(B2-2)存在しなくても目指すべきであるもの【長編小説】『少女が大人になるその時』

少女が大人になるその時

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【長編小説】『少女が大人になるその時』概要・目次

 「凜花さんは」数分の長きにわたる沈黙を破ったのは望月ハルだった。彼女の声は震え、目は潤んでいる。この子には笑顔よりも涙が似合う。橙子は望月ハルの顔を見上げてふとそんな感想を持った。

 「凜花さんは、無駄を好まない人だったと思います。言い換えると、完璧を目指す人でした。完璧でありえることはこの世にはないという事実と、完璧を目指すということを明確に区別しているようにも見えました。いえ、完璧という概念そのものをいつも問い続けていたのかもしれない。あの人の考えることは、抽象的すぎてよくわからないことがあるんです。それをわかってか、わたしにはあまりそういう話はしませんでしたけど」ふふ、と望月ハルはやや自嘲的な笑い方をした。

 「それは正直に言うと、わたしからすればひどく疲れる生き方のように思えました。でも、マネージャーという職業的観点から言うと、そのような行動様式はとてもうまく機能していたように思います。あの人は、迷うことがあれば会社の理念を判断材料に持ちだしていました。ここで今自分がどう行動するのが、最終的に女性のらしさを守ることになるんだろう、というような具合に」

 望月ハルは、橙子のカップに描かれたすみれの花のずっと奥のほうを見つめながら続ける。目を細めて、まるで地球の裏側に捨て置かれたハイヒールのかかとを探しているみたいに。手でいじくっていた砂糖の細長い紙袋がくるくると丸まっていた。橙子は黙ったまま望月ハルのカップに紅茶のおかわりを注ぐ。

 「名古屋での夜」望月ハルの焦点が橙子の両目に合う。

 「ああ、やっぱりわたしの勝手な思い違いかもしれない」突然彼女はそういってうつむき、唾をごくりと飲んだ。

 「それでもいいから、よかったら教えてくれない? 三ヶ月も考えることから目を背けてきたんだもの。凜花だってあと一週間で二十四よ。そろそろただの憶測みたいなものがそれらしくなってくる時期じゃない? なにかヒントになるかもしれないし、ならないかもしれない。どっちだっていいわ、どのみちあの子はいないんだもの。ほら、世間話だと思って気楽にお茶でも飲みながら話しましょう」橙子は努めて威圧的にならないように明るい声を出した。心がざわつく。

 「私が先に帰った日の晩、名古屋でいつもより飲んでたんですよ、凛花さん。いつもはわたしが潰れちゃってお世話してもらうのに、なんかもうぐいぐい飲んじゃって。おかげでわたし、上手く酔えなかったくらい。その時、あたしたちのやってることってなんなんだろうねぇって言ったんです、凛花さん。自分らしくとかそうじゃないとか、そんな偶像みたいなのをわざわざ作り出して、求めて、それって意味あるのかな? って。偶像とかわかんないけど、わたしはやっぱり花嫁になりたいんですよね。頭良くないから凜花さんみたいにうまく説明できないけど、でもやっぱり誰かの特別な存在になって、寄り添って生きていきたいから。そういえば、最後に飲んでいた時に凜花さんに言われました。ハルちゃんはさ、どうしてそんなに結婚したいのって。新婚三ヶ月目で五つ下の子に言われたんですよ。あ、凜花ちゃん誕生日まだなら、今六つ下なんだ。そりゃあ散々ネタにしてるって言ったって、わたしだって傷つきますよね。だからわたし、『それ嫌味とか? 冗談きついよ』って笑って受け流したんです。今思えば、旦那さんとのあいだに何かあったのかもしれない。でも凛花さん幸せそうだったし、コンプレックスとかもなさそうだったし、わたしの思い違いかも。まだ一年も一緒にいないけど、なんかちょっとは凛花さんのことわかっていたつもりだったんですけどね」役に立てなくてごめんなさい、と彼女は新しいスティック砂糖に手を伸ばす。

 「私なんて、もう二十四年近くも一緒にいて、あの子が今どこで何を考えているのか、さっぱり見当もつかないわ。ここの中にいた頃を合わせると、もう四半世紀にもなるのにねえ」橙子は矯正下着に締め付けられ、行き場のなくなった腹の肉を指の先でさりげなく押し戻す。

 「本当は誰にも言わないつもりだったんですが」今度は隣で話を聞いていた松野が口を開く。彼女のマグカップには、溶けきらなかった安物のインスタントコーヒーの染みが残っていた。橙子と望月ハルは、揃って松野に顔を向ける。

 「今の望月さんの言ったこと、ここ一年くらいの凛花さんを思い出してしまって」

 「どういうことですか? わたしの結婚云々の話?」望月ハルはわずかな警戒心を顔に浮かべる。彼女は、心理カウンセラーだとか、占いだとか、願掛けだとか、先生だとか、そういうものを一括りにしてあまり信じていなかった。

 「いいえ、自分らしさとか、偶像とかの話です。私は、一年ほど前からずっと、凜花さんにそのことを相談されていました。心理カウンセラーのお客の話として聞いてくれって、凛花さんは言っておられました。
 彼女は、たしかにとても疲れる生き方をしていたと思います。誰も正しい正解を提示できない、それでいて生きていく上で誰でも一度は考えるような問いに対して、あらゆる角度から答えのような形をしたものを延々と探していました。自分は生まれる意味があったのか、とか、正義と愛の行方とか、それこそ自分らしく生きることとか。人間でいることはつらい、とも言っていました。肉体を持った動物であることと精神を持った神であることの中間にいるみたいなものだから、と。自分のことを傲慢だと言いながらも、彼女はとても謙虚です。だから、仕事の時は会社の理念に、娘である時は娘の倫理に、女である時は女の道徳に、うまく自分の到達点を設定していました。少なくとも、私に話す様子はそういう努力を続けている勤勉な少女に見えました。
 でも時々、ぐるぐると空回る時があるんです。ハムスターのゲージにあるあのおもちゃみたいに。女性のらしさを守ることにいったい全体どれほどの社会的価値があるのだろう。それはどれほどの人間的価値を生みだすのだろう。そしてそもそも人生なんてものは、何かしらの価値や意味を見いだすために存在しているのだろうか、といったようなこと。そういうことを、手のひらからあふれたビー玉がぽろぽろとこぼれていくように漏らすんです。それらは硬い地面に落ちて割れてしまうのだけれど、彼女にはどうすることもできない。足元にどんどんうず高く積み上がっていく。攻撃性を持つ割れたビー玉を前に、彼女は足ひとつ動かすことすらできない。手のひらにあるときは、あんなにきれいに見えたのに。そういう話を聞くたび、私はこの人はタレントには向いていないな、と思いました。だって、自分らしく生きることそのものに疑問を抱いてしまう人が、どうして自分らしく生きることで誰かを勇気づけたりできますか。マネージャーのほうの仕事でよかったんですよ、おそらくは。ある意味ではそのせいで気づくのが遅れてしまったのかもしれないけれど。
 つまり、だからたぶん、思うに、凛花さんは自分のらしさが見えなくなったんじゃないでしょうか。自分は今、自分らしく生きているのか。そうでないとしたら、そういうものがどこかにあるのか。それは、わざわざ出向いて見つけなくちゃいけないものなんだろうか、と。旦那さんとの関係ではなく、あるいはそれも含めて、凛花さんは少し休憩したくなったのだと私は思っています。それが一週間なのか、三ヶ月なのか、一年なのか、それ以上なのか。凜花さん自身にもその時が来ないとわからないんだと。なんだか身勝手な言い方ですけれど。もちろん、個人としての松野は凜花さんがとても心配です。早く帰ってきてほしいと思いますし、代表ほどではないでしょうが、やるせなさで胸がはちきれそうになります」

 自分の感情は消せないんだよ、どうやったって。それは正論とは違う世界にあるんだよ。マネージャー研修の内容を一緒に考えていたときの凜花の言葉が橙子の耳をかすめる。

 「たしかにあの子にはそういうところがあったかもしれない。ものごとを程度で考えられないようなところが。白か黒にしてしまいたがるようなところが」橙子はふうっと息を吐く。気づかない内に、息を止めてしまっていた。首もこっている。目をつむって天を仰ぐ。

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投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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