【長編小説】『夢のリユニオン』第3章(1)「不健全な魂を救う職業その2」

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【長編小説】『夢のリユニオン』概要・目次

松永が新入社員を迎えるのと時を同じくして、彼の同窓生もまた、揃って四十歳になった一年を過ごしていた。誕生日が早い者たちは、すでに四十一の年に突入していた。彼らの中で最後に四十路の大台に足を載せたのは、誕生日が三月二十七日の藤井叶子(ふじいかなこ)だった。

人間に宿る不健全な魂を救うという意味あいにおいては、彼女もまた松永と同じ類の職業に就いていると言うこともできるかもしれない。彼女は精神科医を生業としていた。

松永たちと学び舎を共にしていた高校生のころから、彼女は人の「こころ」を解明してみたいと考えていた。
目に見えない人の「こころ」のメカニズムや法則性のようなものを見出し、それが実際に個人の「こころ」にどの程度当てはまるのかを確かめてみたいと。
そのころ、彼女の母親は精神的な病を抱えており、母親は彼女が大学生の時に自殺した。
それから、藤井は個人的な性向と病の境界線、西洋医学からの疾患集中的アプローチの可能性を探り続けてきた。

「薬はなるべく使わない。けれど、一度病に抱え込まれてしまった心は、単に物ごとの捉え方を変えようとする頭のなかの努力だけでは解決しない」というのが彼女の信念のようなものだった。
彼女は一九九二年度の希光(きこう)学園高校卒業生で同じクラスだったメンバーの中で、二番目に年収の多い人物だった。一方で、高校時代に彼女と成績トップの座を争った大谷は生活保護を受けているのだから、人生はわからない。

その日、つまり松永が例の歓迎会に参加していたころ、藤井は夜の診療を行っていた。
昨日は海の日の振替で臨時休業を取ったためか、あるいは水曜日のノー残業デー的恩恵のためか、予約は隅から隅までぎっちりと詰まっていた。藤井の経営するクリニックは、控えめに言ってもかなり繁盛していた。

医者が繁盛するのは喜ばしいことではないが、それでも自分が精神を病んだ人に対してなにかできることがあるのはありがたいことだった。
彼らは場所を求めていた。
働く意味、勉強する意味、愛想をふりまく意味、愛する意味、生きる意味について、まるで延々と回る観覧車のごとく思いを巡らせながら、それを吐き出せる場所を求めていた。

この領域では外科のように、患者の患部をきれいに取り除いてやることはできないのだということは、藤井も承知していた。だからこそ、やりがいがあった。
人々の話に耳を傾け、むき出しの桃のように繊細で傷つきやすい混乱したこころを薬の力でほんの少し麻痺させ、しっかりと自分に向き合わせる。
薬のコーティングでわずかに強度を増した自分のこころに、自分で刃を突き立てさせる。

他人を攻撃しようとする者はもちろん、一見して自分を傷つけて自分を責めているように見える者も、ただ問題から目をそらそうとしているだけだった。
彼らはこの社会の中に看過できない問題を見つけ出す能力に長けており、同時にそれを自分の中で咀嚼し嚥下するだけの強さを持ち合わせていないのだった。

だから、藤井は付き添ってやった。
一人では寂しくて、怖くて、自分と向き合えない人々のそばで話を聞いてやった。彼らに道を示すことはせず、ただ彼らが暗闇の中で足を一歩進めようとするときに、手を握ってやった。それは藤井にとって、終わることのない母への罪滅ぼしのようなものだった。

人のこころの手を握ることは、時に危険な作業を伴う。患者が崖から落ちてしまえば、自分も巻き添えにされかねなかった。自暴自棄になって、自ら崖を飛び出す者さえいた。
精神科医には、目の前の人と深いところでこころを通じ合わせながら、同時に自分の本当の奥底の領域はしっかり守っておくような技量が必要とされた。

藤井は自分にそのような能力が備わっているとは思えなかったが、どういうわけか人のこころに寄り添うコツのようなものを知っていたし、それでいて自分がそちら側に引きずり込まれるというようなことはなかった。人のこころはわからないものだとさんざん教えられてきたのに、藤井には目の前の人が、表面的ではなく魂で欲している言葉や態度がなんとなくわかるのだった。
そして人々は藤井のもとに集まり、その多くは数ヶ月から数年で藤井のもとを卒業していった。そのたびに藤井は、自分の中に何かを与えてもらったような気持ちになり、同時に何かが大きくすり減ったように感じるのだった。

それでもその日の診療は、いつもよりも三十分長引いただけで終わった。
心療内科という性質上、藤井のクリニックは完全予約制を取っている。三十分のあいだに三人の予約を入れ、初診の場合のみ一人に三十分を割いた。
手に負えない急患は、かつて勤めていた大きな病院に回した。女一人では物理的に手に負えない状態に陥る患者もいた。

 「お疲れさま。遅くなっちゃってごめんね」藤井は誰もいなくなった待合室に出て行くと、受付で片付けをしている女性に声を掛けた。

 「いえ。先生もお疲れ様です。お茶、淹れておきました」ここで働き始めて二年になる金城(かねしろ)が待合室の机付き椅子のひとつを指差した。

空気のような子だ、と藤井は思う。愛想は決して悪くない。けれど無駄な発言をせず、いつも一定の距離感を保ち、他人にも自分にも多くを求めず、ひどく安定している。うちの患者たちとはまるで正反対だ。
藤井はそのような人物をあえて採用していた。人の態度に敏感になっている患者たちを刺激せず、怒らせることもなく、明るすぎるエネルギーで影響を及ぼしてしまうこともないような。

柔らかい椅子に腰を下ろし、ふうっと息を吐き出してから目をつむった。温かいお茶が喉から胃のあたりにかけてじんわりと降りてゆく。鼻から抜けるジャスミンの香りが心地いい。

「今日はジャスミン茶なのね。おいしい」そう言って藤井は、金城に微笑みかけた。

「はい、予約がつめつめでお疲れだろうと思いましたので」

「ありがと」藤井の肩の力が抜けていく。

目の前の相手を傷つけないように細心の注意を払って話す必要が無いというのは、実に気楽なものだった。
人と話すというのは、こんなにも簡単なことなのだ。あとはそれに気づくか気づかないかだけなのよ、と藤井は先ほどまで話していた対人恐怖症のサラリーマンに向かって呟いた。

彼は職場でいつも必要以上に人のこころの動きを察知してしまい、下痢が止まらないらしかった。
あなたに見えている「人のこころ」なんて、所詮あなたがそう思い込んでいるにすぎない。言葉に出てこない部分は、どうにだって好きに解釈すればいいのに、と藤井個人は思っていた。

けれど、精神科医としての藤井は、そんな彼のこころに寄り添う必要があった。難しい仕事。でもたぶん、天職。

金城と簡単に清掃を済ませ、藤井は帰路に就いた。時刻は午後十時。これからクリニックのある駅から電車で十分の自宅の最寄り駅に向かい、十一時までやっている駅のスーパーで半額になった惣菜をいくつか買う。いつものパターンだ。

「スーパーが店を夜遅くまで開けはじめたのは、残業の多いサラリーマンのニーズに応えたんじゃなくて、日本を残業のできる社会にするためのインフラ作りだったんですよ」

藤井はまたも患者のこんな言葉を思い出していた。彼は大手チェーンスーパーの過労気味の店長だった。その時の自分はなんと言葉を返したのだろう。患者の言動はメモを取っているが、自分の言葉までは記録していない。

「あなたのおかげで今日も夕飯にありつけます、ありがとう」おそらくこんなところだ。そして実際には、使い込まれたショート寸前の思考回路を冷やしながら、胃袋と相談している。

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第3章(2)「不健全な魂を救う職業その2」

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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