【長編小説】『夢のリユニオン』第15章(1)「孤独という肉体的な痛み」

星空

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【長編小説】『夢のリユニオン』概要・目次

 夢の中でも、時間は流れるのだろうか。それは時の呪縛から解き放たれた、自由な場ではないのだろうか。現実に起こっていることではないのに、僕たちはそこで巻き起こることについて一切の決定権を持たない。それでいて、決定的にそこに巻き込まれる。自由意志がないぶん、それはある意味で不自由な体験なのかもしれない。現実の制約の中ではできない体験ができることと、少なくともいくらかでも自由意志があること、どちらがより自由なのだろう。あるいは、現実にも自由意志なんてものは存在しないのかもしれない。そもそも、僕たちは自由なんて望んでいるのだろうか。それとこれとはまた別の話だ。

 空が白んでいる。それは、日が昇ったことによる光の到来と無関係ではないのかもしれない。雲はなく、頭上には宇宙へ向けて一直線に広がる空間がある。けれど、そののっぺりと広がる白さはひどく閉塞的である。僕たちをここに閉じ込めて、永遠に離さないような。それはある意味で、心地よくさえある。痛みの伴わない束縛は、人を安心させる。ふわふわと甘いわたあめで包み込まれるような感覚を与える。実際には真綿で首を絞められているかもしれないなどとは思いもよらない。幸福で平和な死。

 相沢はゆっくりと時間をかけて教卓の前に立ち、ぐるりと教室を見回した。平日の朝の映画館のように、ぽつ、ぽつ、としか人がいなかった。そこに興奮や感動を求めて来る者はほとんどいない。暇を持て余した早起きの老人か、映画研究倶楽部の大学生くらいだ。それでも、乗車率が三パーセントでも二百パーセントでも変わらず運行される列車のように、フィルムは送り出される。

 誰も何も言わなかった。彼らはまるで相沢の出演するテレビドラマを気慰みに眺めているだけだというような、圧力のない無言だった。彼らの目は相沢を見ていたが、実際には細かい粒子の総体としての画面に眼球を向けているだけだった。奇妙な既視感を抱えたまま、彼はそこで立ちつくしたっぷり五分間、目をつむった。皆が緊張を解いていた。飽きさえしているのだろう。自分の懺悔が読み終えられ、あとは延々とクラス中の心の告白を聞かされていたのだ。罪の告白というのは、ある程度を超えると自己満足でしかなくなる。それは他人の心を揺さぶり、愉しませるエンターテイメント性を失い、ただのマスターベーションになり下がる。

 次に目を開けると、教室には相沢を含めて三人だけが残っていた。まるではじめから予定されていたみたいに。

 箱に手を入れた相沢は、最後の一枚の紙を指先に感じた。彼の心臓は鼓動していた。

 「私の罪は」紙を広げ、間髪を入れずに相沢は読み上げた。

 「恋人を救えなかったことです」そこで相沢の声は、わずかに詰まった。

 「ハル、頑張って」越智が表情一つ変えずに、相沢を促す。

 相沢は新堂のほうを見やった。彼は相沢と目を合わせないまま、まるで干ばつのために枯れてしまった水田を見る農夫ような険しい顔をして、大きく頷いた。その後ろで、越智がいたずらっ子のように肩をすくめている。彼女だけが、その身にまとう空気だけが、ここで異質な存在だった。

 「恋人は言いました」相沢は手元に視線を戻し、続けた。

 「こういうのがずっと続くって思ったら、うんざりしない? つまり、同じところをぐるぐると回り続けているようなことよ。わたしたちはどこにも行けなくて、ただその円を回る速度や、回る回数を注意深く見極めながら生きているってことが。そして、それがたぶんこれから何十年も続くってことが」

 それは、相沢のものとは違う口から発せられた言葉だった。相沢は顔を上げた。越智は変わらずにこにことして相沢のほうを見ていたし、新堂は前よりも俯いて、体を固くしていた。自分の体が勝手に動きそうなのを押さえ込んでいるみたいに。

 「えへへ、ごめんね。つい。さ、続けて」越智は乾いた笑顔でそう言った。爽やかで、罪のない太陽のような。死んだ人間が失うものが、彼女の不在の中に存在していた。

 「恋人はこうも言った」
 相沢は、今越智が先回りして読んだところを飛ばして、続けた。

 「わたしたちは、何を守って生きているんだろうね、と。あのとき僕は恋人に何も言ってやることができなかった。寂しいと、愛してくれと静かに叫んでいる恋人に対して、抱擁ひとつくれてやれなかった。あくまで論理的に、納得の行く返答をしてやろうと、頭で回答を練っていた。そして恋人は続けた。

 もともと持っているものなんてないのに、必死で背中に背負った空っぽの箱を守って、それでその中には何の役にも立たない石ころだけが溜まって、どんどんわたしたちの足取りを重くしていく。例えば、出口のないサーキットから抜け出せそうな、そんな目標だとか憧れだとかを持つ幸運に巡り会えたとする。それでも、わたしたちは進めば進むほど、自分がいかにそこから離れているかということを認識するだけなの。頑張って頑張って、自分の中の何かを否定して、汗かいて穴を探して、その見つけた穴を今度はどうにか埋めようとして、結局どこにもたどり着けないの。ずっと終わらないの。幸せになるためにできることはなくて、それでも少なくとも何かを目指さずには生きられない。得ることといえば、ろくでもないシワや肩こり。それなのに、最後は死に方さえ選べない。そんなのあんまりじゃない? 生きていくって、そういうことなの?

 違う、そういうことじゃない。僕はそう言いたかった。でもそのときの僕には、君を納得させられるだけの答えを編み上げることができなかった。君の言っていることは間違っているのに、わかっているのはその事実だけだった。そして君は死んだ。死に方だけは、自分で選ぶんだと、ほとんど確信を持って死んでいった。同時に僕自身を含めた君に関するあらゆることも永遠に失われた。そんなのはぜったいに間違っている。でも、どうしてもそれをうまく説明できない。僕はそれまで、それほどに君と僕がつながっていることを知らなかった。間に合わなかったんだ。僕が若かったせいで。
 それでやっと見つけたんだ。二十年以上かかって、やっと君に見せられる答えが見つかった。それは、君が間違っていると考えることが間違っていた、ということだよ」

 相沢は淀みなくすらすらと読み上げていた。彼には、もう自分がそこに含まれていないことがよくわかっていた。彼の声は彼自身の声であり、同時にそうではなかった。声は無生物的な記号として、おおよそ八十パーセントの窒素とおおよそ二十パーセントの酸素で構成される空気を揺らしていた。

 「つまり」相沢はそこで唐突に読むのを止めた。

 「ハル?」動かなくなった相沢に、越智が声をかける。相沢は、なおも黙って目だけで文字を追っていた。

 「お前が読めよ、新堂」相沢は新堂のほうを向いて言った。「お前が読め。読まなくちゃならない。お前は、まだこれからもずっと生きていくんだから。越智のためだけに、いつまでも後ろ歩きしているわけにはいかねえだろ」

 「いい」新堂は顔を上げずに言った。

 「よくねえよ!」どん、と相沢は新堂の一つ前の机を激しく叩いた。ああ、やっぱり夢なんだ、と頭の中の相沢は痛みの伴わない手のひらを握りしめて思った。たかが夢に、いったいおれは何を本気になっているんだろう、と。

 「お前、このためだけに生きてきたんだろ? 答え、見つけたんだろ? 越智に言ってやれよ。死んだこと、後悔させてやれよ」

 「やめてあげて」越智が抑揚のない声でそう言った。りん、と音のするような笑顔の剥がれ落ちた越智の目には、強力な磁場をまとうブラックホールのような深い闇があった。足を踏ん張っていないと、吸い込まれてしまいそうだ。

 「わたしが代わりに読むよ。いいでしょ、要?」

 新堂がさっと後ろの越智を振り返った。二人の間には、言葉が介在しない。

 「ったく、それでも男かよ」
 相沢は越智の机に――正確にはそれは越智のもといた場所ではないのだが――紙を置いた。そして自分は、教室の一番窓側の隅に移動した。

 「おほん」越智はまたも嬉しそうな笑みを取り戻し、姿勢を正した。「要がずっと考えてくれてたなんて、嬉しいなあ」新堂は、ぎこちなくほんの少し笑って再び越智に背中を向けた。

 「君が何かになろうとして、結局なれなかったのは、君が君自身に出会っていなかったからなんだ。あるいは、出会っている最中だったのかもしれない。それは、君の言う終わりのない消耗に、似ているように思えるかもしれないけれど、ぜんぜん違うんだ。君はまだ、君自身ではない。君は自分を規定しすぎることで、自分自身に会う機会を逃し続けていたんだ」
 そこで越智は顔を上げ、少し考え込むような顔つきになった。

 「うーん。これ、どういうことなのかしら? 要の話し方は、いつもこんなふうに小難しいの。ねえ、これがわたしに向けて書かれたものなら、わたしには質問する権利はある?」

 「かまわない」新堂は前を向いたまま言った。

 教室ってこんなだったっけな、と相沢は二人の会話から意識を遠ざけようとして考え事をしていた。それでも教室の外に出ていくわけではなかった。かつてそれなりに仲の良かった高校生のカップルが、それも片割れが自殺したカップルが、こんなふうに何十年も経って会話をしているのを見逃すほどお人好しではなかった。かつて彼らと共に学んだ二年五組の教室は、今では相沢に奇妙なよそよそしさを向けていた。机は妙にざらりとしているように感じられた。椅子は相沢の尻を捉えて、そのまま離すまいとしていた。天井にへばりつく安っぽい蛍光灯は、じりじりと相沢の肌を焼いた。まるで誰かが息を潜めて、相沢を狙っているようだった。

 「わたしがわたし自身に出会っていないというのは?」越智は少し気を悪くしたみたいな様子で言った。

 「わたしは、正直言って一般的な人よりも自分を、そして世界をより分析してわかっているつもりでいるのだけれど」

 「僕もそう思う。それはそうと、僕がこうして前を向いたままで話すのはかまわないかな? 君の顔を見ると、うまく言葉が出てこないんだ。なにしろ、僕は今の姿である高校生のころの僕よりも、倍以上も生きたんだから」新堂の声には、わずかな緊張が滲んでいた。

 「もちろん」越智が早口で言った。彼女にとっては、そんなことよりも早く続きが聞きたいのだと言った様子で。

 「君はいつも、世界を静かに観察していた」新堂は大きく息を吸ってから、始めた。

 「そして、混沌とした世界に散らばるあらゆることの、あるべき順序のようなものを見つけようとしていた。どこに何があるのが正しい姿で、それが現実の世界ではどのように歪められているか。あるべきところにあるはずのものがなくて、そこにあってはいけないものが泰然としてそこにあることをすばやく察知した。それが自分のことならすぐに正しい位置に戻そうとした。例えば、自分が三人以上の人と群れることが苦手なのだと判断すると、それを注意深く避けていた。朝のほうが効率よく勉強ができることを知ると、毎朝五時に起きて夜更かしすることはなかった。僕と毎日寄っていたファストフードの添加物が不妊の原因になるかもしれないと知った時、もう僕たちはどんな新商品が出てもそこに近寄らなくなった。それは冷静な自己分析であり、適切な対応だった。たとえ自分の力が及ばないことでも、君がその分析を怠ることはなかった。飢餓、性差別、戦争、宗教紛争、不況、政治。君のメスは、あらゆることに及び、それらをどんどんラベリングしていった。そしてそれらが本来あるべき場所、行き着くべき場所も君にはきちんとわかっていたんだ」

 新堂が淀みなく話すあいだ、越智は口を挟まず黙って聞いていた。相沢のところからは彼女の表情は見えなかったが、越智は小さくうんうんと頷いていた。そのとおりよ、それが何か問題? とでも言いたげに。

 「そして君はいつしか、すっかり盲目になった」新堂はからだをほんの少し右に回転させて言った。

 「盲目?」

 「そう。そのラベリングは、君から世界と君の可能性を奪い去った」

 「それは、世界もわたし自身も、刻一刻と変わるということ?」ごくりとつばを飲む音が、相沢の耳の奥で鳴った。

 「そうだとも言えるし、そうでないとも言える」新堂の声は、彼の声ではないように響いた。それはスピーカーを通して聞こえる校内放送のように、あたりにまんべんなく広がっていた。

 「君は君の一面を見て、そのときの君どころか、その先の君自身まですべてを規定してしまったんだ。君が何者にもなれない、どこにも行き着けないと感じるのは、まさにそのせいだよ。自分や世界をまるっきりわかってしまうというのは、実際にはわかりっこないんだけれど、わかったつもりになってしまうということは、もうこれから何かに憧れたり、どこかを目指したりすることを自分からしなくなるということだ。その規定を外れることを、君自身が許さない。そしてだんだんと窮屈になる」

 「その結果として、わたしは死んだ。自分が密閉した袋の中で、息ができなくなって。あなたの言いたいのは、そういうこと? でもあなただって、一緒になって世界を分析していたじゃない。自分の傾向を知ったほうが、生きやすくなるって要も言ってたじゃない」越智は答えを知りたがっていた。それは彼女の鼻先にぶら下げられながらも、決して彼女がつかめない場所にあった。

 「君の死んだ本当の理由は、僕にはわからない」新堂は心底残念そうに言った。その言葉に呼応してか否か、新堂の上の蛍光灯がまばたきするようにぱちぱちとまたたいた。

 「でも、僕は規定外のことをなるべく受け入れるようにしている。それが君が死んで、僕が生きている理由かもしれない。にっこり笑って冗談を飛ばすべき場面で、そんなことをしたくない自分の声を聞こうとしている。僕は子どもと老人が嫌いだし、自分のことを執念深い根暗なやつだと思っている。でも同時に、それは全然悪いことじゃないし、いずれ変わるかもしれないとも思う。そんな事実や感情を受け入れることが、何かに到達する第一歩であるような気がするからだよ。少なくとも、自分のあるべき姿を頑として譲らずに、自分を無視してそこから一歩も動けなくなるということはない。自分の感情をジャッジばかりしていると、何が本当の自分かわからなくなるから」

 「なるほどね」越智はそう言ったが、ある意味では混乱しているようにも見えた。

 「そしてこれが本当に言いたかったことなんだけれど。どうも僕は寄り道が多すぎるみたいだ」新堂はついに振り向いた。

 「昔からそうだけどね」越智はまた、笑った。

 「僕はもう」新堂がそう言ったところで、相沢は耳を塞いだ。相沢としては聞きたくてたまらなかったが、手が勝手に耳を塞いでいた。そして彼は、目もつむった。

 「僕はもう、君のことを引きずって生きてはいかない」新堂のその言葉は、越智だけが聞いた。

 「君のいない人生を前向きに歩いていかなくちゃならない、とか、君を忘れることは君に申し訳ない、とか、僕なりに悩んで生きてきたんだ。でもこの数年間、さっきも言ったみたいに自分の感じるままに生きてみたんだ。君を思って何時間も泣いたり、君のことを思い出さない日があったり。そしたら、結果的にこうなった。僕はもう、前に進むよ。今日はこれを言うために、わざわざみんなを集めてこんなことをしたんだ。どうだった、みんなの人生の告白を聞いて。みんな、しっかり悩んで、もがいて、受け入れて、進んでるんだ。君が逃げた人生だ」

 「死ぬのは悪いことじゃない」越智はうつむいてぼそりと呟いた。

 「自殺だって、しっかり悩んで、もがいて、受け入れた結果だよ。どうしてそんなふうに言うの?」

 「そうかもしれない」

 「曖昧に言わないで」

 「そうだと思う」新堂は芯のある声で言った。

 「でも、少なくとも君はもうこれ以上何も受け入れることができない。悩むことも、もがくことも、今の君ではない君に出会うことも。それはすごく残念なことだよ」

 「は、」越智がそう言って顔を上げた時、新堂の姿はもうそこにはなかった。新堂は目覚めたのだ。目を覚まし、現実の世界へ戻っていったのだ。

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完結【長編小説】『夢のリユニオン』第15章(2)「孤独という肉体的な痛み」

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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