【長編小説】『夢のリユニオン』第10章(2)「誰かの懺悔を肩代わりすること」

星空

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 「私は、浮気をしています」

 次の順番が来て、米田(よねだ)という少女が懺悔を読み上げた。さらりとした黒く長い髪を右肩の前におろし、洗いたての陶器のような白く透明な澄んだ肌をした彼女がそのような台詞を吐いている様子は、海をすいすいと気持ちよさそうに泳ぐイルカが「私は海水を好みません」と言っているくらい、現実感に欠けていた。それは彼女自身の告白ではないのだが、彼女の魂が住む純白のハンカチが、裏を返せば黒の網目に絡め取られているみたいな感じがした。

 「とは言っても本気でのめり込んでいるわけではなく、家庭を犠牲にするつもりもありません。私は妻を愛しています。けれど、時々たまらなくなるのです。明るく人当たりの良い人間として周囲に認められ、学生時代から付き合っていた女性と結婚して二人の子どもを持ち、毎日サラリーマンとして何の疑問も持たずに働くことが。そんな、絵に描いたようなクリーンな人生に、自分自身が押しつぶされそうになるのです。私はそんな器の人間ではありませんから。家庭に何の不満もありません。すべては私の弱さから来るものだと思います。ただ、時々怖くなるのです。今の幸せは、一体何の条件と引き換えにもたらされるものなのだろう、と。私の収入、性格、嗜好。私の中の何かが一つでも失われれば、この幸せは一瞬にして跡形もなく消えてしまう。そんな綱渡りのような妄想が、私をたまらなくさせるのです。軽い浮気は、そんな私にとって息抜きのような役割を持っています。無条件に、生まれたままの姿で互いを求めること、何も持っている必要がないこと。そして自分はクリーンな人間などではなく、きちんと汚れたやつなのだという、背徳感からくる安心感のようなもの。そうしてやっと、私は毎日の均衡を保っています。弱い私が、この関係をきっぱりやめられるとは思いません。ただここに、罪を告白させてください」

 米田はほとんど息継ぎをせずに、一気に読んだ。読み上げながら、彼女自身が深く傷つけられているように見えた。

 「ちょっとわかるわ、それ」

 隣で甲林がつぶやきながら机の上の一点を見つめたのに、大谷は気付いた。甲林の方もそれに気がついたのか、大谷の方をちらりと見て、聞こえるか聞こえないかの声でこう言った。

 「たぶん、米田さんにも心当たりあるね、あの様子だと。した方かされた方かわかんないけど」

 大谷はどう答えていいかわからず、さっと視線を自分の腿のあたりに戻した。甲林の向こうで、松永が額に汗をにじませていることに気がついたのも、やはり大谷だけだっただろう。

 それから、淡々と懺悔は続いていった。まるで天秤で四方八方すべての重さを調整するように、懺悔の種類も深刻さも人それぞれだった。
食べすぎと飲みすぎが祟って、健康診断の数値が芳しくないことを懺悔する者。
年老いた親を田舎に一人で住まわせざるを得ないことを気がかりに思う者。
親の希望を押し切って今の職業についていることに後ろめたさを感じる者や、反対に親の言うとおりの職業についたがために、いつまでも自分の中に自分を見つけられないと嘆く者もいた。
彼らは高校二年生ではなく、四十歳あるいは四十一歳だった。天秤に載せられる重りはそのぶん重く、ほんの少しの誤差で大きくどちらかに傾いてしまいそうだった。

 「私は教え子に恋をしてしまいました」光沢のある赤い縁取りの眼鏡をかけた、ショートカットの女子が教卓に立って次の懺悔を読み始めた。カーテンのない窓の外は、相変わらず何もかもを取り込んでしまいそうな闇に包まれているように見えたが、よく見ると遠くにところどころ幽かな光が灯っていた。どの光も同じ、白っぽいオレンジをしていた。時刻は午前五時を迎えていた。そこに、徹夜明け特有のけだるい頭痛と取り残された眠気は存在せず、何かを追い立てるように徐々に音を立て始める覚醒もなかった。そこにはただ、実質的にほとんど流れることのなくそこにとどまり続ける空間があった。この世界で時間の経過を証明できるものは、黒板の上に掲げられた時計くらいのものだ。これだって正しいかどうかわかったものじゃない。ではこの時計を信じないとして、彼らはここでいったい何を信じればいいというのか。時に、目の前のものがかりそめの嘘ものかもしれないとわかっていても、それを信じざるを得ないこともあるのだ。

 開かれた用紙はおおよそ三十枚に到達しようとしていた。それらはきちんとしわを伸ばされ、黒板にマグネットで掲示されていた。深い緑の黒板に白い紙が貼られるたびに、そこにいた人間たちの心は少しずつえぐられ、同時に少しずつ癒されていった。それはまるで、これまで埋め立て地に押し込めてなかったことにしていた生ごみが爆発し、街中に散らばってしまったそれらをみんなで片付けているような感じだった。皆で一斉に国民的スターの喪に服しているかのように、静かに。片づけた生ごみは、次にいったいどこへ向かうのか。その答えを知る者は今のところまだここにはいなかった。

 「教師と生徒の関係は、難しいものです。近すぎてもいけないし、遠すぎてもいけない。教師は教えるばかりの態度ではいけないし、教えてもらうばかりの態度でも、もちろんいけない。私たちのほとんどは、教師以外の職業を経験していません。それはつまり、生徒たちの大半がこれから経験するであろう社会の現実については、ほとんど何も教えてやれないということです。では、私たちにできることというのは一体何なのでしょう。文部科学省から送られてきた教科書を読むだけの、ロボットのような授業をすること? クレームが出ないように、当たり障りない指導をして、まるで腫れ物にでも触るかのように生徒に接すること? それとも、そんなものとはまったく正反対にあること? 教師に求められることは多く、同時に私たちを縛る制約も多い。人々は、大人が完璧でないことを知っているはずなのに、教師には完璧を求めるのです。そんな状況の中で、二十五歳の私はひどく苦しんでいました。極端な話、死んでしまいたいとさえ思っていました。そして、そんな私を救ってくれたのが須藤くんでした。彼はその時高校三年生の平均的な生徒で、私の七つ下でした。それを生徒と教師のあいだに生まれる信頼ではなく、当時の私は男女の愛だと感じたのです。そしてそれは、今でも変わりません」そのショートカットの女子の声は、震えていた。彼女の右目からは、つうっと涙がこぼれていた。ああ、彼女は自分の告白を引き当てたのだな、と教室にいたほとんどの生徒は確信した。

 「そのおかげで私は教師を辞めることになりました。須藤くんとも、最後にはうまくいきませんでした。結局のところ、彼にはまだ見るべき世界がたくさん残っていたのです。そして、私の方には何も残りませんでした。私はいま、筆箱のチャックの動きを点検する仕事をしています。時給も安く、やりがいもありません。でも、自分の人生に後悔があるのかどうかもよくわかりません。詰まるところ、私に満足な人生なんて訪れるはずがなかったような気もするのです。教師を辞めなくても、恋をしなくても。それでも、彼への想いだけは人生で特別な色を持っています。この気持ちだけは、どうか許していただきたいのです」

 ふう、とショートカットは震えるため息をついた。その顔は相変わらず哀しげな表情を浮かべていたが、もう彼女の目からは涙の粒は消え、代わりに強さとさえ言えるような光が宿っていた。

 それを見つけたのは大谷だった。ショートカットの口から、淡く白っぽい光が出て、窓の外へ飛び出していったのだ。その光はしばらく自分の居場所を探すようにゆらゆらと揺れ、やがて東の山の麓へ落ち着いた。そこは小学生だった大谷がかつて参加した、また大学生の大谷が今度は子どもを連れる側として参加した、少年キャンプで訪れた野外活動センターのある山だった。小学生のころ、かっこよくて何でも知っている大人に見えた大学生の側にいざ自分がなってみると、それは大きい子どもが小さい子どもの手を引いて遠足をしているのとほとんど変わらないように思えた。そんなふうに、いっこうに距離が縮まらない月との追いかけっこのように、大人を見上げて生きていくんだろう、と大学生の大谷は思った。そして、いつしか年上の人間を見ても、彼らを「大人」だとは思えなくなっていった。

 ぼうっと東の方を見ながらそんなことを考えていると、次の懺悔が読み上げられ始めた。窓に向かってずっと顔を左に向けていた大谷は、慌てて顔を戻した。

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第10章(3)「誰かの懺悔を肩代わりすること」

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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