【長編小説】『夢のリユニオン』第14章(1)「民と国家の利害の一致としての存在」

星空

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【長編小説】『夢のリユニオン』概要・目次

 「シュン、お前待てって」
 一方で、松永と大谷は薄暗い校舎で追いかけっこをしていた。興奮した大谷の駆ける音は静かな校舎に大きく響いており、松永は容易に彼を追うことができた。成績では大谷の足元にも及ばずとも、足の速さでは負けない。松永は、高校二年生に戻った自分の体が思い通りに動くのを、楽しんでさえいた。今は廊下を走っても、誰も咎める者はいない。こんなにも全力で走ったのは、いつぶりだろう。何かを懸命に追ったのも。

 「諦めろよ」五分ほどぐるぐると狭い校内を走り、ついに松永は大谷の背中のシャツを捉えた。ぐい、と引っ張られた大谷がバランスを崩し、廊下の左側の壁に激突した。そこは、数時間前に相沢が一人で訪れた家庭科室のすぐそばだった。

 「お、おい。大丈夫か」大谷の額からは一筋の血が流れていた。夢の中でも血は流れるのか。それが松永の最初の感想だった。

 「痛いか? とりあえず血、止めよう」額に手を近づける松永に、大谷はぶるぶると首を振った。それは痛みを感じないという意味の返答なのか、松永に対する拒絶なのか、大谷の表情からはうかがい知れなかった。額から飛び散った血が、大谷の腕を掴む松永の右手にかかる。

 瞬間、松永は大学時代のある出来事を思い出した。

 他の多くの同級生と時を同じくして、松永は大学生の春を迎えていた。松永の場合は、三年に上がった年だった。授業のサボり方のコツを身につけ、就職活動までまだ間のある、一番自由な時期だった。自分にできないことなどなく、望めば望むだけ未来が広がっていくと信じて疑わなかった。そして自分は、自分の身の丈に合った望み方さえも心得ていると自負していた。大学生活はまだ半分もまっさらの状態で残っており、近く始まる会社員人生もさほど嫌だとは思わなかった。どんな状態も、それが今の延長線である限りはそれなりに楽しいものだろうと信じていた。その考えは、四十歳になる今もおおむね変わっていない。その中でも、大学三年生の春は特別明るい色を放っていた。

 松永の所属するテニスサークルは、十三回目の新歓の時期を迎えていた。とは言っても、新歓は二年生が主に取り仕切って行う行事だったため、三年の彼らにほとんど役割はなかった。半分遊びのようなサークル活動もそこそこに、三年のメンバーは共に酒を飲み、共に時間を過ごした。その日のバーベキューも、そんな同学年同士の友情をしつこく再確認するための、ささいな行事の一つでしかなかった。誰も、その中の一人がその日死ぬなんて、思いもよらなかった。

 松永は幸運にも運転手の役を免れた。三年生のメンバーのうち特に仲の良い十二人は、二台の車に分かれて近場の海へ出掛けた。松永は黒のステップワゴンの助手席に収まった。クーラーボックスには、酒とバーベキューの具材が満載にしてある。必要な道具は現地で借りることになっていた。

 どこにでもあるありふれた光景だった。青春を謳歌する大学生の男女が、痛々しいほどの馬鹿騒ぎをしてじゃれあっている。日焼けをしないようにパーカーを羽織っている女たち。彼女らにアピールするかのごとく甲斐甲斐しく肉の世話をする男ども。元気にビーチバレーに興じる者たち。松永ら男三人のグループは、肉で腹を満たしたあとに沖にある岩場まで泳いで競争した。

 一番乗りは、その死んだ男だった。高校生のころ水泳部だったうえに、運転手役を引き当てたために酒も飲んでいないというアドバンテージを持っていた彼は、早々に岩場に到着し、松永たちを呼んでいた。腕をぐるぐると回し、必要以上にはしゃいでいた。そして、岩場で足を踏み外し、頭を打った。

 それだけだった。たったそれだけのことだったのに、十分後には松永の手を血に染めて、彼は死んだ。これまで死んだ人を見た経験といえば、ほとんど会ったこともなかった曾祖母くらいだった。棺桶の中に横たわる彼女は、どちらかと言うと人間というより仏のようだった。だから、二十歳の松永は初めて知った。本当に、人は死ぬのだと。それも、こんなにも簡単に死ぬのだと。自分が歳を取るまで生きるなんて確信は、幻想に過ぎないのだと。

 「逃げんなよ、シュン」大谷をつかむ右手の力を緩め、松永は言った。その緩みに呼応したのか、松永があまりにも深刻そうな顔をするからか、大谷の体から力が抜けた。大谷は答えず、かわりに二人が肩で息をするぜえぜえという音だけが残った。松永はポケットから、しわくちゃになったハンカチを取り出し、大谷の頭に巻きつけた。「多分これ汚いから、後でちゃんと消毒しろよ」

 「うん」大谷は、目を伏せたままで消え入るように呟いた。

 「やっと喋ったな」松永はにかっと白い歯を見せて笑った。

 「血出てるとこ、痛くはないのか?」松永は灰色のハンカチから滲むどす黒い血から目を逸らせずにいた。そう、本当の血はテレビドラマみたいに真っ赤なんかじゃない。もっと、海の底みたいに濃く深い色をしている。いつもは見えないところにいて、いざそれを目にすると、その者を深いところへ引きずり込んでしまいそうな色。

 「大丈夫」大谷は、今度は落ち着いた様子で静かに首を縦に振った。何かを諦めたようにも見えた。

 二人して壁に背中を預け、そのままずるずると床に尻をつけた。ひんやりとした石の廊下が、全力疾走のあとの火照った尻に心地よかった。二つ下の階では、まだクラスメイトたちが懺悔を続けているはずだった。松永は、正直なところホッとしていた。いくら大人になったとはいえ、かつてのクラスメイトたちの罪の告白を聞き続けるのは心愉しいものではない。夢も希望もないではないか。歳を重ねるということは、罪を重ねるというだけではないはずだ。重ねる罪の分だけ、守るものが増えたということなのだと松永は信じていた。信じたかった。第一、松永自身は他のクラスメイトほど大きな後悔を抱えて生きているわけではなかった。皆、暗いんだよ。前向きに行こうぜ。教室で言い出せなかった言葉が、松永の中に堆積していた。そしておそらく、現時点の二年五組でもっとも暗い人物が、松永の目の前にいた。それは、松永が唯一敵わないと思っていた人物でもあった。

 「シュン、俺のこと嫌いか?」前を向いたままつぶやいてみる。

 一泊置いて、首がゆるゆると横に振られる。

 「じゃあ、怖いのか?」

 反応はなかった。松永は思わず吹き出してしまった。

 「俺、怖いキャラじゃないだろ。高校のころ、天使みたいな顔してお前、俺にさらっとツッコミ入れてたじゃん。文化祭の係決める時とかさ」見上げた窓の奥には、奥行きの見通せない闇があるだけだった。

 「え」隣で大谷が松永のほうを振り向いた。「そんなつもりじゃ」

 「うそ、あれ天然だったの?」松永も驚いて、大谷のほうを向いた。二人の顔の距離が思いのほか近く、大谷は「ひっ」と後ろに退いた。

 「あ、わり」松永は自分も少し後ろに身を引き、また二人は揃って小さな壁のほうを見る格好になった。

 「なあ」松永は、かつての相棒(と呼べるほどの仲だったかはわからない)を思い出しながら、今隣にいる男に語りかける。

 「高校生のころは、何もかもがあんなにもシンプルだったのにな。俺みたいな人間はきっと、今でも単純なんだろうけど。でも、シュンみたく頭の良いやつは、考えることがどんどん増えてって、それがあっちこっちの方向を向いて、そんでお前は優しいやつだったから。優しいやつってのは、社会で割を食うよな」

 しばらく沈黙が続いた。彼らの沈黙に、不思議と気まずさはなかった。家庭科室からは相変わらず料理のにおいが漏れ出している。もう中に人のいる気配はなかった。かつての母校の廊下に広がるその空間と、そこに含まれる自分自身は、ほんの少しのバランスで歪んで崩れてしまいそうなほど現実感がなかった。それだけが、ここが夢の中であることを示しているようだった。いや、現実の世界にも、「現実感」なんてものはありはしない。何もかもが微妙なバランスで成り立っており、そこが崩れればまた別のバランスにたどり着くだけだ。松永にとって現実とは、流れるプールに漂って流れ着く類のものだった。今の現実へのこだわりをそれほど強く持っているわけではなかったが、他にどのような現実を持つべきかということもまた、ここから見える窓の景色のように闇の中にあった。仮の状態で過ごしている「いま」が時間とともに力を持ち、だんだんとそれを手放すのが惜しくなってくる。自分にとってそれが大事であるかどうかは、また別の話だ。

 「こんなはずじゃ、なかったんだ」大谷が口を開いた。松永は驚いて彼の方を向きかけたが、こらえて姿勢を崩さなかった。

 「今日は眠らないつもりだった。万に一つも、同窓会になんて来ないつもりだった。いつもは眠るのに苦労するくらいなのに。なあ、えいちゃん。今、えいちゃんも同じ夢を見ているのか?」大谷の視線が松永の横顔に向けられる。

 「わかんね。息切れたり汗かいたりもするし、夢かどうかもわからない。もちろん現実ではないと思う。少なくとも俺は、シュンが話していることがわかるし、それに対して答えることもできるし、最近思い出すこともなかった母校にいる。人間の潜在意識ってやつなのかもしれないけど、でも俺は二年五組全員が同じ夢を見てるっていうファンタジーみたいな話を信じたい。新堂が出したっていうあの手紙のこともあるしな。子どものころに夢見てたこんな奇跡が、一つくらいは起こってもいいんじゃないかっていう期待もある。大人になるほど俺たちは、一つ、また一つって夢を手放して、同時に現実を手に入れていく。それは悪いことじゃないけど、でもやっぱりつまんねえよ。だから、今日のこれはやっぱりただの夢じゃねえ。でもさ」松永は、ほんの少し勇気を出した。利害関係のない、純粋な勇気を出したのは、もう何年ぶりのことだろう。

 「でも、やっぱり夢なんだよ。そして、俺は夢の内容を覚えていたことは生まれてこのかたただの一度もない。だから、俺には話してみろよ。シュンの人生に起こったこと、今のシュンのこと。俺、黙って聞いてるから」

 また、長い沈黙があった。大谷は迷っていた。あるいは彼は、再び心を閉ざしてしまったのかもしれない。今何時なのだろう、と松永はふと思った。自分と大谷に残された時間は、どれくらいあるのだろう。神よ、もう少しだけ。彼は、思いつく限りの宗教の神さまに祈った。

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第14章(2)「民と国家の利害の一致としての存在」

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