【長編小説】『夢のリユニオン』第12章(2)「学年2トップの分かれ道と交差点」

星空

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【長編小説】『夢のリユニオン』概要・目次

 「じゃ、改めて」
 黙って場の成り行きを見守っていた新堂が、今度はしっかり越智の方を向いて彼女を前へ促した。越智は教壇の上に立ち、クラスメイトを見回した。

越智はその場にいた全員の名前をしっかりと覚えていた。苗字も名前も、その漢字も。昔から人の名前を覚えるのは得意なほうだった。それに、二年五組での記憶は、越智の脳内にまだ昨日のことのように鮮明に焼き付いていた。四十歳になったクラスメイトたちが、まるで人生そのものが変わったように話すのを、彼女はどこか釈然としない気持ちで聞いていた。

四十歳は三十九歳の延長で、三十九歳は三十歳の延長で、それは二十五歳の延長であり、二十歳の延長に過ぎない。ここにいる十七歳の男女が、ほんのすこしずつ一日を積み重ねていった結果に過ぎないのだ。それにもかかわらず、十七歳の日々を過ごしていた自分をまるで今の自分からすっかり切り離された存在のように語り、切なそうな顔をする彼らの気持ちがよく理解できなかった。そうすることで彼らは若さゆえの純粋さ、未熟さに言い訳しているようにも見えたし、同時に四十歳の自分たちには到底持つことのできない神話の中に存在する十七歳をただ懐古しているようにも見えるのだった。

 越智は箱の中をまさぐり、一枚の紙を取り出した。幾重にも折りたたまれたその紙を開きながら、越智はやり場のない気持ちを抱えていた。

 「お母さん、ごめんなさい」ひとつトーンを落とした、越智の凛とした涼やかな声が教室に広がった。

 「わかってあげられなくてごめんなさい。喜ばせてあげられなくてごめんなさい。きつくあたってしまってごめんなさい。生まれてきてごめんなさい。死なせてしまってごめんなさい」謝罪の言葉を繰り返すその内容は、その言葉の群れから何ひとつそこにいた生徒たちへ情報を与えてはくれなかったにもかかわらず、彼らの胸の中に多かれ少なかれ居心地の悪さを与えた。親への懺悔。それはここにいる少なくない者が少なからず胸に抱いて生きてきたものであり、いまだうまく言葉にできないもののひとつだった。

 「私の母は、死にました。私が大学生の時、自ら命を絶ったのです」懺悔を読み上げる越智の声には、緊張がにじんでいるようにもとれた。越智はそこでいったん読むのをやめ、おそるおそるといった様子で顔を上げた。まるで教室の中の誰かが、彼女に読み上げる内容を一字一句、そのトーンや速度に至るまで指定しており、それをその誰かに確かめるみたいに。

 一方で藤井の心臓は鼓動していた。越智に代わって、自分自身で懺悔するべきなのではないかと自分に問うていた。それはようやく言葉にできた彼女の懺悔だった。「かなちゃん」と自身を呼ぶ母の優しい声を藤井は思い出していた。あれほど苦しんでいた母なのに、思い出すのはどういうわけか笑顔の、幸福そうな姿だった。越智とうまく目を合わせられず、藤井は目を閉じた。まぶたの裏の景色は、太陽のない窓の外の闇とは別の種類の暗闇で藤井を包み、彼女をどこか別の場所へ連れて行った。あるいはそれは、彼女だけをそこに押しとどめて、他の何もかもがどこかへ行ってしまったのかもしれなかった。

まぶたを開けると、藤井は自分が階段状になった部屋の後方に座っているのに気がついた。そこはもはや希光学園二年五組の教室ではなく、どうやら大学の講義室のようだった。広い講義室の席は七割ほどが埋まっており、教壇では白衣の男性がぼそぼそと聞き取りにくい声で講義をしていた。理屈などなく、ただ膨大な量を暗記する講義。医学部という理系の最高峰にあって、人のからだは科学からもっとも遠いところにあると藤井は大学生になって思い知った。どうしてこの部位の下にこの臓器があるのか。どうしてこの薬がある特定の症状に効果があるのか。どうして薬の効果に個人差があるのか。そこに「どうして」は存在しえなかった。ただ事実があるのみだった。いや、そもそも理屈というものは、人々が承認した事実の積み重ねに過ぎないのかもしれない。

 知っている、と黒板の文字を見ながら藤井は思った。私はこの瞬間を知っている、と。そして、この講義の後で起こることに思い当たり、背筋が凍る思いがした。

 それは彼女が大学四年の秋だった。藤井は公立の医学部に現役で合格し、一度も留年することなく四年生を迎えていた。彼女にとって勉強はほとんど呼吸することに等しく、どちらかと言うと半ば強制的に入れられたテニス部の活動のほうが苦痛に感じていた。藤井はいわば、まっとうな医学部生をきちんとこなしていた。授業にはサボることなく出席し、勤務医になってからの上下関係を予習するかのような部活に精を出し、週に一度だけ家庭教師のアルバイトをした。家庭が特別裕福というわけではなかったが、一人っ子で浪人もしなかった娘の学費を支払うだけの余裕は十分にあった。それでも、藤井は家に母親とふたりきりでいることをあまり好まなかった。藤井の母親は、もともと精神が不安定な人だった。穏やかに笑っていたかと思うと、突然ひどい癇癪を起こした。泣き叫んで物を投げつけることもあった。それを避けるように、父親は単身赴任を始めた。家から通えない距離だったわけではないが、仕事を理由に彼は妻から距離を置こうとした。離婚をしなかったのは、彼の優しさか、それとも世間体を気にしてのことだったのか、今となっては確かめることもできない。藤井が大学四年生になるころ、はけ口を求めた母は家にいる藤井に嫌味な言葉を浴びせるようになっていた。

 「いいよね、かなちゃんは勉強ができて」
 「お医者さんになったら、家出てっちゃうんでしょう」
 「医者なんて、ただの金の亡者よ。私のこと一人治せやしないじゃない」

 そのような言葉を発するときの母は、その言葉の奥に深い孤独を抱えていた。けれどまだ子どもの延長線上にいた藤井には、それがわからなかった。頭ではわかっていても、受け止めることができなかった。無用な言い争いを避けるため、藤井はなるべく家にいる時間を減らそうとした。そうでもしなければ、母を治すために目指した精神科医の道が揺らいでしまいそうだった。

 そして、講義終了のベルが彼女の鼓膜を揺らした。大学の一番端の教室まで響くベルは、どこか重苦しく、低い音をしていた。藤井は鞄の中から二つ折りのパールピンクをした携帯電話を取り出した。まだ使い方もままならない、ほとんどまっさらの携帯電話は、その小さなからだからは想像もできないほどたくさんの人と交信をした。機械はとっくの昔に人間の頭脳を超えており、あとはそれがどの程度まで超えるかという問題だけだった。
四十歳になった今、藤井は世間が人工知能が人間を超えるかどうかということを議論しているのを、ある意味で冷ややかな目で見ていた。機械は、肉体的な点で見れば、人間よりもずっとエラーが少なく、コストパフォーマンスも高い。そして、精神的に病むこともない。何より、エラーが出れば新しいものに取り替えることができる。労働力という観点から見て、人間と機械を比べ、仕事が奪われるなどとテレビでお偉い先生方が話しているのを見ると馬鹿らしかった。人間が楽をするために機械を発明したのだから、無理やり仕事を増やさずに楽をすればいいのだ。空いた時間を別のことで満たそうとするからそうなる。機械がそんなに怖いなら、議論はもっと何十年も前になされるべきだったのだ。それに、人間という生き物は、たとえそれが自らの生命を脅かす結果になるとしても、まだ見ぬものへの好奇心には勝てない生き物なのだと藤井は知っていた。人間ほど非論理的な生き物はいない。そして藤井は、論理的であることをなによりも好んでいた。

 そういうわけで、新しく自分の持ち物になったこの小型携帯電話も、藤井が心から信用できるもののひとつだった。今藤井の目の前で、パールピンクの合間に埋め込まれた黒のディスプレイが、ちかちかとカラフルな光を放っている。この光り方は電話の着信に出そびれたときのそれだ、と藤井は思う。機械は人間とは違い、いつも同じ現象に対して決まった法則に従った反応を返してくれる。そしてこのように藤井がやけに機械のことを考えるのは、目の前に迫った事実から目を逸らすためだった。

 藤井は講義室の席に座ったまま、かちっ、と二つ折りの携帯を開いた。外皮によって守られていたディスプレイと番号ボタンがあらわになる。そして、父からの三十件にもわたる留守番電話を順番に聞いていった。週に一度の頻度で、申し訳程度に母を気遣う電話を寄越していた父が浴びせたゲリラ豪雨的な着信に、当時の藤井もいい予感は抱いていなかった。そして二十一歳の藤井、あるいは四十歳の藤井は、離れて暮らしていた父の口から、同居していた母の死を知ることになる。

 ヘリウムガスによる自殺だった。自殺のための器具は周到に準備され、母が突発的に死んだわけではないと知った時、藤井はある意味で安堵した。母は、捨てたのだ。この世界も、今の暮らしも、父も、そして娘の自分も。藤井が医者になるまで、母は待ってはくれなかった。

 「叶子。久しぶりだな」大学から直接警察署へ向かった藤井を、父が出迎えた。警察に行くなど、落し物を届けた交番をのぞけば初めての経験だった。久しぶりに目にした父は、皮肉にも前よりも健康的に見えた。

 「お父さん」藤井はそれ以上の言葉をうまく見つけることができなかった。言葉を発する前に、あらゆる感情が藤井を埋め尽くしていた。母を失った悲しみが彼女の心の表面を薄く広く覆い、その下で小さな安堵、それを感じる自分への罪悪感、混乱、後悔、これからの不安が入り混じっていた。そしてそれは、一緒に暮らしていたはずの自分よりも、母を早々に見捨てた父へ先に連絡が行ったことへの怒りとして形を成した。父の顔を見ると、彼の表情の端に安堵が見えた。それが自分自身の心を映しているようで、藤井は余計に腹が立った。

 「今さら帰ってきて何なのよ。お母さんに遺産でもあった?」藤井は皮肉を込めてそう言った。そしてそれは、藤井をがんじがらめにしているその他の感情の渦から藤井を一時的に救い出した。かつての記憶をただ後追いしているのか、それとも四十歳の藤井から出た言葉なのかは区別がつかなかった。けれど、夢の中で夢を見ている藤井も、あのころと同じ言葉をそっくりなぞっていた。

 「母さんの葬式も、叶子の学費も、家のことも、お父さんが責任をもって面倒を見る。何も心配しなくていい。叶子にも今まで面倒かけたな」そう言って父は叶子の頭を撫ぜようとした。

 「やめてよ」藤井はそう言って、父親の手を汚いものであるかのように払いのけた。そうでもしなければ、自分を保っていられそうもなかった。

 「何も心配しなくていい? 馬鹿じゃないの。お金の面倒さえ見れば、あとはお役御免ってわけ。お母さんがどれだけ寂しい思いしてたか知ってる? なんで結婚したのよ。なんで離婚しなかったのよ。そんな中途半端なこと、結局は自分を守りたかっただけじゃない。この卑怯者」

 違う、ともう一人の藤井は気付いていた。こんなふうに、お母さんを守るふりをしてお父さんを傷つけたいわけじゃないのに。若い警察官にあいだに入られるまで、藤井は父親を罵倒し続けた。母親が残した遺書には、謝罪の言葉しかなかった。結局のところ何が母を殺したのか、その理由はもう誰にもわからなかった。

 母が死んだことで、藤井には突如無限の将来が拓けた。もはや母親の病気を治すことは叶わず、精神科医を目指す理由もなくなった。それから丸二年間、藤井は学校を休学した。アメリカへ留学するでもなく、適当な民間企業でインターンをするでもなく、一人になった家で来る日も来る日も本を読み続けた。時には一人でカラオケに行き、温泉に行き、ベランダで植物を育て、自分のためだけに料理をし、旅行に行った。誰とも口を利かずに一ヶ月ほど過ごした時期もあった。何かを目指していない状況は、彼女にとっては特異なことだった。その日何をするにも自分の自由で、心の赴くまま好きなことをしてよかった。その自由は時には藤井を苦しめた。こんなことをして、いったい何になるのだろう、と藤井は思った。人生は、いったいどこに行き着くのだろう、と。精神科医になっても、こんなふうに毎日抜け殻のように暮らしても、人生の最後にいったいどれほどの意味のある差が付くというのだろう。

 そして二年を終えて、結局藤井は精神科医の道を進むことにした。今さら何か他のものになりたいという気も起こらなかったし、この仕事をしていれば、母の死の理由に辿り着けそうな気がした。それでどうなるわけでもなかったが、藤井にはもう他に辿り着きたいものなどこの世に存在しなかった。

 四十歳を迎え、精神科医を初めて十年以上が経ったが、その答えにはいまだ辿り着けていない。それどころか、人を自分の力で「治せた」という実感すら一度も持てたことはなかった。人は勝手に死に、あるいは勝手に治り、そうでなければ依存症のようにずるずると藤井に会いに来た。逆説的ではあるが、そのような出口のない暮らしは、藤井を少なからず救ってさえいた。どのみち母は死んだのだ。そこに藤井が入る余地はなかった。だから、自分は前を見るしかない。そのように、藤井は母への後悔の念を自分の心の奥底にしまいこんでいた。

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第12章(3)「学年2トップの分かれ道と交差点」

書いた人

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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