(B3-2)使いみちのない人間、自覚のない奴隷制度【長編小説】『少女が大人になるその時』

少女が大人になるその時

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【長編小説】『少女が大人になるその時』概要・目次

 もう、帰ろう。西日で作業ができないということを言い訳に、橙子はいつもより早くコンピュータを閉じる。ちゃららん、というシャットダウン時の効果音は、橙子を主婦モードに切り替えるスイッチとして有効に作用していた。けれど、今日はどういうわけかそのスイッチがうまく入らなかった。事務所のブラインドを下ろし、電気を消し、ポットのコードを抜く。そして電話を時間外音声に切り替え、戸締まりをする。駅の方へ向かう足取りがいつもよりも重く感じられた。

 私は、今でも奴隷なんだ。橙子ははたと気づく。会社をはじめて、自分だけの場所ができて、午後六時からは九石家の嫁に戻る。自分で選んでそうしているはずなのに、誰に強制されているわけでもないのに、自分が自分の奴隷だった。誰もほめてくれないから、自分で決めたハードルを自分でひとつひとつ越えながら、自分でほめるしかなかった。厄介なことに、どれだけこなせば自分をほめていいのかよくわからなかった。

 家と反対方面に行くホームへの階段を降りながら、折れ曲がった資料の詰め込まれた鞄の中から、携帯電話を取り出す。

 「お母さん、まだガラケーなの? LINEできないじゃん」と凜花に笑われたのは五年も前だったろうか。孝太郎はすでに何年も前にスマホを使い始めている。凜花に教わりながら今ではすっかり使いこなす彼のそういうところを見るにつけ、橙子は自分が時代に取り残されたような、使いみちのない人間だとレッテルを貼られたような気分になる。だから、できるだけ孝太郎と同じものは持たないようにしていた。フィールドが違えば、比べようがない。かちかちかち、ホームの壁にもたれかかりながら、夫にメールを打つ。

 『孝太郎くん、打ち合わせが長引いています。ごめんなさい。冷蔵庫にかぼちゃ、きゅうりと蛸の酢の物、蒸し鶏、玉子豆腐があります。お義母さんと食べておいてください。足りなければ牛肉を焼いてください。宜しくお願い致します。』

 よろしく、と打つと仕事でよく使う堅苦しいフレーズが予測変換される。夫に使うにはやや不自然な言い回しだけれど、橙子はいつも手を抜いて「宜しくお願い致します」を選択する。手を抜いているのに、丁寧な言い回し。何気なく前回の送信履歴を見る。献立の内容だけが違う、同じような文章。それに対する孝太郎からの受信は、いつも「はい」の二文字のみ。

 いつからだろう、孝太郎とのやり取りが業務連絡だけになったのは。いや、と橙子は思い直す。子どもたちが小さいころは、まだ携帯電話なんてなかった。少なくともこんなに小さくて、誰もが持っているようなものは。孝太郎の帰りが遅い日は、冷蔵庫にその日のおかずと手紙を添えていたっけ。そして週末、孝太郎からまとめて返事が届く。もちろんきちんと切手が貼られ、郵便局から送られてきた。誰にも秘密にしていたけれど、橙子は今でもその手紙を大事に取っていた。そして今の二人には、業務連絡のような実体のない電子上のやり取りだけが残った。

 普段の会話でさえ似たような始末だった。八分後の定時にこのメールを見た孝太郎は、近所の惣菜屋で好きなものを買って帰るのだろう。橙子の料理には申し訳程度に口をつけて、添加物にまみれたエビフライと寿司でいつもよりも心愉しい晩酌をするのだろう。変わったのだ、数えきれないくらいたくさんのことが。それでも、橙子は夕食を作らないでいるわけにはいかなかった。夕食を毎日用意しているにも関わらず、それでも残されてしまうということが、橙子の罪悪感を軽くするのだ。タレントを見ていると、世の中には仕事をするのに罪悪感を感じている女性があまりにも多いことに橙子は驚き、同時に当然だろうとも思うのだった。

 いつも帰りがけに乗る電車を向こうの線路に見送り、続いて来た反対方面の電車に乗る。初めての家出をするお昼間の小学五年生の少女とも、会社のある駅で降りずにそのまま電車に乗って遠くに行ってしまうサラリーマンとも、今の橙子は少しずつ違っていた。彼らと共有しているのは、小さな罪悪感と、「自分はやろうと思えばこんなことだってやれるんだ」というあてつけにも似た気持ちだけだった。

 こちらのエリアには初めて足を踏み入れるわけではなかった。橙子の会社は、いわゆる東京の一等地と自宅のあいだに挟まれた場所に存在した。大きな会社と取引をするときは、いつもこちらの方面に向かう電車に乗って参上する。話題性からそこそこメディアに取り上げてもらえるようになったとはいえ、小さな会社である株式会社Oneselfはこちらから出向くことのほうがまだ多かった。それでもあのころに比べたら、と十三年前の創業当時を思う。大きな会社との取引なんて、夢のまた夢だった。個人事業を否定するわけではないが、やはり大手は規模と安定感が違う。三十人近くの社員を雇う身として、組織としての安定感は今の会社には必須条件だった。

 「さて、どこに行こうかしら」凜花は車内の路線図を眺める。夕方の早い時間は、まだサラリーマンたちによるおしくらまんじゅう状態にはなっていなかった。待機児童と満員電車だけは、国をあげて対処すべき問題だと橙子は常々思っていた。乗車率二百パーセントの電車に押し込められるたびに、どういうわけかドイツの強制収容所が思い出される。行ったこともないその場所は、本でさらりと読むだけでその後の何十年も橙子の脳裏にこびりつくほどの衝撃を持っていた。

 「自覚のない奴隷制度。人は本当の自由というものを持て余してしまうからね、それとわからないように縛ってあげるのがいいのよ」凜花が今の日本のサラリーマンたちを見てそう言っていたのを思い出す。あの子は時どき、恐ろしく冷徹に世界を見つめていた。興味がなさそうに、そして悲しそうに。景気は多少悪くなったとはいえ、こんなにも豊かな現代の日本がかつてのドイツと並べられるわけがない、と橙子はそのたびに思ったが、あえて反論はしなかった。いつもより余裕のある、それでも決して座ることはできない車内でくすんだオレンジ色のつり革を握る。

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(B3-3)午後の延長線から線路が切り替わる瞬間

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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