(A1-1)ごくありふれた出会い【長編小説】『少女が大人になるその時』

少女が大人になるその時

▼概要・目次はこちらをご覧ください▼
【長編小説】『少女が大人になるその時』概要・目次

 橙子と孝太郎が出会ったのは、ピンクレディーがその年のヒット曲をベスト3まで独占していた頃だった。いつの時代も、アイドルというものは人々を惹きつけてやまない。そして、彼らがその美しさの完璧性にほんの少しのほころびを見せたとき、大衆は寄生虫のように群がり、吸い尽くし、そして再び彼らの脆さに恋をする。
 そう、アイドルはいつでも少しだけ不完全である必要があった。橙子と孝太郎は、どちらかというとチューリップや松山千春なんかを好んで聴いていたタイプの若者だった。とりわけ橙子は、孝太郎がチューリップの「青春の影」をカラオケで自分だけに歌う瞬間に幸福を感じていた。

 孝太郎のプロポーズも、彼がギターでこの曲を歌い終えたときに行われた。いったい、一九八〇年前後に年頃を迎えた女で、この手のプロポーズを断れる者などいるだろうか。橙子は今でもあの瞬間を思い出してはため息をつくことがある。わずかな涙を流すことさえあった。

 たぶん、あの時代はよかったのだろう。少なくとも橙子たちにとっては。世界の仕組みとでも言うべきものはもっと単純明快だったし、各々が目指すべき方向性のようなものは概ね、予め定められているように見えた。若者たちはそれなりに反発をしながらも、丁寧にその道を辿っていれば間違いはなかった。生きる意味について思想を巡らせたり、無数にある生き方の選択肢のひとつを選ぶことに頭を悩ませたり、それが原因で心を病んだりする人の数も、今ほどではなかったように思う。

 今の時代の人たちは、あまりにも暇を持て余してしまったのではなかろうか。そして、先祖たちの努力の結果として押し付けられたその手に余る自由な時間から懸命に目を背けるために、空いた時間をどうにか埋めようと必死になっているのではないか。と、慌ただしい池袋の交差点でふと立ち止まりながら考えることがある。
 豊かさの指標が金銭で測れなくなった今の若者たちを、橙子は気の毒にさえ思っていた。経済的効率性以上に客観的に豊かさを測ることの指標など今のところ見出されていないし、個々人の主観的な指標は国家の目標にはそぐわない。誰もがみな、心に欠けたところを抱えながら生きている。今の自分の仕事が、この時代の人々の心を少しでも救うものであればいいけれど、と事務所に向かう交差点を渡りながら橙子は祈っている。

 少なくとも、橙子と孝太郎がアルバイト先の喫茶店「ジョン」で初めて出会ったあの日、橙子は生きる意味のことなど考えたこともなかった。中途半端に毛を伸ばしたパーマ頭の孝太郎が橙子の名を初めて呼んだ瞬間のことを、彼女はよく覚えている。

 「僕は、九石(さざらし)と言います。数字の九にストーンの石で、九石。珍しいでしょう。今ちょうど忙しい時期だから助かったよ。よろしくね、清水さん」

 大学に入って初めてのゴールデンウィークが明けた五月、一年歳上の孝太郎にこう挨拶された時点では、橙子はまさかこの珍しい名字が将来自分の名前の上につくなどとはもちろん予想もしていなかった。彼は橙子の通う女子大の近所にある国立大学の法学部に通う二年生で、昼は近所の老人たち、夜は学生のたまり場となるこの喫茶店ですでにおおよそ一年間アルバイトをしていた。そこでは彼のほかに、橙子と同じ女子大の三年生が一人と、孝太郎と同じ大学の理学部五年生と工学部二年生の男子学生が一人ずつ働いていた。彼らは研究の進捗具合や就職活動などの都合で勤務体系に多少ばらつきはあったが、平均して週に三度か四度のペースで二人か三人ずつで勤務にあたっていた。

 「三月までいた四年生の先輩がね、卒業で辞めちゃったから。人が足りなかったのよ」と、その女子大の先輩である室田(むろた)は、コーヒーと氷がひしめき合うグラスにアイスクリームを乗せながら橙子に言った。その日は孝太郎が橙子に仕事の内容を教えるため、橙子と室田と孝太郎の三人が出勤していた。

 「孝太郎ったらね、一年のくせにその先輩と付き合ってたのよ。男の子って、歳上の女性に憧れる時期があるのかしら。就職して地元に帰るからって振られちゃったんだけどね。清水さん、なぐさめてあげて」

 そう言っていたずらっぽく笑う室田に、「余計なことを」と言った孝太郎の顔が赤らんでいるのを橙子は見た。彼は室田に好意を抱いているのではないか? 橙子はその瞬間はそんな印象を持った。

 それから適度に授業に出て、放課後はアルバイトをしたりサークルの活動(週に一回の夕食会と月に一回の寺社巡りが主な活動だった)に参加したりしながら、標準的な女子大生が過ごすべき模範とも言える半年が正しく過ぎた。どういうわけか、学校の同級生といるときよりも、この喫茶店の仲間といるときのほうが橙子は居心地がよかった。五人揃ってシフトが入ることはない。お互いが知らないところで別の誰かと話しているうちに、なんとなく五人全体が打ち解け合っているような感じだった。

 夏にはみんなで揃って祭りや海にも行った。中学も高校も規律の厳しい女子校だった橙子にとって、それは初めて本当の意味で手に入れた自由のように見えた。高校生のときに付き合った男性はいたけれど、こんなふうに仲間として男女が交じり合うのは、もっと特別な感じがした。ほんの少しの背徳感と大人の扉を徐々に押し開けて広い場所に出る感覚が、橙子を興奮させた。甘いカクテルの味も、二十歳になる前に覚えてしまった。

 そして、多くの大学生グループがそうであるように、五人の中にも恋が芽生えた。橙子がそれを知ったのは、次の年の二月になってからだったけれど、それは橙子がバイトを始めた五月からどうやら始まっていたらしかった。バレンタインのチョコレートが欲しいからという理由で孝太郎に想いを告白されたとき、他の三人も孝太郎と橙子をくっつけるために画策していたのだと知った。

 「とーこちゃん、鈍いんだもん」室田がわざとらしくため息をつく。

 「シフトを仕組んだり、夏祭りとか海とか初詣とか、俺ら結構がんばったのにね、孝太郎が全然男らしくなくて」

 「ほんとにいいのー? こんなやつで」男の先輩二人も、なんだかんだで祝福してくれた。

 それから結婚するまでの道のりは、振り返れば順調だったのだろう。もちろん、それなりに危ない局面はあった。孝太郎が半年間留学していた時や、橙子と孝太郎の試験勉強に対する意識の違い(孝太郎は器用で地頭がよく、さほど努力しないでもそれなりの成績が取れた)、橙子の以前の恋人の出現など、どれも他人から見れば取るに足りない微笑ましい痴話喧嘩だった。
 そして、そんな小さなままごと的ほころびは二人の努力で修復され、橙子の卒業を待って二人は結婚した。本当は橙子が学生のうちに結婚して、東京にある孝太郎の家に来てほしいと言われていたのだけれど、橙子の父親が結婚は卒業してからでないと許さないと言って譲らなかった。留学で半年卒業の遅れた孝太郎が卒業してからおおよそ半年間、二人は遠距離恋愛を乗り切った。

 あのとき別な誰かと出会って孝太郎と別れていたら、そうでなくともせめて東京の彼の家に遊びに行って彼の両親とちゃんと会っていたら、何かが変わっていただろうか。いや、と橙子は思う。何も変わっていなかっただろう。二十三歳の橙子は、あまりにも真剣に孝太郎に恋をしていた。それほど、孝太郎は優しく気遣いのできる魅力的な人だったし、橙子を丸ごと好きでいてくれる存在だと橙子自身が初めて思える人だった。

▼続きを読む▼
(A1-2)これは享受されるべき正当な幸福である

The following two tabs change content below.
ことば、文字、文章。 それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。 文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。 そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。 私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

新刊発売中!

できることなら、十四歳という年齢はすっとばしてしまえるのがいい。
冬に元気をなくす母親と、影の薄い善良なフィンランド人の父親を持ち、ぼくは彼らの経営する瀬戸内市の小さなリゾートホテルで暮らしていた。ある時なんの前触れもなしに、ぼくにとって唯一の友達であったソウタが姿を消した。学校に行くことをやめ、代わり映えのしない平穏な日々を過ごすぼくの生活に、少しずつ影が落ちはじめる。

『レモンドロップの形をした長い前置き』
著者:田中千尋
販売形態:電子書籍のみ
販売価格:450円(※Kindle Unlimitedをご利用の方は無料で読めます)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。