(B2-1)開始された女たちの考察【長編小説】『少女が大人になるその時』

少女が大人になるその時

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【長編小説】『少女が大人になるその時』概要・目次

 心は凜花を求めてさまよい続けている。絶えず何かをしていなければ、おかしくなってしまいそうだった。テレビドラマなんかで子を失った親が必死の形相であちらこちらを探しまわったり、茫然自失と居間で転がっているのを思い出しながら、本当の人間にはそんなことはできないのだ、と思い知った。
 放っておいても凜花の笑顔、やつれた顔、不吉な妄想が頭でリフレインされる。せめて心がけだけは凜花を忘れて毎日をこなすふりでもしていないと、私の魂は永遠に戻れないところに行ってしまう。凜花が帰ってきたとき、そんなことでは迎えてやれない。
 橙子は自ら営業に出向き、人と話し、体を動かした。

 それに、凜花は橙子をある意味で捨てたのだ。橙子なのか、夫なのか、それとも世界なのか。とにかく今ある現実をすべて捨てていったのだ。こちらから何ができるというのか。

 失踪から三ヶ月が経ったある日、事務所にはタレントが二人と橙子を合わせた三人だけが出勤していた。普段マネージャーばかりの事務所でそんな状況は珍しかった。

 一人は望月ハル。凜花が担当していたタレントである。凜花がいなくなってからまだ代わりのマネージャーを付けられておらず、仕事を減らしながら一人でこなしてくれている。そしてもう一人は心理カウンセラーの松野。彼女はすでに結婚しており、中学生と小学生の息子を二人育てながらここで仕事をしている。彼女はもうマネージャーをつけずともうまく人生を送っており、『妻になり、母になり、私は私を失った』という本がベストセラーになっている。感情の波がある彼女だが、心理カウンセラーという仕事は案外その調整役になってくれるらしい。

 橙子はデスクの上の小さな時計を見る。時刻は午後二時半。松野が帰るまでにまだ時間がある。

 「ねえハル、松野さん」橙子は二人に声をかける。

 「ちょっとお茶でもしない? 今日はもう打ち合わせがないのよ」

 「いいですよ。ちょうどブログ記事を書き終えたところです。こういうのは少し時間をおいてから見なおしたほうがいいですし」

 望月ハルは、ギンガムチェックの鮮やかな緑のシャツとジーンズに身を包み、髪は後ろで一つに束ね、薄い化粧をしていた。今日はブログ作業のためだけにここに来ていたらしい。イベント時の花嫁衣装もいいが、こういう格好の方が彼女にはよく似合う。結構かわいいのにな、と橙子は心の中でつぶやく。モデルのようなスレンダー美女というわけではないし、目がくりくりと大きいわけでもないけれど、あまり深くものを考えない陽気さと、時に危なっかしいまでに健気に頑張る姿は守ってあげたくもなる。さらさらとした長い髪からはいつもいい香りがする。

 こういう女性は、一定の割合で存在する。外見、中身ともに要素として挙げていくぶんには結婚の要件を十分に満たしているにもかかわらず、どういうわけか男性と長く続かないタイプの女性が。総合的に見てなにか欠点があるのだろうか。女の橙子から見ると何かよくわからない欠点が。半年のうちにこの子にいい人が見つかれば、凜花は何事もなかったかのようにけろりと帰ってくる。橙子は紅茶を淹れるためにポットを温めながら、そんな意味のない願掛けをしてみる。

 「私は今日の人のレポートをまとめてからにします」松野はコンピュータの画面を眺めたまま応えた。

 「代表、すみません。お茶淹れさせちゃって。代表の淹れるお茶、おいしいですよね」

 望月ハルは応接セットに腰掛け、すまなそうにお菓子ボックスをごそごそと探る。橙子の事務所には、ポットのそばにお菓子ボックスが置いてある。一息つきたいときにちょっとしたお菓子があると和むじゃない、という凜花の提案で二年前に置かれたものだ。百円のおかき袋が入っている時もあれば、取引先にもらうデパートの焼き菓子が入っていることもある。

 「やったあ、アンリのマドレーヌだ。ラッキー。フィナンシェとどっちにしようかな。この二つ、見た目は違うけど基本的には味同じですよね」

 「紅茶の淹れ方は祖母にいやというほど教わったからね。どうぞ」かちゃり、とソーサーが音を立てる。いつもなら適当なマグカップに注いでしまうのだが、今日はまともなティーカップで飲みたい気分だった。そのまま望月ハルの向かいに腰掛ける。

 「マドレーヌとフィナンシェの違いはね、恋する乙女と料理上手な執事ってところかしら。マドレーヌに使うのは、小麦粉、卵、砂糖、溶かしたバター。なんでもない材料を使って、海辺で拾った素敵な貝殻を型にして焼くの。卵が良い仕事をして、焼き上がりはしっとりと甘く、心のこもったオレンジ色になる。フィナンシェには卵白だけを使って、バターも焦がして、アーモンドパウダーをたっぷり混ぜ込む。繊細な心遣いと、手間とお金がかかる贅沢なお菓子なの。フィナンシェには『お金持ち』って意味もあるのよ」

 これまでの望月ハルなら「代表、よくわかんないです」と適当な返答をしていたであろうが、彼女はこの三ヶ月間、まるで腫れ物にでも触るように橙子に接していた。きっと、大切な人を予期せぬ形で失った人に接した経験がないのだろう。

 「え、わたしそれなら絶対フィナンシェがいいです」

 「あなた、そういうところじゃないの?」言いながら橙子はわざと意地悪な笑みを浮かべてみせる。

 「じゃあ、両方いただきます。お金はやっぱり大事だもん」にっこりと愛想のいい笑みを浮かべる望月ハルは、やはり悪くない。

 「どうぞ。私はチョコレートをいただくわ」

 しばらくのあいだ、がさごそと包みを開ける音とカップがソーサーに置かれるかちゃりという音だけが響いた。

 気まずい沈黙。

 「すみません、キリがよくなったので」望月ハルの隣に松野がふうっと大義そうに腰掛ける。手にはすでに、飲みかけのコーヒーが入った、大きな赤い水玉模様のマグカップを持っている。彼女はいわゆるカフェイン中毒者だ。望月ハルが松野を女神でも見るかのごとく見上げる。きっと沈黙に耐えかねていたのだろう。

 「忙しいんです、近頃。心理カウンセラーが忙しいというのは、ありがたいのか悲しむべきことなのかわかりませんが」松野はそう言って、アーモンドチョコレートをばらばらと五粒ほど口に流し込んだ。

 「そっちの仕事が忙しいなら、事務所の仕事を減らしてもいいのよ? 個人と向き合って寄り添うことだって、立派な『自分らしさ』なんだから」橙子は彼女の家庭への気遣いからそう言った。

 「いや、いいんでふ」五粒は少し欲張り過ぎたらしい。彼女は手で何かを制するような格好をして、数秒後に喉を上下させた。

 「つらくなる手前の人に知ってもらうことも大事だと思っていますから。私の生き方を見て、それを娯楽として楽しんでもらえたら、潜在的なつらさが癒やされて病院やカウンセラーにかからなくてもいいことだってありますし。最近はちょっと、美容院でも行くみたいな感覚で病院の扉を叩いて、自分のことを変にラベリングしてしまう人も多いんです」

 松野はここに来た五年間で、精神的に大きく成長した。私の代わりなんて誰でもいるんだから、どうせ夫と息子の給仕係としてしか見られてないんだから、などと涙ぐんでいたのが懐かしいくらいである。事務所の若い女の子たちにも、頼りがいのある安定した歳上の女性として慕われている。

 「そうね、うちの子たちのケアだってしてくれているし。頼りになるわ。立場上、私には言えないことだってたくさんあるだろうし」橙子は思ったままを伝える。

 「そんなそんな」松野は照れ隠しからか、再びアーモンドチョコレートをきっかり五粒、口に押し込む。

 「凜花のことなの」会話が途切れたのを見計らい、橙子は切り出した。望月ハルが身を固めるのがわかった。

 「三ヶ月。決して短い期間じゃない。あの子は連絡ひとつ寄越さない。警察に届けるなだなんて、あまりにも身勝手よ。警察だって全然動いてくれてないけど」

 「凜花さんだって何か考えがあっての」

 「じゃあどうしてその『考え』を誰にも伝えていかないの? 放って行かれるこっちの身にもなれってのよ!」凜花をかばいかける松野に、激しい口調で返してしまう。

 誰も何も話さない。うつむいた橙子の荒い息が紅茶の表面をわずかに揺らしている。

 「ごめんなさい、あなたを責めるつもりはなかったの。私も余裕がなくて」

 「そうですよね、邪魔しちゃってごめんなさい。続けてください。私たち、ここで何時間でも聞きますから。ねえ」

 松野に問いかけられた望月ハルが、こくこくと頭を上下させる。ちょっと、と席を立った松野が、事務所の電話を留守番電話に切り替えた。松野は、こういう類の細やかな気遣いができる。これは長年の主婦経験からくるのだろうか、それとも心理カウンセラーの側面が彼女に何かしら行動のヒントを与えるのだろうか。

 「あの子が自分から出て行った以上、私たちのほうからできることは少ない。あるいはなにもしないほうがいいのかもしれない。でもね、私はあの子がどうして出て行ったのか、結婚したての夫と人のいい担当タレント、そして母を捨てて出て行かなくちゃならなかったのか、どうしても知りたいの。くだらないエゴだとは思ってる。でもそうしないわけにはいかない。ここでこうしているだけじゃ、私もあの子も前に進めない」

 二人は神妙な顔をして聞いていた。

 「教えてくれない? あなたたちが知っている、凜花のこと。お願い」最後は言葉にならなかった。

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(B2-2)存在しなくても目指すべきであるもの

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ことば、文字、文章。 それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。 文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。 そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。 私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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