【長編小説】『夢のリユニオン』第12章(3)「学年2トップの分かれ道と交差点」

星空

▼概要・目次はこちらをご覧ください▼
【長編小説】『夢のリユニオン』概要・目次

 「私は母を救うことができませんでした。今なら、大人になって精神科医になった今なら、きっともう少し力になれたはずなのに」そうして越智の言葉は途切れた。

 ああ、と教室に意識を戻した藤井は思い、下を向いて苦笑した。自分の中でうまく処理したはずの気持ちは、二十年経っても藤井の中に影を潜めていた。藤井の弱った瞬間を見計らって、いつでも出てこられるように。精神科医を続けていて一番身にしみて感じたことは、自分のこころが一番わからないという事実だった。人のこころも、自分のこころでさえもさっぱりわからない。そんなものが学問として、そして医療として成り立っていることに、人々の希望が込められている気がした。

 そして今宵、夢の中の藤井にそんな告白をさせたのは、つまり藤井をある意味で弱くさせたのは、間違いなく斜め前に座る大谷の存在だった。高校生のころから淡い恋心を抱いていた人物は、見かけはかつてとまったく同じにもかかわらず、二十四年経ってその内部を大きく変化させていた。見かけをほとんど変えてしまうほどに。高校生時代からその素質はあったのだろう、と今ではプロの精神科医になった藤井は分析した。大谷は、傾向的にうつ病になる可能性を持っていた。そして見事にその確率の高いくじを引き当てたのだ。医療のデータも捨てたものじゃない。それは、人の傾向、性格、環境などから、おおよその確からしい事実や効果的な治療法を割り出す。そして同時に、医者は「おおよそ」という言葉から最も遠い位置にある職業だった。大谷のことを治すこともきっとできないのだろう、と藤井はたった今読み上げられた自分の懺悔のことも忘れて目の前の猫背の男を見つめていた。

 次の瞬間、大谷がのろのろと立ち上がった。それは藤井に学生のころに一人で行ったハワイで見たフラダンスを思い起こさせた。傷つき、混乱していた当時の藤井のこころに、フラダンスは陽気であたたかい空気を流し込んでくれた。夕暮れの暗いオレンジ色を浴びて、女たちは微笑みながらゆったりと波に漂うように揺れていた。そこには幸福があり、満足があり、感謝があり、愛情があった。それがどういうわけか、切なげで悲壮な様子の大谷とぴたりと重なったのだ。ああ、私は死にたかったんだ、と藤井は初めて気がついた。ハワイにいたころ、私は死にたくて死にたくて、でもどういうわけかそれと同じくらい生きたくて、フラダンスに希望のはじまりを映していたんだなあ、と。大谷はまだ、その中でもがいている。彼は頭が良かったからな、と藤井は場違いな微笑みを浮かべた。

 立ち上がった大谷は、まるで牛歩戦術を使う政治家のごとく、虫の這うような速度で教卓へ向かった。そうか、出席番号が逆だから、なっちゃんの次はシュンなんだ、と根気よく大谷の背中を見送り続けるクラスメイトたちに混じって藤井は考えていた。教室の中に残っている生徒は、もう半分くらいになっていた。私は最後の方まで残るのだろうな、と藤井はぼんやりと考えていた。今日は病院の定休日だから。

 やっとのことで教卓の前に到着した大谷は、俯いたままその場で硬直した。おい、どうしたんだよ、と松永は思う。彼もまた、大谷がかつての大谷とは違う様子であることに気がついていた。高校生の松永は、お調子者で人気者だった。そしてそれは、四十歳になる今でも大きく変わってはいない。付き合う周りの人間は変わっても、松永のそのような性格は概ねうまく再現され続けていた。

 一方でかつての大谷は、決して人を不快にさせることのない、いわゆる誰にでも愛される人物だった。口数が少なく控えめだったが、おどおどしたところはなく、必要なときに必要なだけ言葉を発することを心得ているように見えた。考えるより先に口に出てしまう松永は、そんな大谷を精神的な後ろ盾にしている部分があった。松永と大谷は性格は正反対だったものの、教室の前に立ってクラスをまとめるという役割においてはベストバディーだった。

 そして今、大谷はかつての姿で松永の目の前にいた。松永は高校三年より後の大谷を知らない。あれほど仲がよかったのにどうして大学生になってから一度も会うことがなかったのだろう、と松永はここに来てようやく不思議に思った。松永は、一浪の末地元の中堅大学に進み、大谷は東京の名門に現役で難なく合格した。はじめは、その物理的距離が彼らを引き離したように見えた。でも結局のところ、それは扱いやすい言い訳にすぎなかった。松永は、抑圧された浪人生活開けの大学の自由な雰囲気に酔い、高校生のころよりも気の合う仲間を見つけた。社会人になってからは、その大学時代の同級生とさえたまにしか会わなくなった。松永は、過去を戻らない理想として振り返るのが嫌いだった。しかし歳を重ねるにつれ、かつての級友たちは過去を恋しがる話と現在の不満話しかしなくなっていった。それよりは、会社の仲間と時間を忘れるほど飲んでいるほうが楽しかった。境遇の違う人間よりも、同じ環境にいる者たちとのほうが、悩みも分かち合えた。学生時代の友人としか本音で話ができない、などという一般論は松永には当てはまらなかった。そんなのは、自己保身と変化への拒絶反応から新しいコミュニケーションを拒んでいる者の遠吠えでしかない。

 「シュン、大丈夫か」クラスメイトの呼吸音だけが聞こえるか聞こえないかくらいの教室に、松永は右端から言葉を投じた。

 びくっ、と大谷の腕のあたりがわずかに痙攣し、また静かになった。まるで時間がぴたりと止まってしまったようだった。松永は無意識に時計に目をやったが、秒針のない時計は、一瞬見やっただけでは時間の経過を示さない。あのころと姿形は変わらないはずの大谷は、やけに陰鬱な空気をからだ全体から漂わせており、松永を苛立たせた。おい、と松永が再度声を掛けようと息を吸い込んだ瞬間、大谷が震えながら箱の中に手を入れた。

 紙の残り枚数が少ないはずの箱をやけに時間をかけてまさぐったあと、ようやく大谷が一枚の紙を取り出した。何かが起こることを強く念じるか、あるいは何かが起こらないことを同じくらい強く念じているかのように。

 教室中の視線が大谷に注がれていた。確かに、大勢の視線を感じながら何かをするというのは、ひどく消耗する作業ではある。そしてそれが、かつての級友の懺悔を肩代わりするような作業であれば、特に。それでも教室にいる人数は最初の半分に減っていた。ところどころに空いた席は、目にやり場を与えてくれる。にもかかわらず、大谷は依然として足元に視線を固めたままで、のろのろと紙を開封した。

 どん、と大きな音がしてから、目で捉えていたはずの大谷が姿を消したことに松永が気付くまで、数秒かかった。

 「ちょっとシュン」松永の右斜め前で越智が立ち上がりかけた。彼女の白く柔らかそうなふくらはぎに、松永を威嚇するような筋肉が盛り上がった。教室の後ろからも、ざわざわと戸惑いの声が上がっていた。松永は、自分の視界が捉えた映像を巻き戻し再生した。

 大谷は、開いた紙を見た瞬間、教室の外に飛び出していったのだ。松永は反射的に越智の腕を掴んだ。彼女の腕はやけにひんやりとして、松永の手にこもった熱をうまく逃がしてくれるようだった。越智の他にも、何人かが様子を見ようと廊下へ出かけていた。けれど、その中の誰ひとりとして、怯えた獣のような目をした大谷を追いかけようとする者はいなかった。

 「なっちゃん、俺が行くわ」松永は自分自身へ親指を向けて、ウインクをして見せた。

 「時間もないしさ、みんなは続けてくれ。俺、シュンとはツーカーの仲だったんだぜ」教室の中の誰に言うでもなく告げ、松永は薄暗い廊下へと飛び出した。

▼続きを読む▼
第13章「あちら側に行くことは、こちら側に居続けることの否定である」

ブログ運営者

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

新刊発売中!

できることなら、十四歳という年齢はすっとばしてしまえるのがいい。
冬に元気をなくす母親と、影の薄い善良なフィンランド人の父親を持ち、ぼくは彼らの経営する瀬戸内市の小さなリゾートホテルで暮らしていた。ある時なんの前触れもなしに、ぼくにとって唯一の友達であったソウタが姿を消した。学校に行くことをやめ、代わり映えのしない平穏な日々を過ごすぼくの生活に、少しずつ影が落ちはじめる。

『レモンドロップの形をした長い前置き』
著者:田中千尋
販売形態:電子書籍、ペーパーバック(紙の書籍でお届け。POD=プリントオンデマンドを利用)
販売価格:電子書籍450円(※Kindle Unlimitedをご利用の方は無料で読めます)、ペーパーバック2,420円

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。