【長編小説】『夢のリユニオン』第11章「五つ下の担任は相変わらず恩師であるか否か」

星空

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【長編小説】『夢のリユニオン』概要・目次

 「よし、次は俺だ」

 新堂が前から二番目、右から二番目の席に戻ると、その左隣に座っていた佐藤が立ちあがった。教室ってまるで軍隊みたいだな、と綺麗に整列した机を見て、新堂はちらりと思った。

 「なんだこれぇ?」紙の少なくなった箱からためらいもなく佐藤が取り出したのは、皆が書きつけたはずの茶白い紙ではなかった。二つに折りたたまれた少し小さめのその紙は、薄い青色をしていた。

 「アイスブレイクタイム、って誰だよ、こんな紙入れたの?」佐藤は誰を責めるでもなく軽い感じで笑ってぐるりと教室を見回した。生徒たちは一瞬押し黙り、それから口々に否定し始めた。中にはその青色の紙の出処を推理しようとし始める者もいた。肉体的な疲れは感じなくとも、沈黙を強いられた一時間は、確実に彼らの精神を疲弊させていた。からだの中に淀んだ二酸化炭素を吐き出す機会を、誰もが伺っていたのだ。

 その時、沈黙を蹴破るように教室の前の扉が開いた。その勢いの良い音とは裏腹に、立て付けの悪いのろのろとした開き方だった。

 「ゴリラ、先生」

 開いた扉から姿を見せた男性に、誰かが声を上げた。女子高生特有の黄色い声だったが、そのトーンには大人の遠慮が含まれていた。

 「おう、お前ら久しぶりだな」

 現れた男性は、動物的ゴリラとは程遠い華奢なからだと、どちらかというと優しそうにさえ見える顔つきをしていた。彼のあだ名は五平(ごひら)という苗字に由来しており、かつて彼ら二年五組の担任をしていた人物だった。

 「先生若っ」
 先ほど生徒との恋愛を告白したショートカットがつぶやいた。大谷の斜め左後ろのほうで、ショートカットともう一人の女子がこそこそ話している。

 「私、今勤めてる学校は先生と違うんだけどね、三年前まで一緒の学校だったのよ。先生、もう校長になっててさ。めちゃめちゃおじいちゃんだよ。定年間近だもん」

 「へえ。あたしにとってはあれがゴリラだから、若いままの姿で出てきてくれてよかったよ。何か恩師が年取ってるの見るのって、やじゃない?」聞いている女子がけらけらと可笑しそうに笑う。

 俄然、教室が落ち着きをなくし、がやがやとした話し声に包まれた。そのあいだに五平は教壇の上をゆったり歩き、いまだ要領を得ない佐藤の肩を叩いた。

 「よお鈴木。お前、年取ってちょっとは個性出てきたのか?」

 「ゴリラ、俺の名字佐藤だし、先生ってそんな若かったっけ」

 「そうだなあ。お前らが今いくつ? 四十歳だっけ。俺、お前らの担任してた時まだ三十五だったんだよな。この俺は、現実のお前らより若いってことか。変な感じだなあ」そう言って五平は自分のからだをまじまじと見つめ、一瞬佐藤の声の届かないところに行ってしまったように見えた。

 「それにしても」五平は思い出したように佐藤の方へ向きなおり、手に提げた大きな紙袋を持ち上げてみせた。

 「お前ら、青い紙を引くのが遅いんだよ。アイスブレイクってのは、話の中盤にやるもんだ」

 「それは俺のせいじゃ」「おーい、お前ら疲れたろ。アイスクリームの差し入れだ」五平は佐藤の反論を無視して、あのころと同じように教室中によく響く声をあげた。

 「先生、どうして同窓会のことを知ったんですか?」ドア近くの壁にもたれかかり、早々に胃に収めてしまったアイスクリームのカップを手で弄ぶ五平に新堂が問うた。新堂は訝しく思っていた。自分が招待状を送ったのは、二年五組の生徒だけだったからだ。

 「どうしてもこうしても、いつもみたいに寝たら学校の職員室にいたんだよ。手にはアイスクリームの袋を提げてて、俺は自分が三十五歳だってことを知っていて、これから三年五組の教室に自分が行くんだってことがわかる。そこにお前ら二年五組がいることも。でも、今すぐじゃない。お前たちが箱から青い紙を取り出すまでは、俺は出ちゃいけないことになってるんだ。そういう夢を見ることってないか? 昔確かにつながりのあった人や場所が登場するんだけど、そこには現実感がまるでなくて、でも自分の役割だけははっきりしてるって夢。懐かしい夢を見るもんだな、と今も思ってる。お前たちもそうだろ?」

 五平は顎を少し上げ、口角を上げた。言葉にできない寂しさを感じたとき、五平はいつもこの顔をする。それに高校生のころから気がついていたのは藤井だけだったが、今は教室にいる少なくない人数の者たちが、かつての担任の顔に滲む幼さに複雑な思いを感じていた。

 「ゴ、先生はアイスクリームを食べたらいなくなるの? まだ懺悔は残ってるんだ」越智が五平を引き留めようとするような声を出して、彼を見た。

 「そうだな。たぶん消えるんだろうな。俺だってここにいてもうしばらくお前たちと話していたい気持ちはあるけど、こればっかりはどうしようもないからなあ。ほら、いまそこの席がひとつ空いたぞ。お前たちのうち何人かにも、そろそろタイムリミットが迫ってるんじゃないのか」そう言って五平が指差した机に、四十四人の視線が集まった。そこには、誰も座っていないがゆえに強い存在感を放つ、空白の席があった。

 「あそこ、誰が座ってたんだっけ」甲林が呟いた。隣に座っていた相沢にはそれが思い出せず、黙って時計を見上げた。ぴったり五時半だった。一人、現実に戻っていった。彼は、あるいは彼女は目が覚めてからもこの夢を覚えているのだろうか。それとも、この夢はあくまでも自分一人の後ろ向きな生き方から生まれた夢に過ぎず、他の生徒たちはもともとこんな夢など見ていないのだろうか。そう思ったのは、大谷だった。

 「じゃ、帰る前にお前らの懺悔でも見て行こうかな」五平はそう言って黒板の前に立ち、そこにずらりと貼られた紙を黙読し始めた。教室がしんとし、皆が五平のことを見守っていた。そこにある一枚一枚の紙は、書いた者にとってまるで自分の裸をじろじろと眺められているような、それでいて誰かに読まれることでからだの血が少しずつ入れ替わっていくような、そんな感覚を与えた。

 時間がなくなってしまう。新堂はそう思った。五平がこれまでの懺悔にすべて目を通していたら、もっとたくさんの生徒が現実に戻ってしまう。それでは、自分の懺悔を発表する機会がなくなってしまうのではないか。十分ほど教室の沈黙を見過ごしたあと、新堂は次の生徒を促そうと顔を上げた。

 それは五時半ちょうどだった。
 時計は、五時半のところから一分たりとも動いていなかった。

 新堂は周りを見回したが、今のところそれに気がついているのはどうやら新堂だけのようだった。隣に座っていた越智が新堂の様子に気がついて、疑問符付きの微笑みを向けたが、新堂は何でもないふりをして微笑みを返し、前に居直った。

 時計は、ここにいる者たちにとって、少なくとも新堂にとっては重要な目安になっていた。その時計が動いていない。それは、時が止まっていることを意味しているのだろうか、あるいは単に時計が壊れているだけなのだろうか。新堂は前者に賭けてみることにした。夢の中の魔法を信じてみたかった。いや、実のところ彼の期待する魔法はすでに半分叶えられていた。あと半分は、新堂が己の行動で叶えなくてはならない。それに、これまでの懺悔を五平が読み上げる作業にも、なにか意味があるような気がした。

 「ふうん」

 新堂がそんなことを考えるうちに、五平が黒板の紙をすっかり読み終えた。振り返ったその顔は寂しそうにも見えたし、嬉しそうにも見えたし、生徒への慈しみを含んでいるようにも見えたし、あるいは何かを懐かしがっているようにも見えた。その複雑な表情からは、あらゆる感情が見て取れた。

 「お前たちも、しっかり四十歳だなあ」五平はその表情を崩さずにそう言った。

 「目の前にいる姿だけをみると、あのころと変わらない生意気な子どもに見えるのにな。けどな、そろそろ生き死にのことも考えるようになるぞ。四十歳ってのは、平均的には人生の折り返しだからな。その時期は早ければいいってもんじゃない。今までの人生において横幅を広げたか、深く穴掘りをしたか、それだけの差だ」

 がたがたっと音がし、五平が教卓のずれを直した。正しい教卓の位置なんて知っているのは、教師という人種だけではなかろうか。

 「俺な、人を死なせたことがある」五平が唐突にそう言った。先ほどまでの表情とは違い、眉間にしわをよせ、絞りだすような声だった。咄嗟のことで、誰も、何も言えなかった。

 「もちろん直接手を下したわけじゃないが、その原因に俺がまったく含まれていなかったかと言えば、嘘になる。その人は自殺をした。俺がお前らと同じ、四十歳の時だった」五平が話し始めた時、教室にいたある者はどきりとした。かつて恋人に死なれたことがあったのだ。

 「その人は二十六歳の、まだ若い教師だった。やる気のある、生徒思いのいい先生だったよ。あまり自由のきかない授業のカリキュラムを一生懸命組み立てて、少しでも生徒に楽しみながら勉強をしてもらえる授業を作っていた。一番きつい、野球部の顧問も引き受けていた。クラスで問題のある生徒のことも、受験に悩む生徒のことも、目をそらさずにちゃんと正面から向き合っていた。若いな、と思っていたよ。新人教師にはよくいるタイプだ。そんな彼らも、三年もすれば疲れてきて、理想を捨てる。あるいは、がちがちに固めていた理想像を、少しだけ崩すんだ。それが、教師としての成長なんだと自分に言い聞かせてな。教師という仕事は、思った以上に地味で、難しくて、報われない。適度ということを覚えないと、続かないんだ。四十歳になっていた俺は、うまく手の抜ける教師になっていた。生徒のことが嫌いなわけじゃない。むしろ、生徒に何かを押し付けすぎないよう、安定した教師像を生徒に提供できるよう、大人になったと思っていたんだ。きっと、もう一度教師人生を歩むにしても似たようなものになったろう。適度の熱意、適度の問題処理、適度の距離、適度の真面目さ。最後にそれなりの感動の別れ。そして、それが繰り返されてゆく。生徒のほうは無限の可能性に満ちた未来に向かって羽ばたいていくが、俺たち教師の方はそういう生徒を送り出すことが何年か単位で規則正しく繰り返される。もちろんそれが仕事なわけだが、そのぶん特定の学年に入れ込みすぎると、あとがつらくなるんだ。言い訳みたいになったけど、俺も人間だってことだよ。それで、その新人教師はそういうのがうまくできなかったんだな。死んだよ、二十六の時に。その年の自殺者の数字が一人分増えて、教師の自殺率のパーセンテージが零(れい)コンマいくらか上がった。それだけだ。そんな数字、誰も見向きもしない。数字ってやつは残酷だと思ったよ。人の命が軽く見える」

 教室の後ろから見ていると、まるで卒業式の日の教師のスピーチのようだった。制服に身を包んだ生徒たちが教師の方へ視線を集め、教師の方は一言一言を慎重に発していく。違うのは、生徒の顔が涙で濡れる代わりに、実に様々な表情で覆われていたということだった。うんうんと頷く者、困惑して反応に迷う者、ただうつむく者。卒業式の時のような一時の感情の昂りは訪れず、生々しい人生の現実を冷静に聴いていた。

 「どっちが正しいんだろうな。今でもわからないんだ。現実を生きていくっていうのは、本当に難しいよ。定年間近になっても、教師という職業のことも、人生のことも、全然わからない。こんな人間に誰かに何かを教えることなんてできないよな」

 「そんな、そんなこと」一番前に座ってた小太りの女子生徒が思わず声を出した。その瞬間、すうっと空気に溶けるように五平が消えた。代わりに窓の外にもう一つ明かりが灯ったことに気がついたのは、またも大谷だけだった。

 「そんなこと、そんなこと」女子生徒はなおも繰り返していた。けれど言葉は見つからず、それをかけてやる五平ももういなかった。

 「ね、見て」越智が誰かを励ますような声で言った。

 「さっきゴリラがくれたアイスクリーム、全然溶けないの」そう言って彼女は、まだ手付かずのアイスクリームを新堂や松永、その他周りにいた者に見せた。

 「いい? これは夢なんだよ。気楽に行こうよ」

 越智のその言葉は、場の空気を少しだけ軽くしたように思えた。

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第12章(1)「学年2トップの分かれ道と交差点」

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