(A2-2)精神的かつ物質的不自由と時間的自由【長編小説】『少女が大人になるその時』

少女が大人になるその時

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【長編小説】『少女が大人になるその時』概要・目次

 長男の剛志が四歳になる頃、橙子と孝太郎に小さな離れが与えられた。橙子の様子におかしいことに孝太郎が気づき、父親に直談判してくれたのだ。もちろんその決定は椿の逆鱗に触れたが、周人はどちらかと言うとフェアに物事を見られる人だった。

 「今まで悪かったな。ちょっとゆっくりしてくれ。孝太郎の給料が頼りなくて不便な思いをさせているが、ゆくゆくはあいつが土地を引き継ぐことになるから、ちっと辛抱してくれ。これまでどおり光熱費はこっちで持つし、剛志の学資保険もかけておくから。椿には俺から言っておく。そうだ、橙子ちゃんの作る芋の焼いたやつ、おいしいなあっていつも思ってたよ。椿があんな性格だから、口にはしないが」

 周人がこっそりかけてくれたこの言葉を、橙子はノートの裏表紙に油性マジックで記録している。言質を取ったということにはならないだろうけれど、いつか椿がこれを見つけて、嫉妬の炎に燃えればいい。

 「お母さん、ポテトおいしい。おかわり!」
 あれから二年が経つ。
 目の前で橙子の得意料理であるマッシュポテトのおやきを頬張る剛志は、春から小学生になった。椿が買い与えた高級な皮作りのランドセルが眩しい。親として、ランドセルひとつ買ってやれない自分を責めることはもうやめた。橙子はほんの少しタフになった。

 「おいしいでしょう。おじいちゃんもほめてくれたポテトよ。たくさん食べなさい」まだ大人の事情を知らない剛志は、夕食後母家に行ってこのことを椿に告げてしまい、橙子のノート作戦は思わぬ形で椿の知るところになった。

 「お母さんは料理がうまいからなあ。お父さんが惚れ込んだだけのことはあるだろう?」

 「そうだね、男は胃袋でつかめってやつだね」

 「お前、どこでそんな言葉覚えてくるんだ? さてはお前も胃袋つかまれそうな女の子でもできたか」

 「僕、結構もてるんだよ。どういうわけか」

 「この、生意気なやつめ〜」

 親に頭は上がらなくとも優しい夫と、黒い渦に囚われそうになっていた橙子のもとで素直に育ってくれた息子の他愛のないやり取りが、たまらなく愛しく思えた。人間、一度はつらい経験をしたほうがいいのかもしれない。椿の当たりはきつくなったが、橙子は以前よりもずっと幸せだった。体重は戻りすぎなくらい戻り、肌艶がよくなったとママ友にも言われた。

 「お給料、ちょっと上がったね。明日はお刺し身にしようか」
ある日の晩、二人の間に挟まって眠る剛志の頭の上で、橙子は孝太郎に囁いた。

 「いや、いいよ。それで君と剛志の新しい服でも買えばいい。明日はグラタンにしてくれよ。ああいう洒落たものが家で食べられるなんて、君と結婚するまでは知らなかったよ」

 「材料費安いけどね」

 「最初にそう聞いたときはびっくりした。デパートで食べたら結構するのに」

 「お金持ちのおぼっちゃん育ちは、違うわねえ。考えたら、お刺身も食べ飽きたわよね」

 そう返しながら、橙子は心臓のあたりがざらりと音を立てるのを聞いた。人間の感情をつかさどる全てが脳にあるなんて、うそ。私の中にはまだまだ尖った黒いマインスイーパーの爆弾みたいなのが巣食っていて、私の心臓を内側から傷めつける。それはいつか私を飲み込んでしまうかもしれないのに、私はこの黒さを手放せるほど聖女ではない。

 「そうだね、僕は確かに恵まれていたと思う。でもね、僕はここから足を動かさないで手の届く幸せで満足できる人間なんだ。金のあるときは、使えばいい。稼ぎの少ないときは、それなりの生活をすればいい。少なくとも父さんと母さんの言うとおりにしていれば、間違ったことにはならない」

 「孝太郎くんって、野望とかないの?」

 「野望が腹の足しになるか? 見てみろ、バブルは崩壊した。父さんのようにちゃんと流れを読んでいればうまく生き延びられる。大きな夢なんて見ずに、一歩一歩着実に生きていたら、食いっぱぐれることはない」

 「つまらない人」

 そう言って笑いながら、橙子は純粋に驚いていた。この人は、親さえ良いと思っていれば心の底から郵便局員であることを正当化できるのだ。たとえ給料が同級生の三分の一だったとしても、将来的にはその選択が間違っていなかったと思えるのだと信じてやまない。
 親が死んだ時、この人はどうなるのだろう? 私はこの人と結婚してよかったのだろうか。もし高校生の頃に付き合っていた大手電機メーカーの彼と結婚していたら、今頃どんな毎日を送っていたのだろう。いや、そんな有りもしないことをあれこれ考えるのは無駄なことだ。

 「少し生活が落ち着いたら、もう一人作らないか」
 剛志が深く眠っているのを確認して、孝太郎が橙子の目を見つめて告げた。

 「いい。子どもは、もういい」

 子どもが嫌いなわけでは決してなかったし、橙子としてももう一人くらい子どもがほしかった。けれど、橙子の頭には剛志が生まれた瞬間の椿の言葉がこびりついていた。

 「橙子ちゃん、よくやったわ。男の子よ。これで九石家の土地は、孝太郎、この子と三代は保証されたも同然ね」

 剛志の将来を決めつけるな。あのとき橙子は確かにそう思った。そして同時に、次に生まれる子は男の子であれ女の子であれ、剛志の保険として育てられることになるのだ、と悟った。それではあまりに子どもが不憫すぎる。それに、経済的余裕もない。橙子は孝太郎に胸の内を明かし、二人目を意図して作っていなかった。

 「君の気持ちはわかっているつもりだ。けれど剛志も小学校にあがったし、君も少しは落ち着いたんじゃないのか? 剛志だって、寂しいと思うんだ」

 「今はまだそんな余裕ない」
 橙子の声は少し大きかったらしく、胸のなかにいる剛志が寝返りをうつ。

 「今すぐというわけじゃない。実は来年から三年間、本局勤務になった。悪い話じゃない。しばらくは夕食時に帰れない日が続くと思うけれど、こっちに戻ってきたら昇進が約束されている。経済的余裕も出てくる。ゆっくり考えてほしい」

 実際のところ、出向の話に橙子が意見を挟む余地はなかった。
 翌年の春から、孝太郎は電車で通う必要のある本局勤務を開始し、橙子にはさらなる精神的かつ物質的不自由と時間的自由が与えられた。

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(B2-1)開始された女たちの考察

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