(A3-2)子どもに罪はないはずなのだけれど【長編小説】『少女が大人になるその時』

少女が大人になるその時

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【長編小説】『少女が大人になるその時』概要・目次

 三年前の約束は、忘れ去られていたわけではなかった。もう一人子どもを作ろうという孝太郎との秘密の計画は、少なからずこの地獄の三年間橙子を支え続けた小さな灯火だった。けれどこの時、橙子はすでに三十四歳を迎えようとしていた。ゆっくりと時間をかけて第二子への決意を固めるあいだ、体の方は確実に老いていた。それから一年以上妊娠の徴候は現れず、橙子は不妊治療さえ考えるようになった。自分もなかなか男の子が生まれず不妊治療をしたことがあるから、と椿は親切からか、あるいは嫁が同じ苦しみを味わっているのを楽しんでいるのか、あまりにも前近代的なまじないのような道具を橙子に与えた。第二子の計画は椿には伝えていないはずなのに、と橙子は訝しく思ったものの、その三ヶ月後にめでたく妊娠が発覚し、そんなこともすっかり忘れてしまった。

 おおよそ十年ぶりの妊娠は、橙子の決して若くはない体にはかなりこたえた。初期のつわりはひどく、グレープフルーツしか食べられない日が続いた。ありがたいことに剛志はもう手のかかる子どもではなかったから、学校帰りに買い物に行ってくれたり、洗濯や掃除を手伝ってくれたりもした。

 「ありがとうね、剛志。助かるわ。友達と遊びに行かなくていいの?」

 「うん、いい。お母さん、気持ち悪そうだし。マッシュポテトもチーズなしでいいよ。でも僕、今のお母さんのほうがいいな。優しい顔してるから」

 子どもは本当によく見ている。橙子は息子の観察眼に驚いた。

 「それにね」息子は食卓の上を拭きながら少し声を落として言う。「小学校の友達はレベルが低くて、遊んでもあんまり楽しくないんだ」

 「そうなの。進学塾にでも通ってみる?」橙子は気軽な気持ちでそう言った。大人はわかったふりをして、全然何も見ていない。橙子は後になって思い知らされるのだった。

 孝太郎には姉が三人いる。孝太郎と一番歳が近いのは、二つ歳上の。結婚とは自由の喪失だ、と信じてやまない孤高の偏屈写真家。誰に似たのかと言われるほどの美人で、結婚をしないまま歳を重ねた女性特有の官能的な雰囲気を持ち合わせている。あまり家に帰らず、ふらふらと海外を飛び回っていた。写真家として名前を聞いたことはないが、土地があるから別にそれで食っていく必要もないのだし、と本人はいたくマイペースである。

 続いて四つ歳上の。園田工業の跡取りと結婚し、いつも高級品をじゃらじゃらと下品に身に着けている。子どもはまだできておらず、美人の姉と妹に挟まれて劣等感を感じて生きてきた様子。何かと夫の会社の大企業っぷりを並べ立てては他人の評価を求める鬱陶しい小姑。

 最後に五つ歳上の百合子。「しっかり者の長女」という修飾語は彼女には当てはまらない。病弱で、小さい頃から守られ、ちやほやされてきたため、誰かに何かをしてもらうことに疑問や引け目を感じることがない。

 「わたしは橙子ちゃんと違ってお金持ちの長男に嫁いだわけじゃないからね」といつも実家に子どもを預けて週に三度、半分趣味のような生け花の教室を開いている。スーパーのレジ打ちのほうが効率がいい、とは思わないらしい。教室は夕方には終わるはずなのに、百合子は週に二度か三度は実家で子どもたちと夕食を食べて行った。どういうわけか、その夕食作りはいつからか橙子の役目になっている。幸いにも百合子は橙子の料理を絶賛してくれるので、さほど悪い気はしない。夫の夕食はどうしているのか? 扱いに困る厄介な義理姉。

 と、ここまでは結婚して十年ちょっとで橙子が知り得た彼女たちの素顔である。

 待望の跡取りとして生まれた孝太郎は、とことん甘やかされ、愛でられ、いとこきょうだいのごまめとして特別扱いを受けていた。その教育は孝太郎をわがままな暴君にはせず、他人の領域に踏み込まず自分の領域を犯させない、無関心と優しさを兼ね備えた世渡り上手にした。そして女に対するあらゆる幻想を抱くことのできないまま大人になった彼は、父の言いつけ通り将来は土地を継ぎ、姉たちの食い扶持を確保しながらこの土地で死んでいくのだと心の底から純粋に信じていた。

 橙子が二人目を妊娠している時も、百合子は構わず実家に寄り付いていた。剛志のいとこにあたる彼女の子どもたちは、剛志と同じ歳の男女の双子だった。重い腹を抱えながら六人分の食事を作るあいだ、橙子は無意識につぶやいていた。

 この寄生虫が。

 寄生虫が。

 寄生虫が。

 「お母さん、なんで海斗くんとあきちゃんは嫌いなもの食べなくていいの? トマトとか、にんじんとか、さばとか」今日も母家に夕食を届けたあと、剛志が三人分の食器を並べながら聞いてきた。

 「そういうのは、ちゃんとお家で食べてるからよ」
 そういうのは、母親の役目だからよ。

 「いつもお肉ばっかりじゃん。しかもうちより高いやつ」

 「剛志、チキンのほうが好きじゃない」
 うちの分の食費はもらえないの。

 「あーあ、僕も野菜残したいなあ」

 「剛志のこと大好きだから言うのよ、悪いこと言わないから」
 あの子たちのことは、正直どうでもいいのよ。

 「悪いこと言わない? 今日の晩ごはんがサンマの塩焼きなのは、僕には悪いニュースだよ」

 「ふふ、そんなこと言わないの。サンマだって命投げ出して剛志の血となり肉となってくれるんだから。デザートにプリンも作ってあるからね」
 ほんと、やった僕二個取った、と冷蔵庫を覗く剛志が愛しかった。

 こんこん。食後のプリンを食べている最中に、玄関の扉が叩かれた。

 「橙子ちゃん、今日もごちそうさまでした。橙子ちゃんの料理おいしいから、太るわあ」百合子が使い終わった食器をきれいに洗って持ってくる。このあたりの気遣いはできるだけに、たちが悪い。

 「おばちゃん、ごちそうさま。今度ミートソースご飯の時は、玉ねぎ抜いて」

 「プリンおいしかったあ」

 海斗とあきが暗闇からぴょこんと顔を出す。屈託なく、無邪気に。橙子の胸は、いつもこの瞬間だけちくりと痛む。この子たちに罪はないのに、と。

 「プリン二個食べられたの、僕だけだね」席に戻ると剛志が嬉しそうに二個目のプリンに手を出す。これで、いいのだろう。何もかも。
 橙子はふうっと息をついた。

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(B3-1)十二時間ごとの社長と主婦

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