【長編小説】『夢のリユニオン』第6章(2)「実際に目の前に現れるものとしての過去」

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 夢を見ない相沢の眠りは、甲林の予想よりも早く終わりを迎えた。突然、部屋の中に大きな音が響いたのだ。相沢の知る限り、それは校内放送を知らせる合図のようだった。音はまず、夢の中にいる相沢の耳へ届いた。それから夢の中で夢のない眠りについている相沢の脳内へと侵入し、彼の意識を呼び覚ました。ぶすっとした顔をして起き上がった相沢の目に映る教室には相変わらず彼以外の人間はおらず、時計は十一時十分前を指していた。

 「まったく、せめて幹事くらいは姿を見せろよな」相沢はわざと大きな声でそう言った。もし近くに誰かが隠れていたとしたら、その人物にも聞こえるくらいに。そして、はたと思い当たった。

 自分は教室を間違えているのではないか。

 その瞬間、相沢はどういうわけかひどくうろたえた。それは、自分よりもあとに事務所に入った俳優たちが、自分よりも先に世間に受け入れられていくのを見送る感覚に似ていた。彼らが主役を務めるドラマで、彼らの勤める会社にいる冴えない上司を演じるときの感覚に。そういうとき、相沢はいつも自分自身に言い聞かせていた。「大丈夫。人にも、世間にも、それぞれの波長とタイミングというものがあるのだ」

 あるいは、自分が俳優などという仕事に就かず、至極まっとうなサラリーマンをしていたかもしれない可能性にもしばしば行き当たった。彼の大学の同級生たちのほとんどは、民間企業あるいは官公庁でキャリアを積んでいた。相沢がそのような道を歩んでいれば、彼はきっとドラマの役ではない、本当の課長になっているころだろう。自分は彼らとは違う世界にいるのだ。そういう自負だけが、彼を支えていた。そしてそのようなことを考えるとき、彼のこめかみは痛んだ。

 自分は道を間違えているのではないか。

 高校生の姿をした相沢の心臓は鼓動していた。なにか、ここが間違いなく二年五組であるという証拠が必要だった。彼は黒板の隣に貼ってある時間割に目をやった。机の中に残されていた、ノートの名前欄を見た。教室の外に掲げられている、クラス名を示すプレートの文字を確認した。どれもこれも、ここがきちんと三年五組であることを教えていた。

 やっぱり、と相沢は思った。けれど彼には今の二年五組を知るすべはなかったし、廊下にずらりと並ぶ教室はどこも暗く死んでいた。相沢としては、これ以上間違いを深めるようなことはしたくなかった。彼は時間が流し去ってしまった多くのものごとのことを思った。そして、待ちかねたようにスピーカーから声が流れた。

 「食事の準備ができましたので、二年五組の生徒は家庭科室前まで取りに来てください」

 その声は、女の声でも、男の声でも、機械音声でもなかった。それは耳から聞き取る類の声ですらない気がした。夢の中で相沢の脳内に侵入したように、その放送音声も相沢の体内に直接働きかけているようだった。

 まったくどうしておれがこんなことに巻き込まれなくてはならないのだ、と相沢はため息をついた。突然一方的に送りつけられてきた同窓会の招待状に、いまだ現れないクラスメイトたち、どこかで高みの見物をしているに違いない幹事。おれは、多忙な毎日の合間にぐっすり眠りたいだけなのだ、と。夢すら見ない、泥のような眠り。しかし、言われてみれば腹が減っていた。その食事とやらをいただいてから眠ってもいいと相沢は思った。

 家庭科室はどこだったか。教室の外に出た相沢の両足は、向かうべき道を探してしばし彷徨った。まるで砂漠に放り出された全自動掃除機みたいに。高校時代に家庭科室を使用した記憶は、相沢の脳内にほとんど残っていなかった。調理という行為に、それほどの興味を持てないせいかもしれない。そこで相沢は、あてもなく歩いてみることにした。どうせそれほど大きな校舎でもないのだし、ここにいても一人で暇を持て余すだけなのだから。

 探していた教室は、そこが発するにおいのおかげで案外すんなりと見つかった。教室のある第二学舎から伸びる渡り廊下に沿って第一学舎に行き、そのまま二つ上がった四階にそこはあった。相沢のからだは、不思議なほどに校舎の感覚を覚えていた。階段の踊り場を包むひんやりとした空気、渡り廊下の幅、その歩き心地。第一学舎のほうに行ってしまえば、あとはにおいのもとをたどるだけでよかった。
 並んだ教室の中でひとつだけ明かりの灯った家庭科室の前には、大きなワゴンが置いてあった。手元のバーには「二年五組」と書かれた青のビニールテープが貼られていて、中には高校生に与えるにはいささか高級な料理が並んでいた。きちんとした皿に盛れば、それなりのレストランで出てくる料理のようにも見えるだろう。ワインではなくジュースが詰められていたところが、唯一高校生らしいといえばらしかった。もっとも相沢は、歳の離れた姉と酒好きな父親の影響で、高校二年のころにはすでに酒の味を知っていたのだが。

 こんな料理をいったい誰が作ったというのか。希光学園には給食の制度はなかった。相沢が登校時にコンビニで調達する弁当は三限の前には空になり、昼休みには売店に走った。そうして相沢はからだの大きな青年に成長した。俳優業では、華奢で中性的な顔立ちの男性のほうが主人公になりやすいというのはあとから知った事実だ。家庭科室の中ではなおも料理を作る音が聞こえている。包丁がまな板を打つ音。鍋の蓋が奏でる金属音。相沢はさすがに、背筋に冷たいものが走るのを感じた。生徒のいない夏休み最後の日、深夜の高校の家庭科室で料理を作る人々がまっとうなこの世の人だとは到底思えなかった。

 そっとワゴンを押しながら、相沢は教室へと踵を返した。今この瞬間にも目が覚めてくれればいいのに、と思いながら。

 逃げたいときに逃げられない夢なんて、まるで現実と同じじゃないか。それならまだ現実のほうがましだ。甲林は、どのようにしてあんなに器用に現実の世界へ戻っていったのだろうか。ワゴンを押しながらの移動は、思ったよりも骨が折れた。そこから漂う美味そうなにおいに、相沢の腹は鳴った。階段のところに差し掛かると、よくできた車椅子のように水平さを保ったままワゴンは自分の意思で降りていった。それならいっそ、教室まで自動で運んでくれればいいのにと思う。機械は奇妙なところで気が利かない。そして、相沢はあることに思い当たった。まだ調理が続けられているということは、他の組でも似たようなことが行われているのだろうか、と。そんなことを考えるうちに例の三年五組の前にたどり着き、相沢の思考は中断された。

 教室からは、誰かの話し声が聞こえた。相沢が家庭科室に行って戻るあいだに、誰かが新たに教室を訪れたのだ。つまり、現実世界で相沢のクラスメイトのうちの誰かが眠りに落ちたことになる。しかし相沢の方はそんなことには思い至らず、先ほどの家庭科室でのかすかな恐怖が先に思い出された。彼の汗ばんだ手はワゴンのバーにかけられ、足はそのままそこですくんでしまった。

 「お、なんかいいにおいしない?」相沢の思いとは裏腹に、教室の中で誰かが立ち上がり、ドアの方へ近づいて来て勢い良く開けた。

 「うわっ」ドアを開けた相手は、驚きで一歩後ずさった。相沢のほうはすっかりからだが固まってしまって一歩も動けなくなっていた。

 「あ、いざわ、相沢だよな」目の前の相手の声に、相沢は顔を上げた。見ると、制服姿の少年がうれしそうにこちらを見ていた。

 「はあ」相沢は彼に思い当たる節もなく、曖昧にうなずいた。

 「覚えてないの? ひでぇなあ。俺、井上。二年五組でも、もちろん三年五組でも一緒だった。原田と植村も来てるけど、覚えてない?」

 「ごめん」

 相沢はクラスメイトたちの顔を思い出そうとした。同じグループにいた者たちの顔はなんとか思い出せた。先ほどまで相沢と話をしていた甲林、あと女子は藤井と越智。男の方はやたらとうるさい松永と、優等生の大谷、小説と映画のことでよく話が合った新堂、あとは佐藤だか鈴木だか田中だか、そんな名前のやつが一人。相沢はそこになってようやく気がついた。おれ、あんまり他人に興味がなかったんだな、と。よくつるんでいたようで、彼らとの記憶がほとんどない。卒業してからは、当然のようにつがなりはほどけてしまった。あいつらよくおれと一緒にいてくれたもんだよな。二十四年経って、相沢はようやくそんなことを思った。

 それから相沢は、教室に来た三人と一緒に酒抜きの酒盛りを始めた。話しているうちに井上、原田、植村と名乗る三人のことを徐々に思い出してきた。けれど彼らと共有する話題はほとんどなく、三人が会話の内容に気遣ってくれればくれるほど相沢は疎外感を感じることになった。同じ部活(揃いの丸刈りから予測するに野球部だろう)に所属していた彼らは、高校を卒業してからも定期的に集まっていたらしく、話題は高校時代のそれから今の彼らに至るまで幅広く繰り広げられた。

 「それにしても相沢はすごいよな」原田は、当時の丸刈り頭をごしごしとこすりながら言った。「俺たちのクラスから、まさか俳優になるやつがいるなんてな」

 「全然大したものじゃないけどな」相沢は胸がえぐられる思いがした。テレビに出る職業で、かつての級友にそれが知られていないということが何もかもを物語っていた。

 「いやだって、吉澤ゆなと共演したんだろ? 羨ましいよ」井上が手を頭の後ろで組んで椅子にもたれた。ああ、そっちか、と相沢は心のなかでうなずいた。

 「俺らなんてさ、しがないサラリーマンだよ。中間管理職の苦労がやっとわかる年齢になってきた。このままさ、毎日もみくちゃになるまで働いて、休みの日は子どもらと遊んで、そんなのももう数年もしたら相手にもしてもらえなくなって、なんとか定年まで働いたとして、やっとひと息つけるころには老いぼれだよ。余生に時間をうまく潰せるように、カメラでも始めようかなって思ってんだ、俺」

 「お前、ジョギングにしろよ。最近太りすぎだぞ。そんなんだと、奥さんに愛想つかされるぜ」横から植村が冗談交じりに口を挟んだ。

 「植村はいいよな」井上の言葉が突然棘を含んだそれになった。

 「お前はもうすぐ支店長だろ。嫁さんと毎週のようにデートしてさ、会社でも期待されててさ、同じサラリーマンでも天地の差があんだよ。俺なんて、ほんとに嫁に愛想つかされそうなんだ」そう言って井上は頭を抱え込んだ。高校生の格好をした井上が、嫁に愛想をつかされることに本気で悩む姿は、はたから見ると滑稽でさえあった。もとより相沢には、はたから眺めることしかできなかったわけだが。

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第6章(3)「実際に目の前に現れるものとしての過去」

ブログ運営者

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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