【長編小説】『夢のリユニオン』第4章(2)「絶対的平凡と相対的平凡」

星空

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じじじじじじりじりじりじり。

体の大きさのわりにやけに大きな声で鳴き続けるアブラゼミの声を聞きながら、佐藤は自宅へと向かっていた。
ここのところ、三十五度を超える猛暑日が続いている。俺が子どものころなんて、三十度を超えるだけで大騒ぎだったのにな、と佐藤は思う。
このまま四十度くらいまでこの流れは止まらないのだろう。まるで茹でガエルだ。この暑さは年配の従業員たちにはえるに違いない。

昨年の誕生日に妻が贈ってくれた紺色のポロシャツは、わきから背中の方にかけてぐっしょりと汗に濡れている。首の汗を拭うとき、つん、と汗のすえた臭いが佐藤の鼻を突いた。
体臭対策をしたほうがよさそうだ、と佐藤は思った。正直なところ、年配の者ばかりに囲まれた職場ではあまり自分の服装やにおいのことにまで気が回らない。けれど近ごろ社外の人と会う機会もぐっと増えた。もう若さを武器にすることは難しい年齢に差し掛かろうとしていた。

佐藤の右手首にはめられているG-SHOCKの時計は、午後五時を指そうとしていた。午後から社外で二件の打ち合わせを終え、今日はそのまま直帰することになっていた。
駅のすぐ上で信号待ちをしていると、ぐう、と腹が鳴った。無理もない。今日は午前十一時に早めの昼食を立ち食いのきつねうどんで済ませたきりなのだ。それも、これから向かうフレンチのフルコースのためだった。

今日七月二十日は、佐藤と妻の五回目の結婚記念日だった。確か五年前のその日も、水曜日だった。二人で市役所に婚姻届を提出し、そのあと静かな海辺のレストランで食事をしたのを覚えている。
あのころの自分は、今よりもより平凡だったのだろうか、と思うことがある。それとも会社が大きくなるにつれて、自分の平凡性は増しているのだろうか。平凡性。

「お帰りなさい。もう支度できてるわよ」まだ日の残るうちに自宅に戻ると、妻が水色のワンピースを着て佐藤を出迎えた。肩口から覗くすべすべとした真っ白な二の腕にはしっかりと肉が付いていて、そのマシュマロのような腕に噛みつきたい欲求に佐藤の歯のあたりが疼く。

「そうか、俺も着替えてくるよ。汗をかいちゃったから、シャワーを浴びてもいいかな」佐藤はポロシャツの胸のあたりをぱたぱたと仰いだ。

「いいわよ。時間に遅れるといけないから、なるべく急いでね」妻は半分外に出かかった足を、しぶしぶと言った様子で家の中へひっこめた。

「わたしたち、本当に運が良かったわね」

レストランに向かう途中の車で、助手席に乗る妻が佐藤の方へ顔を向けた。佐藤は酒が飲めない体質だったので、二人はどこへ行くにも紺色のミニバンに乗って行った。彼女は香水をつけない女性で、代わりにワンピースから漂う柔軟剤の石鹸のような香りが佐藤の鼻孔に届いた。

「ほんとうだな。予約の電話、ありがとう」妻はこの日のために、三ヶ月も前の指定予約日に店に電話をかけ、なんとか席をもぎ取ったのだった。彼女は食べることが何にも増して好きだった。この世で一番好きなのは美味しい食べ物で、二番目があなたよ、と佐藤はベッドの中で彼女に言われたことがある。

佐藤と彼女のあいだには、子どもがいなかった。妻は佐藤より十も歳下で、子どもが産めない歳というわけではなかった。けれど、彼らは結婚するときに子どもを作らないという取り決めをしていた。

「わたし、何だか子どもをうまく育てられる気がしないの。個人的にやりたいこともあるし。あなたのことは好きだけれど、それだけはごめんなさい」

別に構わない、とプロポーズの指輪を差し出した格好のまま、佐藤は答えた。なにも、普通にサラリーマンをして、結婚して家庭を持って、子どもを二人作ることだけが平凡な人生だとは思わなかった。
起業をして、自分の二倍以上も歳を食った人たちを従業員に持ち、結婚はすれども子どもは持たない類の平凡性だってあっていいはずだ、と佐藤は考えていた。

予約したその店は、決して高級で手が届かない店というわけではなかった。けれど味は抜群でボリュームも多いため、予約がなかなか取れないのだ。世間の人はみな、ものをよく知っているものだと佐藤は感心した。
そして彼の妻も。佐藤は結婚してから十二キロ太っていた。美食家で大食漢の(とは言っても女性だが)妻と結婚し、寝食をともにしているわけだから当然といえば当然だ。

二人が席につき食前酒のシャンパンとウーロン茶を傾けていると、前菜の盛り合わせが出てきた。料理には、それぞれやけに長い名前が付けられていた。

 「本日は、ラ・シエルにお越しいただきましてありがとうございます」突然、席に隣接する調理場の前に一人の男性が現われ、前菜の説明を始めた。

 「皆様にお出ししております本日の前菜は、赤海老のオリーブマリネ、カナダ産ムール貝、チキンソテージャマイカ風……」

佐藤たちと同じ時間から食事を予約していたのであろう人々が、同じくシャンパンを手に彼の方を向く。なるほどな、と佐藤は思った。こんなふうに予約を二部に分けて、料理の説明と給仕を一気に済ませる。調理の手間も、接客も、コスト削減ってわけだ。
それに、席と席のあいだがそれほど広くはない。フレンチといえば静かでお高くとまっているイメージがあったが、ただ美味しいものを食べたいだけの人なら、こういうやり方だってありなのだ。とても頭に入らない長い説明をシェフがするあいだ、佐藤はすっかり板についた経営者的観点で店を眺めていた。

料理はゆっくりと時間をかけて出てきた。前菜のあとには人参のスープ(佐藤は人参が苦手だった)、鯛のソテー、牛もも肉が続いた。実を言うと、スープのあたりで佐藤の腹はもう十分に満たされていた。
もともとそんなに量を食べる方ではない。
けれど、目の前で妻が実に幸福そうにスープを口に運んだり、肉を噛み締めたりするのを見ていると、佐藤の胸も幸福に包まれ、また箸が進んだ。

彼女の食べ方は、決してガツガツとした、掃除機のような食べ方ではなかった。佐藤が前に付き合っていた恋人は、まさにそういう食べ方をした。普段はほとんど物を口にせず、時おりタガが外れたように食べ物を吸い込んだと思ったら、そのあと泣きながら全てを吐き出してしまうのだ。
当然のごとく、ひどく痩せていた。今となっては、それがある種の精神病だったのだと佐藤にも理解できる。けれど当時の佐藤にとってその行動は、ただの奇怪な行動にしか映らなかった。そういうわけで、佐藤は今の妻の食べ方が好きだった。

「ドルチェはミカンとカシスのジェラート、ガトーショコラ、フルーツ盛り合わせでございます。コーヒーか紅茶をお選びください」シェフが最後のメニュー紹介を行った。これだけの調理を給仕のスタッフも合わせて三人で回しているにも関わらず、シェフの表情には一切の疲れが滲んでいなかった。

「わたし、この一年で死ぬ日を選ばなくちゃならないとしたら、今日の帰り道がいい」この二時間、恍惚の表情を浮かべてため息をつくばかりでひと言も発さなかった妻が、キウイフルーツにフォークを刺しながら呟いた。

「安全運転に努めるよ」佐藤はにっこりと微笑んだ。

美味しい食事とたっぷりのワインですっかりご機嫌の妻を連れて自宅に戻ったのは、まだ夜の九時にもならないころだった。本当は結婚記念日のプレゼントも用意していたのだけれど、彼女のほうがそれを受け取る余力を残していなさそうだった。

佐藤は介護で鍛えた自慢の腕力で妻を部屋のベッドに運び、自分は満杯の胃を落ち着かせるために、眠らない程度に体を横たえようとリビングへ向かった。

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第4章(3)「絶対的平凡と相対的平凡」

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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冬に元気をなくす母親と、影の薄い善良なフィンランド人の父親を持ち、ぼくは彼らの経営する瀬戸内市の小さなリゾートホテルで暮らしていた。ある時なんの前触れもなしに、ぼくにとって唯一の友達であったソウタが姿を消した。学校に行くことをやめ、代わり映えのしない平穏な日々を過ごすぼくの生活に、少しずつ影が落ちはじめる。

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