【長編小説】『夢のリユニオン』第3章(2)「不健全な魂を救う職業その2」

星空

▼概要・目次はこちらをご覧ください▼
【長編小説】『夢のリユニオン』概要・目次

藤井は独り暮らしをしている。ほとんど男性と付き合った経験もなく、友人と最後に会った日さえも思い出せない。母親は死に、父親は母の死後すぐに再婚した相手と新しくできた子どもと三人で暮らしていた。
父親との関係はそこまで悪くなかったものの、すでに成人していた藤井は父親と距離をおいた。父はその心遣いに内心感謝しつつ、学費と生活費だけは毎月多すぎるほどに藤井に送った。

孤独といえば孤独かもしれない。けれど、藤井はその孤独を自分の胸の中で飼うだけの場所を保有していた。ほかにこれといって入れるべきものもない。
人のこころほど信用できず、不安定なものはない。藤井は自分だけを信じ、自分だけですべてを完結させていた。そしてその人生に概ね満足していた。

ピピピッ。マンションの玄関に付いているオートロック機能が、今日も正常作動の音を鳴らす。レジのバーコードリーダーのように。電子レンジのように。寸分の狂いもなく、正確に。
藤井の目の前に、顔が映るほど磨き上げられた大理石のロビーが広がった。昼も夜も絶えず穏やかなオレンジ色の光を灯すシャンデリアの下、観葉植物が中央に浮かび上がっている。藤井がクリニックの内装を考える時に参考にした配置だ。

「大人の一人暮らし」というコンセプトで売りだされたこのマンションは、家賃が十三万円の1LDKだ。自分一人を養えばいいだけの藤井にとっては、痛くも痒くもない値段だった。死ぬときに不動資産として残っても困るため、藤井はずっと賃貸暮らしを貫いていた。

できるだけ身軽に生きる、というのが彼女の信念のひとつであった。別に派手で豪華でなくともよかった。
ただ、静かに暮らせる場所が欲しかったのだ。そういう点において、このマンションの住人たちは文句のつけようがなかった。
独り暮らしを目的とし、一ヶ月に十三万円もの金を家に注ぎ込める暮らしをしている人間というのは、自ずと似たような空気を帯びてくるものなのかもしれない。

ロビーの右奥に位置する郵便受けから手紙を何枚か取り出した。ガス代と携帯電話とクレジットカードの領収書に、三年前に行った四国の旅館からこまめに届く宿泊案内。

昨日は一日中家で過ごし、今朝はそのまま出て行ったため、二日分の郵便が溜まっていた。
マンションの規定でチラシ業者の出入りを禁じており、ここの郵便受けたちにはダイレクトメールの類は投函されなかった。藤井はこのマンションのこういった点が気に入っていた。

こちらの行動はなんら制限を受けず、同時に外部からこちらへの働きかけは誰かが制御してくれている感じが。まるで注意深く設計されたテーマパークの中に住んでいるみたいだった。
静寂に満ちたテーマパーク。悪くない響きだ。その落ち着かないほどの非日常性は、藤井の心を落ち着かせた。仕事のメールにも「大人の一人暮らし」があればいいのに、と藤井は思った。

ふと、手触りの良い和紙でできた封筒が一番下にあるのに気がついた。一見したところ、結婚式の招待状のように見えなくもない。ロビーの光の加減でわずかにくすんだ茶味がかってはいるが、ほとんど純白に近い色をしている。

藤井は訝しく思わずにはいられなかった。ただでさえ少ない友人の多くはすでに結婚、あるいは離婚を済ませており、二年前にここのマンションに移ってからは藤井の住所を知る友人などほとんど皆無に等しいはずだった。
加えて、封筒には「藤井叶子様」と手書きで書かれているだけであり、藤井の住所も、差出人も書かれてはいなかった。瞬間、藤井の背中にぞくりと冷たいものが走った。

このような場合には、完膚無きまでの静けさというのは恐怖を煽る要因になりえた。藤井はその純白の手紙を含めた郵便物を鞄にしまい、代わりに手に提げたビニール袋に収まっているマカロニサラダがそこにあることを確かめた。そして自室へと足早に向かった。

藤井の部屋は、二十階あるマンションの八階に位置していた。どの階のどの部屋も判を押したように同じ、かどうかはわからなかった。藤井は現在住んでいる部屋しか見たことがないのだ。玄関で家中の電気をつけると、白で統一されたLDKが姿を表した。

藤井はその瞬間にほうっと、詰めていた息を漏らした。彼女は暗闇が苦手だった。
暗闇は押し入れを連想させた。藤井の母が、かつての藤井を優しく閉じ込めたそれを。当時の藤井は抵抗しなかった。母は泣きながら謝って藤井を押し入れに入れていたのだ。
おそらく彼女自身もどうしてこんなことをしなくちゃならないのか、わからないままに。

まだ医療の知識のない藤井にとってできることは、静かににっこりと微笑んで母を受け入れてあげることだけだった。藤井には、母に甘えた記憶がなかった。
そして、暗闇に苦手意識を感じるたびに母を否定しているような気分に襲われ、罪悪感を持つようになった。

白のテーブルに置かれたその封筒は、ほとんど何の違和感もなくそこに馴染んでいた。人々に踏みしめられた雪の上に新たに降り積もる新雪のように、わずかな柔らかささえ持って。
藤井は領収書の類をまず最初に開封し、そしていつもは開封せずに捨ててしまう旅館の案内も開封し、中身を丁寧に点検した。そしてついに部屋の明るさに後押しされ、封筒を開封した。
きつく糊付けされたその封筒は、元の形もわからないほどにびりびりに破けてしまった。そこにはたった一枚のコピー用紙が入れられているだけだった。

「なにこれ」藤井はその一行目を読んだ瞬間に、眉をひそめた。

「くだらない」そしてそのまま他の郵便物と一緒に捨ててしまおうとした。

しかし、何かが藤井を引き止めた。職業上、このような「何か」など存在しないと藤井にはわかっていた。すべては自分の脳から発せられる情報の顕れ方に過ぎず、超自然的なものなど存在するはずはなかった。そして藤井は結局、その紙の内容を最後まで読み切ってしまった。

「なにこれ」一度目とは違った温度で、藤井は再び同じ言葉を吐いた。

▼続きを読む▼
第4章(1)「絶対的平凡と相対的平凡」

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

新刊発売中!

できることなら、十四歳という年齢はすっとばしてしまえるのがいい。
冬に元気をなくす母親と、影の薄い善良なフィンランド人の父親を持ち、ぼくは彼らの経営する瀬戸内市の小さなリゾートホテルで暮らしていた。ある時なんの前触れもなしに、ぼくにとって唯一の友達であったソウタが姿を消した。学校に行くことをやめ、代わり映えのしない平穏な日々を過ごすぼくの生活に、少しずつ影が落ちはじめる。

『レモンドロップの形をした長い前置き』
著者:田中千尋
販売形態:電子書籍のみ
販売価格:450円(※Kindle Unlimitedをご利用の方は無料で読めます)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。