完結【長編小説】『夢のリユニオン』第15章(2)「孤独という肉体的な痛み」

星空

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【長編小説】『夢のリユニオン』概要・目次

 それからどれくらい経ったろう。とんとん、と相沢の肩が叩かれる。ぎゅっとつむっていた目を開けると、部屋の中が異様に明るく見えた。相沢の肩を叩いたのは、越智だった。越智は相沢に向かってそっと何かを話しかけようとしているみたいだった。でも、彼女の声は相沢の耳には届かなかった。そこにいるはずなのに、まるでテレビの音を消して見ているみたいに、声だけが欠落していた。次元の違う場所にいるみたいに。

 越智が相沢の手に触れる。そこで相沢は、自分が耳を塞いだままでいることに気がついた。

 「終わったよ。ありがと」今度は確かに越智の声がそう言った。

 部屋には新堂の姿はもうなかった。広い教室に二人いるのも三人いるのも変わらないはずなのに、そこはひどくぽっかりとしていた。

 「あいつは?」相沢はわかりきったことを問うた。他に話すべきことも思いつけなかった。

 「帰ったよ。ハルは帰んなくていいの?」越智のその言葉に、ある種の寂しさや期待が混じっていないかどうか、相沢はよく目を凝らした。でも、そこにどのような感情も見出すことはできなかった。その原因が越智の側にあるのか、あるいは相沢と越智の関係性にあるのか、少なくともそれだけは知りたい、と相沢は強く思った。けれど結局それさえもあやふやなままだった。

 「今日は休みだから、早起きしなくていいんだよ」と相沢は言った。

 本当の理由はもっと別なところにあることを、彼は薄々感じていた。自分はまだ、ここでやり残していることがある。だから帰れないのだ、と。

 「そっか」越智は納得した様子で頷き、今度は相沢の前の席に座った。椅子を音もなくくるりと回転させ、相沢と向かい合うかたちになった。相沢はわけもなくどぎまぎした。彼女はここで、ころころと居場所を変えていた。どこにいても少し落ち着かない様子で。

 窓の外は今では、紛れもない朝の景色になっていた。ぼんやりとした白の光の集積は消え、朝陽がそれに取って代わった。相沢が生まれた町であり、相沢の両親が今でも住んでいる町が広がっていた。ここが、この教室が、この町が世界のすべてだったあのころの記憶は、相沢の中にはもうあまり残っていない。でもきっと、目の前の越智には上書きされるべき記憶がなかったのだろう。二十五歳までの記憶を抱えて、年を取らないまま漂っている。越智は眉間にわずかにしわを寄せ、手のひらにあごを預けて窓の外を見ていた。見慣れた風景を、もう一度隅から隅まで点検するみたいに。そこからすでになくなってしまった何かを探して。

 「もう少ししたら、生徒たち来るね」越智が背中の時計を親指で指して言った。時計は八時十分を示していた。

 「始業式は九時からじゃなかったか?」相沢は思わぬリミットの短縮に、わずかな焦りを覚えた。

 「いろんな生徒がいるのよ。ずっと前からここで待機していなくちゃ落ち着かないような子もいれば、遅刻してくる子もいる。締め切りは前倒されるの。要が新卒でエンジニアになりたてだったころもよく言っていた。締め切りなんて、あってないようなものなんだって」

 越智は知っているのだろうか、と相沢は思った。だから自分を急かすようなことを言うのだろうか、と。

 実は相沢が最後の紙を箱から取り出した時、どういうわけか箱の中にはまだ二枚の紙が残っていた。相沢は紛れもなく出席番号万年一番の男だったし、そうすると相沢が最後の一枚、自分の告白を記した一枚を読み上げるはずだった。そしてその一枚は、どのような因縁からか越智と新堂の前で読み上げられようとしていた。

 けれど相沢は二枚の紙を前にして、自分の告白ではないそれを引き当てる可能性に賭けた。自分の告白は、越智の自殺の告白のあとに読み上げられるには、あまりにも軽薄に思えた。そして彼はその賭けに勝ち、新堂の告白を読み上げることになったのだ。

 「なっちゃん、おれ」相沢は越智の表情を伺った。

 「ん?」そんな相沢の気持ちを知ってか知らずか、越智は目を見開き、口元に笑みを浮かべた。

 「あの箱の中、もう一枚入ってるんだよ」

 「そうだね」と越智は言った。

 「それ、おれのなんだ。知ってるんだろうけど」

 「うん」

 「じゃあ、何が書いてあるかも知ってるわけだ」相沢はそう言うと、ひどくいたたまれない気持ちになった。顔全体が熱を持つのがわかった。

 「うん」越智の声は少し小さくなった。

 相沢の紙には、越智への想いが綴られていた。恋人がいる女性を好きになってしまったことそのものへの罪悪感、その恋人が自分の友人であること、そしてそれに対して自分が結局なにもできないでいたことへの後悔。相沢自身にも未だに整理のつかない気持ちが、荒々しく書かれていた。

 「わたしね」越智は新堂とは違い、相沢のほうをしっかり見て言った。相沢は、思わず目をそらしてしまわないように、首にぐっと力を入れた。

 「ハルには悪いんだけど、ハルが想ってくれてること、要に聞かせちゃだめだなって思ったの。要ってほら、そういうのでぎくしゃくしちゃったりするじゃない」越智は少し照れているようにも見えた。どのみち新堂とは全然交わらない人生を歩んでいるのだ、と相沢は思った。でも口には出さなかった。

 「でもどうやって?」相沢は頭に浮かんだ疑問をそのまま咀嚼せずに越智にぶつけた。

 「紙は四十五枚しかなかったはずだし、おれたちはきっかり四十五人いた」

 「青い紙」と越智がつぶやいた。

 「え」数秒の沈黙があった。「あ」

 「わかった?」越智のいたずらっぽい笑みが、相沢の心臓をじかに掴む。

 「ゴリラが出てきたあれ、なっちゃんの仕業だったのか」

 「アタリい」

 「でもなんで、そんなことできんの? ゴリラにアポでも取ったの。おれらにしたみたいに、手紙でも送って」相沢は、突然送られてきた招待状のことを思い浮かべていた。

 「ううん」越智は心底残念そうに首を振った。

 「わたしには、現実を生きる人に直接コンタクトを取る手段はない。あれは要が自分で思い立ってやってくれたことで、わたしとしてはただここにいればよかったの。ゴリラは、ゴリラであってゴリラではないの」

 「なんだ、その謎掛けみたいなこと。頼むよ、なっちゃん。おれはあんまり頭の出来がよくないんだ」相沢は頭を抱えた。

 「ふふ。ここにいるハルはさ、間違いなく今のハルでしょう。夢で来ているとは言え、現実のハルがいくらか含まれている。それが要のしたかったこと。でも先生は、百パーセント夢の中の先生なの。先生が過去に見た夢を、少しここに借りてきただけ。ここにいるわたしは、夢の中にいるあいだの誰かとしか繋がれない。場所はもちろんここだけじゃない。わたしはここでなら、どこにでも行ける。でも、同時にどこにも行けない」越智は寂しそうに言った。まるで、ここでいくら自分が言葉を発しようと、相沢には決して届かないのだとでも言わんばかりに。

 「でもおれは、ここでなっちゃんと話をしている。それは事実だろう?」相沢は越智になんとか伝えたくて、それだけ言った。なにを伝えたいのか、それは彼にもわからなかった。

 「そうね。でも、こんなことは初めて。こんなにも実感を持って誰かと話をするのは。待ってみるものね。死んでから一度も、誰かときちんと話をしたことがなかったのよ。それがどういうことだかわかる? 辛いわけではないの。わたしは、もう何かを感じるには疲れすぎていた。でも、空白がそこに存在することはわかった。ぽっかりと空いたまま、永遠に埋まらない何か」

 「じゃあさ、おれが最後に新堂の紙を引いたのも、はじめから決められていたことなのか?」相沢は越智の言葉に対する答えの代わりに、そう言った。

 「それは違うよ」越智は優しい顔で言った。

 「それはわたしにできないこと。あれは賭けみたいなものだった」

 相沢と越智は、図らずも二人して賭けに勝ったのだ。あるいは、新堂の越智に対する想いのほうが、相沢のそれを上回っていたのかもしれない。相沢はその可能性については、気づかないふりをした。

 「なんでおれたち今、ここで二人なんだろう」相沢は朝陽を浴びてじんじんと脈打つこめかみを押さえながら言った。

 「ハルが今日仕事休みだからじゃないの?」越智は笑って言った。

 「なっちゃん、おれ、新堂よりも執念深くて根暗なやつだったのかもしれない」相沢は椅子の背にもたれ、越智との距離を測ろうとした。

 「好きだった」これだけ言うのに、随分と遠回りをしてしまった。

 「ありがとう」越智はそう言って、窓の方へ身を乗り出した。

 「ちょっと」嫌な想像が頭をかすめ、相沢は反射的に越智の腕を掴んだ。

 「ハルったら。人間、二度は死ねないのよ」越智はけらけらと笑う。

 「ねえハル。お願いがあるの」越智が静かな声で言った。

 「教室を、出てほしい。ハルが消えるのを見たくないの。ただ、見たくない」

 「わかった」
 相沢は席を立ち、教室の端まで歩いた。振り返ると、越智はまだ窓の外を見つめたままだった。廊下の向こうのほうから、足音が聞こえる。現実の足音だ。

 そこから実際に教室の扉を開けたのかどうか、目覚めた相沢は覚えていなかった。でも、その日見た夢の内容を、相沢の頭はしっかりと記憶していた。他のクラスメイトはどうなんだろうな、とふと彼は思う。そして、クラスメイトの誰の連絡先も知らないことを再度確認することになった。

 越智は、と続けざまに考えた。なっちゃんは、どこにいるんだろう。現実とは決して交わらないどこかの世界で、ふわふわと浮かんでいるんだろうか。

 そして、誰とでもつながれるようになったこの世界で、つながれないかつてのクラスメイトのことを考える。自分と彼らとは、もう違う世界で生きているのだと思っていた。でも越智の場合とは違い、彼らとは交わる可能性が残されている。

 それが〇.一パーセントなのか、それともまったくのゼロなのか、そのあいだには超えられない大きな壁がまっすぐに伸びているのだ、とも思った。

 そこまで考えたところで、相沢は言いようもない孤独感に襲われた。両手の先に誰の体温もないことが、怖かった。誰かとつながりたい、と激しく渇望した。

 あるいはこれも夢なのかもしれない。実際には、誰ともつながることなどできないのかもしれない。

 それでも、相沢は確かに孤独を感じていた。彼の胸は、ずきずきと痛んだ。それは肉体的な痛みだった。そしてその孤独感は、どういうわけか相沢をほんの少し安心させた。

 相沢は、生きていた。

(おわり)

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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