【長編小説】『夢のリユニオン』第4章(3)「絶対的平凡と相対的平凡」

星空

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【長編小説】『夢のリユニオン』概要・目次

リビングには塵一つなく、床はほおずりして舐められそうなほどに磨かれており、その上に妻の腹よりも柔らかなソファとガラスでできた小ぶりのテーブルが置かれていた。高級住宅というわけではない。妻の手入れが隅々まで行き届いているのだ。

彼の妻は、きれい好きだった。佐藤と結婚したことで、もう愛想笑いを貼り付けた犬のように働かなくともよくなり、代わりに存分に自分の城を手入れしているのだ。
もちろん、佐藤(と自分)のために毎日腕をふるって料理をしてくれる。彼女の幸福は、間違いなく佐藤を幸福にしていた。彼女といることで、佐藤は自身の平凡性が脅かされるような気がしていた。

平凡とは何か。平凡とは、幸福とは反対の位置にあるものなのか?

例のソファに斜めに座ると、すぶすぶと身が沈んでいく感覚があった。このまま溺れてしまいたいような、罪の感覚。途端、佐藤は手持ち無沙汰になった。佐藤の家にはテレビがなかった。
なぜと聞かれても、それではなぜ家庭にテレビが必要なのか、と佐藤が問いたいくらいだった。それでも佐藤はいつも笑って適当にごまかしていた。

世の中、本当に思っていることをそのまま述べてトラブルにならない例のほうがずっと少ない。そのことを、四十歳の佐藤は骨身にしみて知っていた。
特に、価値観の固まってしまっているケースの多い年配の人と話をするときは、肝心なところ以外の自分のこだわりなんてさっさと捨ててしまったほうが楽に人付き合いができる。

とにかく、佐藤の家にはテレビがないのだ。
それについて誰かと言い争う気はない。そういうわけで、佐藤は音楽でもかけようとテーブルの上にあるCDプレーヤーのリモコンに手を伸ばした。そしてそのついでに、妻が郵便受けから取り出しておいてくれる自分宛ての郵便物も掴んで腹の上に置いた。

経営者でないほうの佐藤、つまり自宅の彼宛にはあまり郵便物は届かなかった。保険の契約確認、市からの税金徴収案内、月々の光熱費の明細書、その他これまで利用したあらゆる会社から頻繁に届くダイレクトメール。
それらは確かに「佐藤一朗」という個人名が記載されている郵便物であったが、差出人に佐藤を個人として認識しているものはなかった。記号としての佐藤一朗。代替可能な個人。

だから、「佐藤一朗様」と手書きで書かれた白い封筒は、その中でやけに目立った。差出人も、佐藤の自宅住所も、それゆえにもちろん消印もない、純白の和紙作りの封筒。

川が上流から下流へ流れるように自然に、佐藤はその白い封筒を開けた。満腹感が彼の警戒心を薄れさせていたのかもしれない。上手でも下手でもない、細いボールペンで書かれた個性のないその手書き文字に、佐藤は無意識のうちに共感を覚えた。

どうして個性なんてものがなくちゃいけないんだ。どういう顔をして、どんなふうに振る舞えば「個性」というラインに到達するのか。佐藤は高校を卒業するまで教師に言われ続けた「個性」という言葉を、ついに理解することはなかった。そして彼は今でも個性を持たないままに、いや、だからこそ社会でそれなりにうまくやっている、と少なくとも佐藤本人はそう思っていた。

封筒には、安っぽいコピー用紙が四つに折りたたまれて一枚入っているだけだった。佐藤はそれを取り出し、体勢をやや起こし気味に直してから目を通した。その内容はこんなものだった。

「一九九二年度 希光学園高校卒業生 二年五組の皆様」

それは佐藤の母校の名前だった。今でも時おり、母校のOB会から会報が届く。けれど、偶然取りまとめる人物がいなかったからなのか、それとも自然の流れなのか、佐藤たちのクラスは卒業後にやり取りをすることはなかった。それでもなお実感のないままに、そこに書かれてある文字をただ読み下した。

 「一九九二年度 希光学園高校卒業生 二年五組の皆様
 拝啓
 お久しぶりです。突然のお手紙、驚かれたかもしれません。何せ私たちは、卒業以来一度も揃って顔を合わせていないのですから。さて、私たちも皆四十歳を迎えました。人間八十歳まで生きると仮定すれば、おおよそ人生の半分です。これまでの人生で色々と経験し、またこれからについて思いを巡らせる時期とも言えるかもしれません。そこで、このたび二年五組の同窓会を行うことにしました。出席の可否はありません。ぜひ皆さんに参加していただきます。あなた様にお会いできることを楽しみにしております。


●日時:二〇一六年 八月三十一日 午後十時〜
●場所:希光学園高校 第二学舎 二年五組の教室にて
●服装:こちらで用意いたします
●費用:無料
以上

もちろん、どうしても出席できない、という方も多くいらっしゃると思います。今回はそのような方にもご参加いただけるよう、手を尽くしました。

1,私たちも歳を取りました。頭頂や体型の気になるころかもしれません。場合によっては互いに互いが認識できない可能性もあります。そこで、皆様には高校二年生当時の姿のままで同窓会にご参加いただけるように致しました。あのころの若い肉体と共に、語らいの夜をお楽しみください。

2,仕事の都合等で時間通りにお越しになれない方もいらっしゃるかと存じます。同窓会は翌朝まで開催しております。始業式は九月一日午前八時半から始まるため、それまでに原状に復しておいてくれればいいと、校長から許可をいただいております。遅れての参加も大歓迎です。

3,遠方の方、その他事情あって会場にお越しいただけない方も数多くいらっしゃるかと存じます。そこで、同窓会は皆様の夢の中にて行うことにいたしました。皆様に於かれましては、ただ当日にいつも通り眠っていただくだけで結構です。そこであったことがただの夢ではなく、実際に起こったことだと信じていただくために、このように事前に案内しております。この会が、今後の皆様の人生により華を添えますよう。
敬具
元級友より」

 手紙の内容をすっかり読み終えると、佐藤の頭は冴え渡り同時に混乱した。まず、佐藤は級友たちの顔を一人ひとり思い出してみようと努めた。けれど、いつも同じグループだった四人の男と、その中の一人の恋人が所属していたグループにいた女三人をかろうじて思い出せるだけだった。彼らとも、今ではまったく連絡を取り合っていない。結局のところ、そのグループは成長過程の男女が自分の性格を把握し、自分の道を進むまでの仮住まいとして所属していたものに過ぎなかったのだ。佐藤の頭には、この意味不明の非科学的な手紙の内容よりも先に、いくつかの疑問点が浮かんだ。

 この手紙を、妻は不審に思わなかったのだろうか?

 級友たちも、同様の手紙を受け取っているのだろうか?

 警察に届けるべきなのだろうか?

 五分間ほど思案した結果、彼は級友の中で唯一大学を卒業してからも交流のあった松永栄一の電話を鳴らすことに決めた。最後に話したのはもう十五年も前だった。

「はいよぉっ」つながった電話口の向こうから、上機嫌な男の声が聞こえた。

「もしもし、えいちゃん、松永くんの携帯ですか」佐藤は電話口から酒のにおいが漂ってきそうな声に顔をしかめた。

「そうですけど、どなたさま?」松永の声の後ろで、居酒屋特有の耳障りな喧騒が聞こえる。

「佐藤です。佐藤一朗。よかった、番号生きてたんだね」佐藤はわざと静かな声でそう言った。

「さとういちろー? 区役所の見本に書いてある名前じゃあるまいし」松永は、おそらくわざと大きな声でそう言った。少なくとも佐藤にはそのように聞こえた。
佐藤は、松永が大学生になって酒を飲むようになってから、彼とあまりそりが合わなくなった。単に、酒癖が悪いのだ。そのくせ、酒は人一倍飲むのだった。大学生になってから酒が飲めない体質だと判明した佐藤にとって、それは不快以外のなにものでもなかった。社会人になってビール会社に勤めだしてから、佐藤と松永は自然な流れで疎遠になった。

「じゃあ」佐藤は、今度は少し大きな声で言った。寝室で幸福の中で眠っている妻を起こさないくらいの声で。

「こう言ったらわかるかな。鈴木一朗。佐藤じゃありきたりだからって希光学園の時に君が付けてくれたあだ名」

「ああ! 鈴木か!」電話の向こうの松永は、顔が見えなくとも大きく目と口を開けて嬉しそうな表情をしているのが伝わってきた。

「久しぶりじゃんか。どうしたんだよ」

「いや、それがさ」佐藤はこの状態の松永に手紙のことを言うべきかどうか逡巡したが、もう一度彼に電話をかけることを思うとその憂鬱さが勝ったので、手短に手紙のことを説明した。あるいは、松永がいたずらで手紙をよこしたのかもしれない、とさえ佐藤は考え始めていた。お調子者の松永なら、やりかねない。

「なにそれ、お前夢でも見てんじゃないの」松永は、調子を崩さずに笑った。
「それかストーカーとか? そいつも何の理由があってお前を狙うんだって話だけどな。俺らのクラスなら、俳優になったハルのほうがよっぽどストーカーしがいがあるよ」松永はかつて同じグループで、今は地味だがそれなりに売れている俳優である人物の名を上げた。ハルことが俳優をやっているという事実は、テレビを見ない佐藤にとって初めて聞く事実だった。

「心あたりがないならいい。あんまり飲み過ぎるなよ」佐藤は大学時代に幾度となく口にした元級友への忠告を久方ぶりに口にし、電話を切った。

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第5章「もともと別の方向を向いて生きていたに過ぎない」

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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