【長編小説】『夢のリユニオン』第14章(2)「民と国家の利害の一致としての存在」

星空

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【長編小説】『夢のリユニオン』概要・目次

 「働いてない。もう、ずっと」やっぱりいい、と松永が言いかけるほんの一瞬前に、大谷が口を開いた。
 「就職して、一年半で行けなくなって、そこからずっと」

 ぽつり、ぽつりと、大谷は吐き出すように話した。まるでそこら中に散らばっている紙の切れ端を拾い集めて、少しずつ読み上げていくように。

 「うん」静かに、聞いているというしるしを示す程度に頷く。

 「これ、自分のだったんだ」大谷が左手を前に出した。きつく握られて爪のあとがついた手のひらに、くしゃくしゃに丸まった紙が載っていた。手の汗で湿ったそれは、上手く開かないとはらはらと破けてしまいそうだった。

 「皆がどんどん紙を読んでいくのを聞いてて、しまったなって思った。自分のが読まれたら、空気悪くなっちゃうなって。せっかくの同窓会なのになって」シュンいつも空気読んでたもんな、それでちゃんと読めちゃってたもんな、と松永は壁に向かって声を出さずに呟いた。

 「でも全然自分のが出てこなくて、嫌な予感はしてたんだけど、やっぱり自分で引いちゃったんだ。大学を卒業してから、ぼくにはいいことなんて一つも起こらなかった」彼が話しだすと、まるで詰まっていた水道の蛇口から水が吹き出すように言葉は続いた。そこにはあらゆる時系列が混在し、事実と解釈が一緒くたになっていた。それでも松永は、ひと言も聞き漏らすまいと意識を集中した。自分のことを話しても、相手を傷つけるだけであろうことくらいは、彼にもわかった。いつものように勝手に調子よく口が動き出さないように、唇を内側に折りたたんで、噛んでいた。

 「ここに書いてあることを知ったら、えいちゃんはぼくに失望すると思う。でも、怒らないでほしいんだ。怒鳴り声とか、そういうのにすっかり弱くなっちゃって」
 つぐんだ口を咄嗟にほぐせずに、代わりに松永は首をこくこくと激しく上下させた。

 「これ、『生きていること』って書いてある」自分の手のひらを見つめる大谷は、その吹けば飛んでしまいそうな紙きれをひどく重たそうに持っていた。松永は、その大谷の履いている上履きを見つめていた。足の甲のところに「大谷」と油性マジックで書かれてある。それは大谷に所有されていることを証明しているのか、あるいはこれを履く者が大谷であると示しているのか。

 「うん」松永は、自分の心臓がどくどくと波打つのを聞いていた。テレビで、あるいは会社のうわさ話で、心の病を抱えた人の話を聞いたことがある。それで命の線を断ち切った人の話も。そして今自分が生きていることに罪の意識を感じるほどに病んでいるのは、かつての憧れの人だった。自分のように出しゃばってアピールしなくても認められ、そこにいるだけで愛され、誰にでも別け隔てなく接し、四十になった今でも宴会部長をしている自分では逆立ちしても敵わない人。

 「ずっと、死にたいと思ってきた。自分なんて、死んだほうが世のためだと。今も。でも、死ねない。どうしても、死ぬ勇気が出なくて、今まで生きてしまった」たぶん彼は、自分が見てきたよりももっと深く、暗い世の中の姿を目にしてきたのだろう。

 「うん」

 「えいちゃんにはわからない」大谷がびくついた目で首をわずかに松永のほうへ向けた。

 「ふざけ」思わず大きな声を出しそうになるのを、懸命に飲み込んだ。「いいか、シュン。お前は俺がずっと憧れてた人だ。卒業してから連絡を取るのも嫌になるほどにな。お前が一生懸命話すから、俺もこんな恥ずかしいこと言うけどな。お前が生きてちゃいけないなら、俺みたいにへらへら毎日をやり過ごしてる奴なんて、ただの塵芥だ。でも、今は俺の話はいい。二人とも目が覚める前に、ここで全部吐け。明日からまた同じような思いがお前の中に積もっていくことになるんだとしても、とりあえず今日までの分は吐いちまえ」

 「ごめん。でもありがと」大きく息を吸って、そのまま勢い良く吐き出した後の大谷の声は、松永にはわからないほど、ほんの少し芯の通ったものになった。

 「今となっては、もう死にたい理由なんてわからない。自分が病気なのか、そうじゃないのかも。はじめは、会社だった。この高校から大学に上がった時、世の中にはいろんな人がいるんだと思った。いろんな価値観、いろんな経歴、いろんな目指す方向。そこで、自分はいわゆる一般的な人とは感覚が少しずれていることに気がついた。けど、大学にはぼくの居場所があった。ぼくは無理に他のやり方に合わせる必要はなかった。誰も文句は言わなかったし、それなりにうまくやれていたんだ。生徒の三分の一は留学をする学部で、アメリカへの留学もした。思い切った決断なんてしなくても、選択肢は目の前にちゃんと並べられていた。前に進んでいくための、正しい選択肢が。
 そして会社に入ると、道が険しさを増した。世の中にはもっともっといろんな人がいた。ぼくが受け止めきれないくらいに。だんだんと道幅は狭くなって、進む方向を選べる分岐点が減って、後ろからは大きな岩が追いかけてきて、そして急にぷつん、と道が途切れた」昔話をする大谷は、苦しそうでも悲しそうでもなかった。目は一点を見つめ、淡々と話すだけだった。もうそのころの話は、今の大谷の心に触ることさえできないようだった。

 「そこでは、正しいことは正しくはなかった。正しさと正しさは対立し、より力の強いほうが新しい正しさになっていった。まるで戦争と一緒だ。いや、この言い方はフェアじゃないよね。結局、それまで自分の中に自分の正しさを作ってこなかったってことがわかっただけだった。ぼくは、いつも大きな権威の掲げる正しさに寄りかかって生きてきただけだったんだ。自分の内側の声に耳をふさいで。だから、権威と権威がぶつかりあう場所に行った時、もう前に進めなくなった。道が見えなくなった。自分を責めて、死のうとして死ねなくて、また自分を責めた。自分を責めてさえいれば、少なくとも他の人には責められないんじゃないかって思った。仕事にも行けないし、何の役にも立たないけど、ちゃんと苦しんでいるから殺さないでくださいって。死にたいのに、殺されるのは怖いんだ。おかしいよね。
 そのまま、三十後半になるまでずるずると引きこもっていた。肉体的におかしなところがあるわけでもないのに、ずっと布団から起き上がれない。母親が世話してくれる三度の飯だけは、ちゃっかり食べる。何ひとつ生産的なことをしていないのに、腹は減るんだ。インターネットの住民にだけはなりたくないっておかしなプライドは捨てられずに、一人でジグソーパズルばかりしていた。誰もが蔑むような、汚くて落ちぶれた中年男になっていた。こんなはずじゃ、こんなはずじゃないのにって、いつまでも現実を受け入れずに。そして、両親が連続して病死した。遺産なんてほとんどなかった。生きていくためには、生活保護を受けざるを得なくなった。ぼくがついに馴染めなかった社会のシステムが作り上げた、末端の人間が変な気を起こさないように囲い込んでおくための、よくできた仕組み。ぼくは刻印を押されて、社会の隅の方にしまい込まれたんだ。不要、って大きく書かれたダンボールに詰められて。
 すると、今度は何もかもを世界のせいにしたくなった。ぼくは言われたとおりに頑張っていたのにな、って。使えなくなったら、こんなふうに捨てるんだなって。会社に入るときには大きな武器になったぼくの履歴書は、会社を辞めたあとはどんどん足かせになっていった。ケースワーカーに促されて行ったハローワークも、ぼくの生きる気力を奪うだけだった。一年で会社を辞めて、そこから十年も引きこもっていた人間に来てほしいところなんてない。ぼくはこのまま、あと二十年か三十年、悪くすれば四十年。社会の裏側で残された生を細く引き伸ばして生きていくことになる。不思議なことに、そう思うとすごく楽になるんだ。ああ、もう頑張らなくてもいいんだって。ぼくにはもう、失うべきものはない。このままじっとしていれば、危険なことはないんだって。そう思うと甘いよね、この国は。弱い人間、狂った人間を恐れるあまり、彼らに甘くなる。人間を、だめにする。狂っているのは自分たちかもしれないのに。ほら、こんなふうにさ、誰かのせいにしたくなっちゃうんだ。ぼくのこと、軽蔑したろ? でもさ、もうこのぬるい汚水に浸かっているみたいな暮らしから、抜けられる気がしない。抜けたくないんだよ。人生、こういう堕ち方もあるんだって、いい勉強になったよ」

 「シュン、昔から嘘つくの下手だよな」言い放った松永の心には、あらゆる感情が混じっていた。

 憤り。

 切なさ。

 やりきれなさ。

 痛み。

 悲しみ。

 厄介なことに、そこにはわずかな優越感まで含まれていた。それらの感情をいっぺんに隠そうとして、彼の言葉はひどく優しい響きを持った。そしてその優しさも、嘘ではなかった。人は、自分よりも弱いと認識した人間に対してだけ、優しくなれるのかもしれない。

 大谷が言葉を発さずにこちらを向いた。前を見る松永には、その表情は見えない。

 「このままでいいなんて、全然思ってないだろ?」そう呟く松永は、あるいは大谷にこのままでいてほしいのかもしれなかった。かつて敵わないと諦めた相手が、地の底まで落ちぶれている。それならもう自分は、おどけて何かを誤魔化し続ける生き方をやめられるんじゃないだろうか。いや、と彼は即座にその甘い考えを否定した。結局のところ、俺の人生はもう大谷とは別のところで進んでしまっている。

 松永の言葉の裏に隠された感情の嵐を知ってか知らずか、大谷は例の困ったような笑みを浮かべた。

 「ごめんね、期待に応えられなくて」大谷は、おそらくは問われ慣れたその質問に、答え慣れた答えを出してみせた。高校生のころと寸分違わぬその笑みは、松永にはあの日のそれとは随分違って見えた。俺が変わったのだろうか、それとも大谷が。あるいはその両方。

 「求めよ、さらば与えられん。信じる者は救われる。こういう言葉も、生活保護制度と同じだよ。持たざるものに、その日生きられるだけのパンを与える、国家的奴隷制度としての格言。そして同時に、民はそれを求めている。結局、人生は苦しみに満ちていて、人間同士でその傷を舐めあったり、治る前に新しい傷を作ったりを繰り返してるだけなんだ。程度の差はあれ、みんな苦しみから解放されることに、完全なる自由を手に入れることに怯えている。自分の持つ苦しみを自慢気に見せびらかせて、それに不満を言うことで仲間意識を持ったり、それと闘う自分に酔いしれたりしているだけ。教室でのみんな、見ただろう? そのくせ、苦しみから束の間逃れたくなったら、下を見て満足するんだ。
 ぼくのこと見て、安心するだろ? それは、自由への恐怖とプライドの高さが矛盾した民と、人々をシステムの中に組み入れたい国家の利害の一致なんだ。ぼくらみたいな人間が生きている限り、死なずに生きて底辺の暮らしをしている限り、それを見る民は自尊心を満たすことができる。あるいはそれは、その他大勢の人が日々の苦しみに耐えるための鎮痛剤でもある。差別がタブーになってる今の時代こそ、言葉にならない、目に見えない部分で人の心に深く貼り付いて剥がれない。平和な世界が訪れるなんて本当に信じている人は、人の心ってやつを全然理解していない。どう、こんな世界で、まだ生きたいって思う?」

 松永の持つどんな言葉も、目の前の大谷にはもはや届きそうになかった。彼はもううんざりしかけていた。

 何がダメなんだよ。そこそこの大学に行って、特に信念もなくサラリーマンやって、普通に結婚して子ども育てて、メシ食ってクソしてたまにセックスして、ビール飲んで幸せを感じるような、そんなそれなりの人生を送ることの、何がいけないんだ。誰も彼もが深くものを考えたり、充実した人生や意味のある人生を送ったりしてるわけじゃないんだ。俺たち凡人に、そんなものをいちいち求めてくるんじゃねえ。

 「なんつうかお前、考え過ぎだよ。それにしても、ちゃんと喋れるじゃん」松永はため息をついた。頭がずきずきする。

 「そうかな、夢だからかな」大谷は、静かに自嘲的に笑っていた。

 夢でも、いつもと違うことなんて何も起きないし、できないじゃないか。夢も希望もない。松永と大谷は、似たようなことを考えていた。

 ばちん。

 思わず自分の頬をかばってしまいたくなるような破裂音がした。と同時に、左にいる大谷が松永の方へ倒れこんでくる。大谷の頬を打った誰かは、そのまま大谷に殴りかかっている。

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第14章(3)「民と国家の利害の一致としての存在」

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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