【長編小説】『夢のリユニオン』第13章「あちら側に行くことは、こちら側に居続けることの否定である」

星空

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【長編小説】『夢のリユニオン』概要・目次

 「あと二人だよ」教室の後ろに三つ出っ張った机の一番左に座っていた女が立ち上がり、前へ進み出た。例の太った女だった。高校生のころの彼女は、陰気で髪が長く、常にうっすらと汗ばんでおり、彼女がそばを通るたびにつん、と鼻を突くすえた臭いがした。彼女の体型と顔の合計点は、確かに美人のそれの十分の一にも満たないものだった。けれど彼女の魅力の欠落は、その薄暗い性格に起因しているように見えた。

 あたし三十キロも痩せて、顔も整形したの。
 彼女は隠そうともせず、クラスメイトに言いふらしていた。

 男って、簡単ね。あたしが外見を変えただけで、くるっと手のひら返すようにちやほやするの。馬鹿みたい。
 そう笑う今夜の彼女の顔と体は、当時とまったく変わらないはずなのに、どういうわけかひどく大きく見えた。いびつにふくらんだ風船のように。いまの彼女は本当にきれいになったのだろうか。そうかもしれない。相沢は教壇に向かっていく彼女から目が離せなくなった。そうだ、彼女の出席番号は、俺のひとつ後ろ。伊野静香(いのしずか)。

 「松永くんもああ言ってることだし、続けていいよね」伊野は教卓の箱を大事そうに撫でながら、教室に座る人間の顔を順番に正面から見つめていった。もうあのころのあたしとは違うの。舐めないでね、とでも言いたげに。

 「うん、お願い。伊野さん」新堂がにっこりと微笑んで、伊野を促した。

 新堂は、いったい何がしたくてこんなことに俺たちを巻き込んでいるんだろう、と相沢は目線を新堂に移しかえながら考えていた。新堂は、当時から考えが読みにくい人間だった。それは大谷の持つ穏やかさとも、甲林の持つ控えめさとも異なっていた。もっとも、大谷も甲林も二十四年の歳月を経てすっかり人が変わった。新堂はどうだろう。小説をよく読んでいる人間は、傾向的に自分のことをあまり話したがらない。新堂が心を許した人間はこの世にどれくらいいるのだろう、と相沢は思った。高校の同級生が、自分と同じように歳を取り、今もこの地球のどこかで、自分の知らない暮らしを当たり前に続けているのだと思うと奇妙な心地がした。巻き戻しても早送りしても決して交わらない、全然別のビデオテープの中にいる存在を、ただ普通速度で視聴するしかない通常放送の中の自分を見つめているような。

 苦手だ、と相沢は今さらになって思う。新堂だけではない。昔の知り合いに会うということ自体が、苦手だと。その行為は、好きな道に進んで「今」を精一杯楽しもうと心がけながら生きている相沢を、無理やり過去に引き戻した。そして、あるはずのなかった「もうひとつの今」の幻想を目の前に叩きつけてくる。

 「お前、もっと今を生きろよ」相沢はかつて、交際していた女優の卵にそう言ったことがある。先輩俳優の言葉の受け売りだったけれど、その女にぴったりだと思った。女は、表に見せるあけっぴろげな性格とはうらはらに、後悔と将来への不安に満ちていた。かつて自分が選んだ道に自信が持てず、ずっとそうでなかった可能性の中に生きていた。そしてそれゆえに、将来への希望も持てないでいた。

 馬鹿らしい、と相沢は言葉にはせずとも、心のなかで思っていた。その女は美しい容姿を持って、それなりの才能もあって、収入も不足はなかった。しかし、芸能界というところは、上には上がいる世界だ。その女は、他人からの評価の合計点でしか自分を評価できない人間だった。

 「時間軸で見るから、悩みが出てくるんだよ。お前は顔もいいし、演技もそれなりに巧い。過去? 未来? そんなものがなんの腹の足しになるんだよ。今を積み重ねろ。そうして最後に振り返った時、それが過去であり、今であり、未来だったんだってわかるんだよ」

 「言わせてもらうけど」その女は足を組み替え、タバコの煙を左に吐き出しながら言った。ブスだなこいつ、と女の細めた目を見て思ったその瞬間、相沢の愛は冷めた。もともとそんなに好きだったわけでもない。大人になると、何かを埋めるためだけに恋が必要になることがある。恋のような形をした、刺激剤的イベントだ。スマホゲームのイベントと、何ら変わりない。

 「ハルを見てると、あなたの言う今ってやつから懸命に目を背けながら生きているように思うけど」女は憐れむように相沢を見ていた。「あと、それ本木さんの受け売りでしょ。こないだ二人で飲んだ時、同じこと言われた」

 こいつが嫌いだ、と相沢はよく躾された犬のように静かなカフェのテーブルの上で乾きかけたチーズケーキを見ながら思った。そんなことは、俺が一番知ってるんだ。

 「自殺が罪だとしたら」ことさら大きな声で、物騒な台詞が相沢の耳に届いた。伊野の声だった。かつて伊野の唯一の長所だった、涼やかな澄んだ声。

 ああ、と相沢は合点した。今の伊野の態度は、どこかあの女を連想させた。過去と未来に怯え、自分に鎧をまとわせて誰にも心を許さない。

 「自殺が罪だとしたら、私はその罪をここに告白しなくてはなりません」
 彼女の読み上げる懺悔の内容が、相沢の意識を再びここへ連れ戻した。

 「人はどうして死にたくなるのだと思いますか? いじめ、借金、リストラ、恋人の裏切り。それとも理由なんてない? 私は、人が死にたくなる理由は人の数だけあると思います。でも、人が本当に死んでしまうのは、死にたいと欲するからではないのではないでしょうか。人は、死にたい理由を見つけたときではなく、生き続ける理由がなくなったとき、本当にやむを得ず死ぬのだと思います。そのようにして私は静かに死ぬことになりました。私は、天寿を全うしたのだと思っています」

 だん、と伊野が手に持った紙を教卓に激しく叩きつけた。教卓の前はすでに空席だったが、その右隣にいたポニーテールの女がびくっと体をこわばらせた。伊野の荒い息が教室の静寂に動きを与えていた。

 「あたし、もう読みたくないんだけど」伊野は震える手で紙をぐしゃりと握りつぶした。

 「あたしね、こういう奴が一番嫌いなの。こうやって、自分は高い次元でものを考えてますってふりして、結局逃げるだけの奴が。卑怯者。出てきなさい、あたしが一発殴ってあげる」伊野は今にも噛みつかんばかりの目つきで、教室を舐めるように見回した。
 「あんた? 何のとりえもないのに、友だちに情けで一緒にいてもらってたよね」新堂の左隣に座る佐藤の襟を、伊野が掴む。力の強い彼女に引っ張られ、佐藤は無理やり立ち上がった格好になった。

 「伊野さん、落ち着いて」新堂が伊野と佐藤を引き剥がそうと二人のあいだに入る。

 「あんたか、新堂。何考えてるかわかんない奴だなって、ずっと思ってたのよ。グループに属してるふりして、みんなのことバカにしてたんでしょ? あんたのそうやってお高くとまってる感じが鼻につくんだよ。大人ぶってんじゃねえ」佐藤を解放した伊野の手が、新堂の胸ぐらを掴んだ。伊野は、ほとんど接点のなかった二人のことをよく知っていた。

 「僕は自殺なんてしない」隣の教室まで響くほどの声を新堂が張り上げ、伊野が思わず後ずさりした。

 その衝撃で伊野の怒りは霧散し、新堂の乱れた呼吸と、数人の女子のすすり泣く声だけが教室に残った。それから二時間にも感じられる数秒があり、ふう、という大きなため息と、がたがたと椅子と床が擦れ合う音がして、一人の生徒が立ち上がった。

 「伊野っち、ごめんね。それ書いたの、わたし」全員が一斉に彼女を見た。ごくり、と誰かが生唾を飲む。

 「う、うそ」伊野が立ち上がった彼女の方を見て、腰から崩れ落ちた。

 「だって、あんなに明るくて。あたしにも話しかけてくれて。うそ」伊野は今度は激しく混乱し、髪をかきむしりはじめた。

 「わたし、死んだんだ。二十五の時に。自殺よ」そう言って越智は伊野のほうへ歩み寄り、そっと伊野の手を自分の手で包んだかと思うと、そこからくしゃくしゃに丸まった紙を取り出し、前に歩み出た。すでに教室の視線は越智に集中していた。太陽の光を一点に集めるルーペのように、彼女を焦がさんばかりに。

 「みんな、久しぶり」教卓の上に立った越智は、あのころと同じ爽やかな笑顔をクラスメイトに向けた。

 「わたし、死んだのよ。理由は聞かないでね。わたしだって、よくわかってないんだもの。でも、後悔はしてない。ただ二十五の時に思ったんだ。もう、いいかなって。自分って人間のことも大体わかったし、これから世の中がどんなふうに、どんな法則にしたがって動いていくのかも概ね読めた。どんな態度を取れば、相手がどんなふうに返すのか、そういうのは小さいころからなんとなくわかったの。勘がいい子どもってやつ?」ふふ、と越智は照れたような笑みを浮かべていた。教室の中で、曲がりなりにも笑顔と呼べるものを顔に浮かべているのは、越智ただ一人だった。

 「だから、友達も多かったの。明るくて、みんなに好かれて、活発で元気な女の子。それがわたしの代名詞みたいなものだった。そんなふうにしていると、家族も友達も先生も、わたしを褒めてくれた。で、そうやって計算ばかりしていると、だんだんと自分がわからなくなってくるのね。最初のほうは、それでもよかった。まわりが求めるなっちゃんを、うまくこなしていけばいいんだから。でもね、歳を重ねるほど生きるのが楽になるなんて嘘。だんだんと自分像はひとり歩きしていって、それでもこれまで築き上げた自分像は、いつまでも影のようにわたしにまとわり続ける。こうすれば何もかもうまくいくっていうのがクリアに見えるのに、どうしてもそうしたくなくなるの。結局そうするしかないのにね。そうこうしているうちに、生きるってこういうことかって思っちゃうのね。自分に伴走している自分がいて、価値のあるのは影の方の自分。でも結局、本体の方の自分を選ぶような度胸も、その自由を負って生きる責任感もなくて、ずっと宙ぶらりん。ああ、後の人生はもう消化試合みたいなもんねって。自分じゃない自分を演じる心地よさから逃れられないまま、ずっと人生を引き伸ばしていくんだなって。同じところをぐるぐる回って、体力を消耗して、動物や植物の命を奪って体力を回復させて、また意味もなく回って体力を使う。そういう何もかもに、すっかり疲れちゃったの。特定の理由があって死ねる人のほうが、いくらか幸せよね。わたしは、何があろうと、何かがなかろうと、遅かれ早かれ結局死んでた。そういう人間だったってこと」

 「こ、後悔してるんだろ」相沢が勢い良く席を立った。誰もいない後ろの席の机が、無機質な音を立てて大きく後ろにずれた。

 「わかんない」越智が急に無表情になって言った。そこには、過去を思い出す様子も、今の気持ちを見つめている様子もなかった。ただ、人形のようなひんやりとした容れ物にはめられたガラス玉みたいな目が二つ、罪もなく光っていた。

 「死んだ瞬間にね、ぜんぶなくなったから」越智は再び人懐っこい笑顔を取り戻して言った。

 「感情とか、欲望とか、絶望とか希望とか、ぜんぶ。ただすごおく暗くて、静かなだけ。痛くもないし、お腹もすかないし、悪くないわ。それに、生きてるってどういうことか、もう忘れちゃったし」

 「そんなのつまんねえよ」相沢は越智の目を直接見ることができなかった。今以外のどこかに希望を託して、必死で今から目をそらし続けている相沢にとって、自殺は救済であってはならなかった。死んでしまうことで何もかもがなくなるなら、今まで踏ん張ってきた意味もなくなるってことだろう。そんなの、割にあわないじゃねえか。

 「俺は、人生の元を取ってから死ぬ。せっかく乗り放題のフリーパス持ってるのに、メリーゴーランドしか乗らないで、何がぐるぐる回ってるだけだよ。他にどんな面白い乗り物があるか、知ろうともしないで」
 なあ、そうだろう。そうであってくれよ。でなきゃ、何のために生きてるんだ。

 「ハルらしいね」越智は屈託のない笑みで、相沢に微笑みかけた。そこには、感情の揺れはほとんどなかった。高校生のころに見せた、豊かな感情の群れは今や遠い草原で草を食んでいた。いや、あるいはあのころの越智さえも、作り出された感情の動物園だったのだろうか。

 「ハルの演技、見たかったかも。要、わたしの代わりに見ておいてよ」越智はそう言って、爽やかに新堂の方を見た。新堂の方は、相変わらず落ち着き払って前を見つめていた。

 「新堂、お前知ってたのか? 恋人だろ? 越智が死んだ時も、お前そばにいたのかよ」

 「ハル、次ハルの番だよ。トリなんだから、気合い入れてよね。ほら、みんないなくなっちゃう前に」越智は、大谷を追いかけていった松永の席に腰掛けた。相沢の目の前だ。ここからは、新堂は背中しか見えない。

 教室には、もう十人も残っていなかった。例のぼんやりとした光の集合体のせいか、それとも太陽のせいか、窓の外は随分と明るくなっていた。にもかかわらず、すべての境界線が曖昧だった。物体と物体の触れ合うところは、それが触れ合わないところと同じくらいぼんやりとしていた。

 午前七時八分。もう一時間もすれば、正真正銘の現在に希光学園に通う高校二年生たちが、夏休み明けの気だるさを抱えてがらんとしたこの教室に集まり始めるだろう。

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第14章(1)「民と国家の利害の一致としての存在」

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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