(B1-2)消えた娘のことは殆ど知らない【長編小説】『少女が大人になるその時』

少女が大人になるその時

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【長編小説】『少女が大人になるその時』概要・目次

 凜花は大学を卒業し、そのまま橙子の経営する株式会社Oneselfに就職した。
とは言っても、彼女は二十歳の頃から学生インターンとしてすでに橙子の会社で、週一回の家庭教師のアルバイトを含めると二社で社会人になるための経験値を溜めていたので、新人教育らしいことはほとんどする必要もなくすんなりと会社に馴染むことができた。凜花は二十二歳のときに五つ上の女性タレントのマネージャーとなり、花嫁を志望する彼女と共に日本全国の家庭を訪問する花嫁修業のブログを運営していた。
彼女はわずか一年でアラサー世代女性のカリスマ的存在となり、彼女の紹介する商品は片っ端から売れた。凜花は、どんなコンプレックスでも収益性のあるビジネスという形に置き換えることができた。他にも優良な大企業の行き先はたくさんあっただろうに、凜花は橙子の会社を選んだ。

 「言ったでしょう、あたしがお母さんの魂を救ってあげるって」

 橙子が彼女の決断を確認するたびに、凜花はそう言って拳を誇らしげに左胸にあてがった。Oneselfという会社自体に魅力を感じているわけではないのだ、という事実は橙子をある意味で悲しくさせた。

 「それに、大企業よりもお母さんの会社のほうが女性にホワイトだろうしね」勘のいい凜花は、いつもそう付け足すことを忘れなかった。彼女が手伝うようになってから、会社の規模も業績も文字通り倍増した。凜花の失踪によって、橙子は娘と幸運の女神の両方を同時に失ったのだった。

 凜花が帰ってこない――事態が飲み込めてくると、橙子はひどく混乱した。
 脳が受け容れることを拒絶していた事実は、確実に橙子の体の中に侵食し、心の芯に訴えを起こした。
 悲しみが上半身を充たす。手が小刻みに震え、吐き気がし、目頭が熱くなる。どうしよう、凜花がいない。どうしたらいいの。誰か、誰か。ひょっとしたらもう家に帰っているのだろうか。そうであってほしい。出張後は必ず会社に寄るはずの娘に薄い望みを懸けながら彼女の夫に連絡をする。

 「僕のところに、さっきメッセージが届いたところです」
 凜花の夫になって三ヶ月の男は、電話の向こうで静かに告げた。

 「自分は少しのあいだ休みたいだけだから警察には届けないでくれ、ということです。その後すぐに電話を入れましたが、すでに電源が切られていました。どういうことですか? 出張先で何かあったということはないですよね。お義母さんは凜花のそばにいて、何も気づかなかったのですか?」そう言って彼は、自分自身も同じ言葉で責めていた。

 「こっちで探してみるから警察に届けるのは少し待ってくれませんか? 凜花に限って出張先でおかしなことには絶対になっていない、それは信じてやってほしいんです」と伝えると、言われなくてもそんなことは疑っていないと返された。凜花は、自分の夫には連絡を寄越したのだ。社長にも、母親にもその気配すら見せずに。

 一週間の猶予を得ると、橙子は凜花の捜索に取り掛かった。夫と息子、義理の母にだけは事実を告げておいた。ほかの社員には長い出張に出ている、ということにしておいた。これまでもひと月単位で全国を飛び回っていたし、今は離れて暮らしているから、少しの間はごまかせそうだった。もしこのことがマスコミにでも知れたら……。瞬間、こんなときにも会社の体裁がちらりとでも頭をかすめたことに、橙子は戦慄し、自らを恥じた。私はなんて残酷な母親なのだろう。きっとこれまでも、知らず知らずのうちに凜花にいろいろなものを押し付けてきたのかもしれない。
 まだ間に合って、おねがい。

 凜花と共に名古屋へ出張していたタレントの望月ハルは、二日前にすでに帰京していた。「二人の住み心地」というテーマで巡業しているイベントの名古屋での二日間を終えたあと、凜花だけが残って現地の不動産会社と残りの打ち合わせをしていたのだ。

 「わたしのことを新幹線の駅まで送ってくれたときは、凜花さん普通だったけどなあ。ちょっと疲れてたのかもしれないけど、それはたぶん前日にわたしが飲ませすぎたから」

 事態をまださほど深刻に受け止めていない望月ハルは、年甲斐もなく舌をちろりと出してみせた。彼女には、人よりも少女の部分が多く残っている。恋愛をうまく経験することができないままに、二十九歳を迎えていたせいかもしれない。名古屋の不動産会社にももちろん問い合わせたが、凜花は次の打ち合わせの段取りまでして帰ったとのことだった。

 これといったあてもなく、一週間が過ぎた。橙子は娘の交友関係について自分がほとんど何も知らないことに驚愕した。彼女の居場所について、誰にどのように問い合わせたらよいかさっぱりわからなかった。実の親でこうなのだから、凜花のことを何も知らない警察が娘を見つけ出せるわけがない、と橙子は思った。けれども凜花の夫との約束もあったし、これ以上社員たちに隠し通せるわけもなく、橙子はついに警察に頼ることにした。

 「もし凜花が、し、死んでいたりしたら、あなたを一生恨んでやるからね」自分よりも凜花との血のつながりが薄い椿にそう睨まれても、反論する気力も湧いてこなかった。

 警察に届けたあとも、日常は日常として過ぎていった。日々やるべき仕事は存在し、逆に橙子が凜花のことでできることは驚くほど少なかった。凜花が抜けた分の仕事の埋め合わせをするのは容易ではなく、橙子は自分が仕事の面でも娘に依存していたことを悟った。橙子に凜花の存在の大きさを知らしめるための失踪だとしたら、もう十分だと橙子は思った。

 同時に、一人の人間がいなくなるということは、世間的にはこれほど小さなことなのか、とも思った。マスコミにも対して取り上げられず、橙子の胸の中だけがざわざわと絶え間なく波立っていた。凜花が自分の意志で消えたということだけが、唯一の救いとも言えた。それは残された者としては複雑であったし、そのせいで警察も本腰を入れて探してはくれなかったものの、少なくとも凜花は誰かに無理やり連れ去られたわけではなさそうだった。

 一ヶ月を過ぎたころから、橙子をはじめとする凜花の関係者は、凜花がいない日常に自らの精神を馴染ませる必要に駆られた。凜花がいないことに慣れるなどということはもちろんできない相談であったし、それは凜花に対する冒涜的行為とも言えた。
 けれども、凜花の影を追い続ける毎日に誰もが疲弊し始めていた。誰がなんと言おうと、あの子は自分からいなくなったのだ。私たちにできることは、あの子のほうから姿を見せるのを待つくらいではないか。橙子は新聞の事件欄をチェックすることを日課に加え、残りの時間は仕事に没頭することで日々をやり過ごした。

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(A2-1)つぶしの利かないプロフェッショナルなスキルとしての嫁修行

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