう言いながら、佐々木はビール瓶の中央を後生大事に握りしめている。ああ、ビールがぬるくなる。喉まで出かかった言葉を、松永はぐっと飲み下した。

「いい心がけだ。でもプライベートでは気楽にな。好きなものを飲めばいい」

松永はこの数年のあいだで、新入社員との接し方、距離の取り方のようなものを心得ていた。彼らは松永たちの世代とはどことなく、けれど決定的に温度や周波数が違った。

最初はこんなふうにひどく生真面目に意気揚々と乗り込んでくるが、そのテンションは数年と持たない。そんなふうに感じるのは、松永が歳を取ったせいだろうか。それとも最近の若者の傾向なのだろうか。あるいは、名状しがたい世界の流れのようなものなのだろうか。

佐々木は見るからに優秀そうな女性だった。
新入社員の義務である三ヶ月の工場研修期間を経て、いきなり広域営業統括本部に配属されたのだ。一年目でここに配属される人間など、松永がここに来てから一人も見たことがなかった。
その事実は、三年の工場勤務、五年の地方支社勤務、さらに五年の工場勤務を経た後にようやくここに配属になった松永に複雑な感情を起こさせた。きっと幹部候補生として期待されているのだろう。

新入社員と共有できる感情が少なくなったのは、きっと彼らだけのせいではない。
空腹状態で立て続けに流し込んだ黄金色の炭酸水のおかげで、体が宙に浮いたような心地よさが松永を包む。

松永は、もともとお酒が強い方ではなかった。ふうっ、とわざとらしく大きく息をついてみた。頭のなかをもやもやと漂い続けるアルコールを、息とともに吐き出してしまう。

四十歳か、とただそれだけ思った。

その日の深夜、正確には翌日のまだ日が昇らないうちに、二人の同僚とタクシーの相乗りをして松永は自宅へ帰った。かつて松永が幼いころに父親がしていたような派手な遊び方も、タクシーチケットの濫用も、松永にとっては遠い国の神話だった。

自分が働き始めたのがバブルが弾けてからでよかった、と松永は感じていた。どちらも経験していたら、きっとそのギャップに耐えられなかったろうから。
それでも人は、夜に酒を飲みつづけた。
頭にもやをかけ、日常の嫌なことや現実の厳しさをひとときでも忘れるために。そうしてなんとか、正気を保って残りの人生を消化していくことができるのだ。

あるいはそれは陰気な歪んだ捉え方かもしれない。けれど酒には、間違いなくそのような類の魔法が含まれていると松永は信じていた。酒を通して人は「規則正しい健康的な生活」からは決して得られない快楽を得て、心の裏側をほんの少し垣間見せる免罪符を手に入れ、合法的に小さな罪を犯す。
弱い者だけが、その魔法を手懐けられずに溺れていく。松永は、人間に宿る不健全な魂を救う仕事をしているのだと思っていた。

会社のある駅から電車を乗り継いで四十分。そこからさらに自転車を十五分こいだ先に、松永の自宅はあった。今日は白みはじめた空を背景にした我が家を車内からぼんやりと眺める。

ごく普通の十階建てマンションの八階にある角部屋。
そこで松永は大学時代からの同級生である妻と、中学生と小学生の二人の子どもたちとともに暮らしていた。4LDKのその部屋は、二人の子どもを持つ家庭にとって過不足ない広さと部屋数を有していた。

これまで何度も転勤を繰り返してきたし、妻は専業主婦としていつも松永に付いてきてくれていたから、家はずっと賃貸住宅だった。今さら家を購入するつもりもなかった。
松永は、入居して五年が経ってようやく手に馴染んできたドアの取っ手に手をかけた。

その日は取っ手の温度がいつもと違っていたように思えた、というのはあとからいくらでも言うことができる。そのドアの重さも、色も。けれどその時の松永は、そのような些細なことに気がつくにはあまりにも酒を飲んでいた。

彼はいつものように、ドアの内側についている郵便受けから自分の夕刊と、何枚かのダイレクトメールを取り出して家の中に足を踏み入れた。
今やメールでさえも古くなりはじめたこのネット社会で、紙のダイレクトメールはまだまだ毎日のように家庭の郵便受けに飲み込まれていた。

その中から、和紙でできた白い封筒が玄関に落ちた。ああこれか、と松永はぼんやりと先ほどの電話を思い出しながら手紙を拾い上げた。これが佐藤の言っていた封筒か。

「ただいま」

松永はひっそりと寝静まった自宅に、小さく帰宅の挨拶を済ませた。

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第3章(1)「不健全な魂を救う職業その2」

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