(A3-1)忍耐の価値は時代の変遷に呑み込まれてしまう【長編小説】『少女が大人になるその時』

少女が大人になるその時

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【長編小説】『少女が大人になるその時』概要・目次

 この人、死んじゃうんじゃないかな。

 この人が病気になるのと、私の精神が壊れるのと、どっちが先だろう。

 本局勤務になってから、孝太郎はほんとうに帰ってこられなくなった。毎日仕事が日付をまたぐのは当たり前。そのあと上司に連れ回され、連日のように二時や三時にタクシーで帰宅する。そして翌日七時に家を出て、また同じことの繰り返し。貴重な休日とわずかな給料は、上司の馬券購入代行に費やされる。当たれば上司の手元に、外れれば孝太郎の手元にそれは残った。もちろんその購入にかかった元手は孝太郎持ちだった。それはほとんどいじめに近いものだったのだ。たかだか数年、本局に修学旅行に来ている孝太郎は、格好の的だったのだろう。ブラック企業とはこのことを言うのだ、と橙子は今になって思う。

 「うちって結構マルチな能力求められるし、タレントより忙しいからブラックですよ」と言って数年前に辞めていった若い男がいたが、今どきの子は「ブラック企業」のカードを切り札に使えるのだから、恵まれているほうなのだろう。彼らは将来どこかで苦労するのだろうか、食いっぱぐれるのだろうか。それともこれからの時代、我慢だけではなく自分のことを再優先して生きていく人間が日の目を見るのだろうか。

 前者ならいい、という思いがいまだに橙子の中に存在することを、橙子は知っている。自分の会社ではできるだけそうならないようにしながらも。働きやすさ。自分らしさ。孝太郎に許されなかったもの。でも、そんなのが全部無駄だったとしたら、あの頃の孝太郎の頑張りは何だったのだ。あの頃の自分の忍耐には、一体どれほどの価値があったというのだ。

 驚くことに、孝太郎は文句ひとつ、弱音ひとつ吐かなかった。学生時代に体育会系の部活に属していたわけでもなく、これまで何一つ苦労などしてこなかったような人が、ただ黙々と毎日をこなしていた。時には深夜にスナックまで迎えに行った橙子に対して、平身低頭して詫びることさえあった。橙子はそんな孝太郎に心の内でやきもきしていた。孝太郎くんが頑張るから、私に当たったり弱音を吐いたりしないから。私だって何も言えないじゃない。

 「孝太郎くん、仕事辞めてもいいんだよ」

 ある日、孝太郎は仕事終わりに上司と飲みに行き、帰り道で電柱に激突した。頭から血を流しているところを警官に保護され、病院まで連れて行ってもらったのだという。謝りに謝って病院で孝太郎を引き取った帰りの車で、橙子は後部座席でぐったりしている夫に言った。

 「私働きに出るから。会社で働いた経験はぜんぜんないけど、ほら、「ジョン」でアルバイトしてたから接客はできると思うの。私目当ての常連さんだって結構いたのよ」

 目の前で信号がゆっくりと青から赤に変わる。代わりに、誰も順番待ちをしていない闇に包まれた垂直方向の道路へ向かって、信号が青を告げる。

 「何を言ってるんだ。僕は大丈夫。仕事なんて、どれもこんなもんだろう。このくらい普通だ」

 「普通なわけ、ないじゃない。こんなのおかしいよ。お給料だって、こんなに毎日飲み歩いていたら、結局前のままのほうが自由に使えたくらいだよ」

 「金、足りないのか」

 孝太郎が半分眠りかけたままで言う。橙子はしまった、と思った。そんなふうに言うつもりじゃなかったのに。椿の橙子に対する嫌味は相変わらず続いている。それを誰に言えるわけもなく、橙子はどす黒い感情を日々自分の中に堆積させていた。勘のいい剛志は、いつの間にかあまり母家に寄り付かなくなっていた。

 「違う、孝太郎くんが体壊しちゃうんじゃないかと思って」

 「大丈夫だ。あと三ヶ月の辛抱。それが終わればまた家の近くの局に戻れる。橙子の晩メシ楽しみだあ」

 そう言って孝太郎はいびきをかきはじめた。瞬間、橙子の目の前の信号の光が輪郭を失う。淡い、赤色に染まった雪の結晶のように、それはぼんやりと美しかった。だめ。橙子は熱を持ったまぶたを手で拭い、ハンドルを固く握り直す。負けるわけにはいかない。孝太郎くんも、剛志も、私が守る。家にひとりきりでいる三年間、余計な疑いがどんどんと自分を侵食していた。孝太郎くんが浮気していたらどうしよう、もう家に帰ってこなくなったらどうしよう、剛志がお義母さんを選んでしまったらどうしよう、私はもういらない人間になってしまう。そんな感情が全部きれいに消え去ったわけではなかったけれど、この瞬間、確かに橙子の中の何かが溶けた。孝太郎が橙子のグラタンを頬張る顔が遠くに浮かぶ。その顔が見たくて、その顔が愛しくて、橙子は孝太郎と結婚したのだ。そのことだけで、もう少し頑張れる気がした。

 長い三年間が終わった。地元の局に戻り、孝太郎の立場は中間管理職となった。残業や休日出勤は相変わらずあったが、もう本局にいた時ほどではなくなり、週末を含めて週に三、四度は家で温かい夕食を三人で囲むことができた。孝太郎は相変わらず橙子に弱音のひとつも吐かなかったけれど、それは橙子が頼りないからではなく、孝太郎の性格なのだと思うようにした。

 孝太郎が家で過ごす時間が増えるとともに、母家との関係もわずかながら徐々に回復していった。小学四年生になった剛志は、学校で習う理科社会の実地研修と称して、周人の畑作業をよく手伝っていた。周人は心底嬉しそうに剛志に茄子や大根の育て方を伝授し、剛志も幼いながら懸命に鍬を振り下ろしていた。

 橙子は橙子で、椿の買い物を手伝ったり、庭の手入れをしたり、近所の冠婚葬祭時に進んで買い出しに行ったりするようになった。いつまでも姑の声に耳を塞いでいるばかりではなく、とことん姑の言う「いい嫁」になることで見返してやろうと思いはじめていたのだ。考え方や行動を変えるにあたり、孝太郎の帰還はいいきっかけとなった。それに、橙子と椿が表面的であるにせようまくやっている姿を見せると、孝太郎は喜ぶのだった。

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(A3-2)子どもに罪はないはずなのだけれど

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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