【長編小説】『夢のリユニオン』第6章(1)「実際に目の前に現れるものとしての過去」

星空

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【長編小説】『夢のリユニオン』概要・目次

 一九九二年度希光学園高校卒業生二年五組のそれぞれが、四十年分の事情を抱えながら二〇一六年の夏を過ごしていた。

そのほとんどは、人生の中で一番の盛りを迎えていた。
ある者は十年後の左うちわを信じて日夜中間管理職に励み、ある者は子どもとの限られた瞬間を慈しみ、またある者はその狭間に揺れていた。結婚の展望のない者は、その人生計画を独り身用のそれへと緩やかに方向転換しはじめ、逆に自分に磨きをかけることで自らの市場価値を少しでも回復させようと試みる者もいた。

そして同時に、四十歳というのは難しい時期でもあった。社会人として、また親として、もはや新米とは言いがたい時期であるにもかかわらず、精神的には未熟な部分が多く残る。親が急激に老けこんでいく事実を目の当たりにする。自分の人生は紛れもなく折り返し地点を迎えており、思いつくままに何でも挑戦できる時期は終わりかけている。

 このままでいいのだろうか。多かれ少なかれ、誰もがそのような疑問のしみを頭のうしろ、あるいは心臓の左下あたりにずっと抱えながら、日常の忙しさに救われている。そういえば、二十代の後半にも似たような思いを抱えたことがあった、と彼らは思う。
このままでいいのだろうか、と。

彼らのうちの何人かは会社を辞め、結婚し、旅に出た。二十代という身軽さに身を任せて。そして四十歳を迎えた彼らは納得しようとする。あの時さんざん悩んだではないか、と。その結果として、自分は今の生活を手に入れたのだ。もう逆戻りはできないし、今の選択肢以上のものも存在しなかったはずなのだ。

 そんな四十歳たちは、非日常的なものごとに惹かれていく。それは分をわきまえた副菜のような不倫でもいいし、自分の天井をぼやかしてくれるソーシャルゲームでもいいし、今の自分を見せなくてもいいように誂えられた同窓会でもよかった。

 そして、八月三十一日が訪れた。

 この日、同窓会の案内ハガキのことがちらりとでも頭をかすめたのは、引きこもりの大谷を含めてクラスの一割にも満たなかったろう。それでもいい、と同窓会の幹事は考えていた。たとえ忘れられていても、眠ってくれさえすればいいのだから。

 最初に教室に現れたのは、甲林鈴子だった。幼稚園に通う娘を持つ彼女は、九時頃から十一時頃まで娘に添い寝をする。そして夫の帰宅に合わせて再度起きだし、晩酌に付き合いながら翌日の料理の下ごしらえを済ませるのが日課になっていた。そういうわけで、同窓会の開始時刻である午後十時ぴったりに、彼女は懐かしい教室の中にいることができた。

 かつての二年五組は、現在は三年五組として使われているようだった。希光学園では、二年から三年へのクラス替えが行われない。担任も、教室の場所も変わらない。受験勉強が本格化する時期に、新しいクラスに馴染むための負担を生徒に負わせたくないというのと、どのみち行事などないに等しいし、選択科目ごとに移動教室があるため実質的にクラスの存在意義はなくなるから、というのが学校の言う理由だった。それに特段文句を言う生徒もいなかった。

 教室の中は、甲林が覚えているそれとまったく変わりないように見えた。教室はタイムカプセルに入れられて慎重に保管されたか、甲林のほうがタイムマシンに乗って過去に戻ってきたみたいだった。机や椅子は、かろうじて記憶にあるかつての手ざわりとほとんど相違なく、大きさも、大人の甲林が座っても違和感がなかった。卒業以来一度も訪れていないかつての母校が、甲林を思いのほか自然に受け入れていた。

 開け閉めするたびに大きな音のする掃除用具入れ、教室の後ろの壁に取り付けられた中身がむき出しのロッカー、下半分が擦りガラスになっている廊下側の窓、黒板の上に掲げられた長ったらしい校訓。長年忘れていた記憶が、だんだんと鮮明に蘇ってきた。違っているのは、教室全体がかなり使い込まれていること、部屋の前と後ろにエアコンが付いていること、そしてこの教室で学んでいる生徒たちが甲林よりも二十三年あとに生まれた子どもたちだということだった。ふと思い立って、甲林は廊下側から二列目の、前から二番目の机の下をのぞいてみた。卒業する時、同じグループだった藤井と越智と三人でメッセージを書いた場所だ。次にこの席に座る人への、激励の言葉。
そこには甲林の思う落書きはなかった。無機質な、つるりとした金属の物入れが机にくっついてあるだけだった。

 「実香が来年高校生なんだもんなあ」と、甲林は一番上の娘の顔を思い浮かべてつぶやいた。甲林自身、もうそのメッセージの内容を覚えていない。やはり、何もかもが変わってしまっているのだ。不可逆的な時間の流れとともに。

 教室の時計は午後十時十分を指していた。そして、窓の外がすっかり闇に包まれているのを確認すると同時に、甲林は教室内に誰かの影を見つけてぎょっとした。それは、巨大なクジラの胃袋の中のような漆黒の闇に包まれた外の景色と、不自然なほど明るく光る教室内の白熱灯のあいだに横たわる窓ガラスが見せた甲林自身の姿だった。

 「うわっ」甲林はもう一度ぎょっとし、闇の鏡に映る自分の姿から目を離せなくなった。そこにいたのは、見覚えのある少女だった。希光学園の制服である紺色のブレザーに身を包み、化粧っ気のない肌は弾けんばかりにぴんとうるおい、姿勢も普段の甲林よりはいくぶんよかった。そう言えば、肩こりがない。甲林は、そっと肩に手を持って行ってさすってみた。次に頬をさわってみた。手の甲のしわを点検してみた。それらは確かな現実感を彼女に与えた。ここに自分は存在しているんだ。十七歳のからだは、四十歳のこころを持った甲林には持て余してしまいそうに思えた。

 「すごい、すごいすごい」甲林は嬉しくなって、教室内をぐるりと駆けてみた。息が切れなかった。

 「おい、ちょっと落ち着け」突然、甲林の背後から低い声がした。

 「ひい」急ブレーキをかけた甲林が立ち止まると、懐かしい顔があった。

 「ハルじゃん。久しぶり! ね、すごくないすごくない? あの招待状、本物だったんだよ。こんなことってある?」甲林に声を掛けたのは、かつての級友である相沢邦晴だった。

 「お前、なんかキャラ変わったな。高校生の時は、もっとおとなしいイメージだった」相沢は眠たそうに目をこすりながら、空いた手をブレザーのポケットに突っ込んでいる。

 「そりゃ、五人も子ども産んだら逞しくもなるよ。最近どうしてんの? あたしたち、卒業してから全然連絡取らなくなっちゃったもんね」

 思えば、家族とママ友と会社の人以外の人に会うのなんていつぶりだろう、と甲林は思う。結婚して子ども産む前って、どうしてあんなに時間があったのだろう。掃いて捨てるほどに。今ならもっと有意義に使えるのに、と甲林は思った。時間を上手く使う術を身につけるたびに、時間は相対的になくなっていった。走るほどにちびていく、ジョギングシューズのように。そして、時間はシューズのように簡単に買い換えるというわけにはいかないのだ。

 「やっぱり知らない?」目の前の相沢は、明らかに落胆した様子を見せた。

 「おれ、俳優やってんのよ。大学の時に演劇部に入って、そこからわりと本気になっちゃって。相沢ハルって名前なんだけど、聞いたことない? 舞台がメインだけど、今やってるドラマにも脇役で出てる。水曜日の夜十時から放送のやつ。おれ今、結構鍛えてるからいい感じだと思うんだけどなあ。残念ながら今日は高校生の姿だけど」

 「あー、ごめん」甲林は思わず取り繕うように言った。

 「うち下の子が幼稚園だから。九時くらいに寝ちゃうのよ。ほら、だからこの時間にここに来られてるわけ。これ夢の中なんでしょう?」

 がらんとした広い教室に、高校時代の級友である男子とふたりきりでいるというのは、奇妙な心地がした。それも、お互いがかつての姿のままで。

 「そうみたいだな。おれ、同窓会のことすっかり忘れてたんだけど、やっぱり手紙読んだから潜在意識に擦り込まれて、こんなふうにほんとに夢で出てきたのかな。普段は眠り深いから、全然夢とか見ないのに。おれ、高校時代に何の未練があるの」相沢は笑いながら、相変わらずまぶたをごしごしとこすっている。

 「これ、ハルだけの夢じゃないと思う」甲林は周りを見て言った。

 「夢ってさ、もっといろんなことがぐちゃくちゃに混じりあって、時間の順序もばらばらで、高校の同窓会に小学生の時の同級生が出てきたりするもの。こんなふうに生身の感触があるって、やっぱりただの夢じゃない」

 「つまりどういうこと?」相沢は大きなからだの、頭の部分だけを傾けて見せた。

 「だから、現実のハルもこの夢を見ているし、あたしも見ているし、それはあたしたちが何かに未練があるとか、頭の整理をしたいとかそういうことじゃなくて、巻き込まれているってこと。この同窓会の幹事の夢に」小説をよく読む甲林は、この手の話の展開には自信があった。主人公たちは、自らの意思とはうらはらに事件に巻き込まれ、その首謀者に弄ばれながら異世界からの脱出を試みるのだ。

 「ドラマじゃあるまいし」相沢は取り合わなかった。

 「それに、おれたち以外に全然クラスの奴ら来ないじゃないか」

 「これからよ」甲林は相沢の目をのぞき込んで言った。相沢の方は、思わずのけぞってしまった。

 「考えてもみて。四十歳なんて、人生で一番忙しいときじゃない? そんな年齢の人が、夜の十時なんかに布団に入っていると思う?」甲林は得意気に言って、相沢のほうを見て不敵な笑みを浮かべた。

 「確かにそれもそうだな。ああ、おれはあれだぞ。舞台の稽古と撮影で、まる二日寝てなかったんだ。だから今日は早く寝ただけだ。できるなら、夢なんて見ずにぐっすり眠りたいところだ」

 「あと一時間くらいなら、ここで眠れるんじゃない?」甲林は十時三十分を指している時計を指差した。「あたし、旦那が帰ってくるからちょっと起きなきゃいけないし」

 「夢の中でも寝られるもんなのか」そう言いながらも、相沢は言われた通りに机に突っ伏した。
 そうして、教室はまた静かになった。二年五組の同窓会はこのように開始された。

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第6章(2)「実際に目の前に現れるものとしての過去」

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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