【長編小説】『夢のリユニオン』第14章(3)「民と国家の利害の一致としての存在」

星空

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 「ふ、ふじいちゃん。タンマタンマ」なんとか立ち上がった松永は、息を荒くして拳で大谷を殴り続けている藤井を止めようとした。女の子とは思えないほどの力を大谷に向け、彼女の体はぶるぶると震えている。それでも、高校生になる男女の体は、しっかりと力の差がついていた。松永は藤井を後ろから抱え込む。

 「離して! 離してよ、えいちゃん」松永の腕の中で藤井の体は熱を持ち、身をよじろうとする。ふわり、と藤井の髪から香る花のような香りが松永にかすかな羞恥心を抱かせたが、松永は腕の力を緩めなかった。

 「この根暗! 人でなし! そんなふうに諦めたみたいな顔して、カッコつけてるつもり? 馬鹿じゃないの」藤井はほとんど金切り声で叫んだ。

 「そうやって底辺に甘んじて、それで人の心の闇をみんな抱えて生きてるつもり? ふざけんな。あんたなんかいなくたって、人は病むし、治っていくの。みんなちゃんと前向いて、治らない苦しみとも、治る苦しみとも向き合っていくの。病気じゃなくたって、自分の苦しみと一緒に生きてくの。人間は、弱いけど強いよ。少なくとも、あんたみたくそれらしい理由つけて逃げてばっかなんかじゃない」

 こんなに激しく感情を見せた藤井を、松永は始めて目にした。松永には、ここまで大谷に対して使うエネルギーはない。

 「まあまあ、ふじいちゃん。ゆっくり話しあおうよ。そのために人間には言葉があるんだしさ」昨日テレビのドキュメンタリーで誰かが言っていた言葉をそのまま口にする。

 「あんたもあんたよ」藤井の鬼の形相が、松永の顔を捉える。「男だったら、一発殴るくらいしなさいよ。あのシュンが、こんなんなってんのよ。あんなになんでもできて、優しくて、あのシュンが、何もかも失って」

 「失った失ったって言うな!」大谷が松永の隣で叫んだ。大谷が叫ぶところも、松永は初めて見た。今日はやけに特別なことが起こる。それとも、高校生のころの松永には見えていなかったものがようやく見えるようになっただけなのだろうか。

 「ぼくからあれがなくなった、これがなくなった。前のほうがよかったのに。もったいない。どこで間違ったのか。もうやめてくれよ! ぼくだって好きでこうしてるわけじゃないんだ。ぼくなりに頑張って生きてきて、その結果はこれでしかありえなかったんだ。もう、ぼくのなくしたものの数ばっかり数えるのはやめてよ……」

 「ごめん、ごめんなシュン。な、ほらふじいちゃんも。今のシュンを、ちゃんと見てやろうぜ」さっきまで大谷に対して複雑な感情を抱いていた松永は、いつの間にか仲裁役になっていた。

 いつもこうだった。こうして、へらへら笑ってうまくやり過ごしてきた。自分の意見をはっきり言わなくとも、誰かと誰かの間を取り持っていたら、なんとかなってきたんだ。

 俺はほんとうにここにいるのか?

 「もう何も、信じられなくなってる」藤井がひどく冷たい顔でそう言った。そして次の瞬間、眉間にしわが寄り、右目からつうっと色のないしずくが流れ落ちた。

 「信じたら負けなんでしょ」大谷が藤井をぎろりと睨んだ。

 「かなちゃんも昔そう言ってたじゃないか。大人は信じられないって。ぼくも会社に入ってよくわかったよ。大人で嘘をついていない人なんていない。みんな笑顔の皮をかぶって、ほんとうの感情を見せない。信じたら負けなんだ。裏の裏の裏を読んで、適切に行動しなくちゃ、社会ではうまくやれない。みんなほんとうに器用だよね。尊敬するよ。僕は嘘つきばっかりの世界で、生きていたくはない」へらっと笑った大谷の口元が、声もなく叫んでいた。悲しい。寂しい。愛して。愛して。愛して。

 「嘘つくのはね」松永の腕の中で、藤井の力がふっと緩んだ。「守ろうとするから。自分や、家族や、大切な人を。システムっていう血の通わない容れ物に何もかも奪われてしまわないように。ねえ、シュン。せめて自分は守ろうとしてよ。自分のこと、大事にしてよ」最後は言葉にならず、藤井はそのまま冷たい廊下へ崩れ落ちた。

 「俺さ、ダチが死んだことがあるんだ」松永が会話を引き継いだ。

 「大学のサークルでさ、大はしゃぎして海に行って、沖まで泳いで。ゴールだった岩場で、頭打って死んだ。だらだら血が流れてきて、もう一人が助けを呼びに行ってるあいだに死んだ。ずっと気を失ってたから、最期の言葉とかも聞けなかった。あっという間だった。二十歳の、心身ともに申し分なく健康だった男が、あっけなく死んだんだ。もっともっと生きたかったはずだ。なあシュン。お前が生きている今日は、たくさんの人が望んで生きられなかった明日なんだ。なんてどっかの台詞を引用しても、お前にはただの押し付けにしか聞こえないよな」

 「えいちゃんはさ」大谷が表情のない顔で静かに言う。「死にたいって思ったことある? ないよね」

 「そりゃ、一回くらいは思ったことあるんじゃない? もう覚えてないけど」松永は少しむっとして答えた。

 「死にたいって思い続ける期間が長くなるとさ、こんなふうに思えてくるんだ。生きたいって思いながら死んでいくよりも、死にたいって思いながら生き続けるほうがずっときついんだなって」

 「じゃあ死ねよ! 今すぐ!」油断して腕の力を緩めていた松永が「あっ」と思った瞬間には、藤井が大谷の首根っこをつかんでいた。

 「ここから飛び降りるとか、そこの家庭科室の包丁使うとか、どうにでもなるじゃん。そんなに死にたきゃ、死にゃいいんだよ。死ぬことからさえ逃げてんじゃないよ」

 「ふじいちゃ」

 「幸せになることから、逃げてんじゃない!」藤井は自分でも驚いていた。どうしてこんなにもイライラするのだろう。普段患者と向き合っているときは、自分の感情なんて揺れないのに。静かに見守ってやれるのに。大谷にだけは、なぜか激しい怒りを覚えた。精神科医をやっていてひとつわかったのは、自分のことが一番わからないということだった。

 「いい、事故でも病気でも何でも、死んでいく人はもう生きられないの。生きたいって思ってても、死にたいって思ってても、もうそんなことは全然関係なく死ぬの。でもね、死にたいって思いながらでも生きている人間には、チャンスがあるの。生きたいって思いながら、生きられるチャンスが。一度でも死に近づいた人間ならね、普通に生きているだけだったら一生わからないような、生きる喜びを感じる瞬間に出会う可能性があるの。その可能性からも逃げるの? 人生なめんな!」

 そのまま藤井は押し黙ってしまった。三人の話す声が止むと、あたりはやけに静かだった。かつて静かだと思っていた昼休みの体育館裏も、本当の意味での静寂ではなかったのだ、と思ったのは、三人のうちの誰だったろうか。そこでは部活の練習に励む生徒たちの声が遠くに聞こえ、頭上に蝉が鳴き、風が木々を揺らせる音がした。重なった葉のあいだから差し込む太陽の光さえも、細かいガラスのかけらを振りまくような音を立てているような気がした。

 ここにいる三人のあいだに存在する音は、もはやすっかり燃え尽きてしまったようだった。感情の音も。五線譜からばらばらにほどけた音符も、楽器のパーツも、いつかまた音楽を奏でるようになるのだろうか。彼らはそのまましばらく、静寂に身を任せておとなしく座っていた。思考と頭痛が交代に出入りしていた。

 「な、せっかくだから料理食っていかねえ。こんなフルコース、めったにお目にかかれないぜ。それに、もうすぐこの夢も終わりだろ」松永はいまだ食欲をそそる香りを放つ家庭科室を指差し、にかっと歯を出して笑ってみせた。俺みたいな人間も、たぶんこの世界には必要なんだろう。

 「えいちゃん、やっぱり今絶対メタボでしょ。ま、そういう生き方も悪くないけど」藤井はいつの間にかいつもの調子を取り戻し、涼しい顔をしていた。

 「シュン、あんたも食べなよ。どうせろくなもの食べてないんでしょ」藤井が大谷の方へ手を差し伸べた。大谷がぎこちなく藤井の指先だけを持って立ち上がった。

 「お前らさ、夢から覚めたら一回会わないか?」松永は名案を思いついたことを示すように人差し指を伸ばした。目は二人の結ばれた手を追っている。

 「高校生の時からお前ら二人のこと、じれったいなあって思ってたんだよ。もうお互いいい大人なんだしさ。俺が取り持ってやるよ」

 「それって」得意顔の松永に、藤井がいたずらっ子のような笑顔を向けた。

 「えいちゃん抜きじゃだめなの? だってえいちゃん、夢の内容覚えてたことないんでしょう?」

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第15章(1)「孤独という肉体的な痛み」

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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