(A2-1)つぶしの利かないプロフェッショナルなスキルとしての嫁修行【長編小説】『少女が大人になるその時』

少女が大人になるその時

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【長編小説】『少女が大人になるその時』概要・目次

 新婚旅行から帰ったあとに橙子がやるべきことといえば、ダイエットと嫁修行の二つだった。

 アメリカの脂っこい食事を摂り過ぎたせいで橙子と孝太郎は二人合わせて十三キロも大きくなって帰ってきた。二人とも食べることが大好きで、おまけにアメリカの食べものは文字通り全てが規格外だった。
 食べるのに時間がかかる本末転倒なファストフード店に始まり、一ポンドのステーキ、切り分けた大きさが日本でのワンホールに相当しそうなニューヨークチーズケーキ。判を押したみたいに毎度付け合せでついてくるのは大量のフライドポテト。特に珍しい食べものがあったわけではなかったが、次はいつ来られるとも知れない海外に二人は興奮していた。ここにある全てを体に刻みこみ、一秒一秒を楽しまなくてはならない。結婚してわずか一ヶ月のあいだに、すでに椿にちくちくと嫌味を浴びせられていた橙子は、この最後の自由をこれから何十年かの心の支えにしなければならないということを直感的に悟っていた。

 「ハネムーンベイビーが一気に臨月まで育ったのかと思った」孝太郎の一番下の姉、茉莉花(まりか)に冗談半分でからかわれたとき、橙子はうまい具合に受け流すことができなかった。孝太郎の二つ上の茉莉花は、まだ結婚をしていなかった。二十七歳というのはまだ適齢期真っ盛りだったけれど、彼女はそんなものは紙にくるんで捨ててしまいたいと思っているらしかった。

 「結婚なんて、持て余した自由と孤独を埋めるための、弱い人間たちのマスターベーションよ、なんて茉莉ねえはよく言うんだ」と結婚前に孝太郎は言っていた。あれは確か、田園調布のフレンチレストランで食後のコーヒーを飲んでいるときだったか。いつもは夜にコーヒーなんて飲まないのに、レストランでは飲みたくて仕方なくなってしまう。そして、茉莉花の言っていたことはあながち間違いではなかった。ハネムーンから四ヶ月後、長男剛志(たかし)の妊娠が発覚したのだ。本当はもう少し新婚生活を楽しんでから子どもを作りたいと橙子は思っていたのだけれど、図らずも二十四歳にして母親になることになった。

 嫁修行。
 ここで言う嫁修行というのは、一般的なそれとはずいぶん勝手が違った。九石家でしか使えない、つぶしの利かないプロフェッショナルなスキルだった。橙子は、一般に嫁に求められるであろうスキル―炊事をはじめとした総合的な家事、冠婚葬祭時のマナー、正しい金銭感覚―などは十分に身につけていた。母親がいないから常識がないなんて言われたらかなわないからね、と山梨の実家の祖母にあれこれ仕込まれていたのだ。学生の橙子にとって時に煩わしいほどに思われたその教育も、今となってはありがたいと思う。この九石家では、それらの一般的な嫁的力量はもちろん、それらを駆使して、場合によってはすっかり取り崩した応用力が求められた。

 そこは東京で、橙子の見識から言えば間違いなく都会のはずで、確かに歩いて行ける距離にたくさんの店が並んでいた。車で少し行けば、高級なデパートもあった。都会ならではの騒々しさもないわけではなかったが、家から通っていたとはいえ大学生活の四年間を東京で過ごした橙子にとって、それは不快の原因にはならなかった。そんなことよりも何よりも橙子を驚かせたのが、その東京という都会の中に存在する「村」のしきたりだった。大げさだと思われるかもしれないが、それは「村」と呼んでもなお余りある閉鎖的な空間だった。
 山梨にいた頃も、これほどの疎外感を感じたことはない。大学生という、ある意味で「外の者」にはわからない闇が、ここには確実に存在した。あるいはそれは、姑や小姑のいる家に嫁いだ者にしか共有しえない感覚だったのかもしれない。橙子よりも数年多く自由な独り身を満喫し、めでたく結婚していった大学時代の友人たちが、商社に勤める夫の転勤を理由に義理の両親との別居を勝ち取っていく姿を、橙子は剛志を膝に抱きながら複雑な気持ちで眺めていた。華々しい海外生活。煩わしい姑の不在。毎日のように執り行われる友達との高級なランチ。静かな午後のひと時に飲むダージリン。夫とふたりで摂る遅い夕食。

 橙子もそうなる可能性は十分にあった。東京で結婚するということは、そうであるはずだった。いや、そんなことを望んでいたわけではない。橙子は孝太郎と一緒にいられれば、それでよかった。孝太郎は毎日七時過ぎには家に戻ってきたし、椿と手分けして作る夕食に対しても、律儀に平等に味の感想を述べてくれた。椿の機嫌を損ねないよう、ほんの少しだけ母親の料理を余計に口にし、ベッドの中では橙子のことだけを褒めた。日々がそのように繰り返される以上、なんとかやっていけそうだと橙子は信じていた。

 夫の職業。そして稼ぎ。
 そう、ここにも橙子がこの土地に永遠に縛り付けられる原因があった。孝太郎は地元の郵便局員として働いていた。定年を目前にした今でこそ局長としてそれなりの収入を得ているものの、当時の夫の稼ぎだけでは、親と別居などということは他の事情が許しても財布の事情が許さなかった。揉めに揉めた郵政民営化の末に民間企業の一員となったわけだが、彼が就職した頃、郵便局員はまだ公務員だった。
 孝太郎の両親は、将来土地を継がせる長男をそばにおいておくことにこだわり、さらに公務員は民間企業社員よりも堅実で位が高いなどという化石化した考えを貫いており、孝太郎もまたその意向にあえて逆らおうとはしなかった。体裁が良く、かつ地元の住民に顔が売れること。これが彼の両親が息子の勤め先に求めた全てだった。バブル期で同級生が多額のボーナスを得て新宿で湯水のごとく金をばらまいていた頃、孝太郎は自宅で大トロの刺し身を咀嚼していた。

 彼の家は、いわゆる大地主だった。舅である周人(しゅうと)と姑の椿は、土地を持たない貧しい農家から生活をはじめ、時代の流れを慎重に読みながら人一倍働いて土地を大きくした。そのようにして、椿は周人から贈られる高価なブランド物のバッグを後生大事に箱に入れて十年もそのままにしておくような女になった。そして、そういった類の苦労を、嫁である橙子も当然経験するべきだと考えているようだった。決して嫌味や羨望からではなく、親切と教育の一環として。

 「橙子ちゃん、あなたちょっとお米食べ過ぎよ」

 「電気代が高いわ。冷房のつけすぎじゃない? わたしが若い頃は冷房なんてなかったのにねえ」

 「水道代、気をつけてくれない? たかしちゃんを毎日プールに入れているでしょう」

 「あなたが来てから生活費が上がったわ。いいところのお嬢さんは金銭感覚が違うわねえ。ちょっと二人の家計から出してくれない? いつまでも親に依存するのもどうかと思うの」

 あんたが年食ってるあいだに、地球は温暖化してるんだよ。
 あんた、剛志が大きなプールをねだったとき、目尻を下げて買ってたじゃないか。水位は体積÷底面積なんだよ。
 あんた、息子の給料知ってるのか。

 橙子は、自分の中に黒い感情が確かに渦巻いていくのを感じていた。嫁入りのあの日、胸の奥に落ちた小さな染みは確実に橙子の中に広がっていた。こんなはずじゃ、こんなはずじゃなかった。悔しい。憎い。そんなふうに思う自分が、怖い。

 今のように携帯電話も、もちろんブログもSNSもないあの頃、橙子は誰にも明かせない胸の内をノートに書きつけていた。山梨の父親と祖父母に心配をかけるわけにはいかない。大学時代の友人に同情の目なんて向けられたくない。橙子は食欲をなくし、髪も薄くなった。
 剛志が幼稚園に通いだしてから、時間だけは腐るほどあった。かつてよく聞いたチューリップや松山千春の歌詞をノートにひたすら書き写したり、図書館で借りた小説を読み漁ったり、勝手口にこびりついたガムの跡を一日かけてひっぺがしたりしていた。
 金持ちの家に嫁いだにも関わらず、物質的、精神的貧しさのうちに生活することの惨めさについて日がな一日思考を巡らせていた。そのうちだんだんと思考の輪郭がぼやけ始め、橙子は深くものを考えられなくなっていた。

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(A2-2)精神的かつ物質的不自由と時間的自由

書いた人

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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