(B3-3)午後の延長線から線路が切り替わる瞬間【長編小説】『少女が大人になるその時』

少女が大人になるその時

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【長編小説】『少女が大人になるその時』概要・目次

 孤独ではないところで一人になりたい、と橙子は感じた。事務所はあまりにも静かで、今の橙子にはあまりにも寂しい。金曜日まであと一日を残した木曜日の夕刻。橙子の経験に基づく体感によると、人々は翌日の解放感をフルに味わうために、木曜日には余分に仕事をする傾向がある。車内には就職活動中のぎこちない着こなしを除いてはまだあまりスーツ姿は見られず、学生たちの姿が目立つ。

 新卒。橙子の会社には、馴染みのない響きだ。生涯一つの会社に忠誠を誓っていた時代とはもう違うのに、箸の持ち方から懇切丁寧に教えなければならない学生を雇い入れるのは、橙子の会社にとってリスクのほうが大きかった。就業時間に制約があろうとも、一度キャリアを経験し、できれば挫折したことのある人間のほうが仕事をスムーズに進められた。これまでのように山ほど学生を雇い入れるのは、大企業の病というやつなのか、それとも青田買いするに見合うだけのリターンを見込んでいるのか。あるいは若者を育てるという社会貢献の一部だとでも言うのか。橙子の会社は、まだまだそちら側に属してはいなかったし、おそらくこれからも属さないだろう。

 「あー、テストやべえわ。来週は二個だからまだいいけど、再来週からは週に五個はあるじゃん。まじどれ捨てよっか」橙子の右側、出入り口の隅で固まっている大学生の一人がスマートフォンをいじくりながら友人に話しかけている。

 「単位捨てるとかありえない。学費払ってる親の身にもなれよ」栗色の毛をした、細身の女の子が自分のスマートフォンから顔を上げて彼に突っ込みを入れる。

 「はいはい、お前は成績優秀だもんな。移動中くらい英語の勉強やめろよ。ほら、俺を見習え。無料の漫画アプリ」わはは、と男の子のほうが女の子に画面を見せる。

 「ユウト、お前は再履確定組だよな。来年もがんばろうぜ」その背の高い男の子が、もう一人の男の子に顔を向ける。

 「いや、俺は多分今回はいける。授業も出てるし、小テストも受けたし、レポートも出してるし。Cもいくつか出るだろうけど、フル単狙えそう」スマホにつながったイヤホンを片耳にだけつなげた帽子の男の子が応える。

 「まじかよ! みんないつの間に。あー、俺だけかよ。やる気なくなるー。今日は飲むぞ」

 「いや、あんたは飲み会行かずに勉強するべき側の人間だと思うけど」

 「明日の空きコマにするよ! たまにはリフレッシュも必要じゃん。留学生、もう帰っちゃうんだし」

 「まあそだねー。ヒロキはタイ希望だっけ、来年。いいなあ留学。うちん家も金持ちだったらよかったのに」栗毛の女の子が、自身の不遇を嫌味な言葉で押し隠す。

 今の学生は真面目だな、と橙子は思う。サボっているとはいっても、かわいらしいものだ。橙子たちの時代、授業に一応出ていた橙子はかなりまじめな部類だった。孝太郎をはじめとする学生の多くは、アルバイトに明け暮れるか、下宿する友人の家で麻雀に興じるか、部活に打ちこむかのいずれかだった。勉強なんてテスト当日の朝の電車でするんだよ、と要領のいい孝太郎はよく言っていた。それですべてが許された。そうやって大学の四年間を後悔のないくらい遊び、好き放題した思い出を持って、四十年にわたるサラリーマン人生、あるいは腰掛け社員ののち専業主婦人生に突入することが当然とされていた。今の真面目な学生たちは、どんな世界を生きていくのだろう。そして、娘の凜花もついこのあいだまで彼らと同じような大学生だったのだ。そう思いながらも、凜花と目の前の学生たちをうまく馴染ませることができないのだった。

 「ニホンバシー。ニホンバシー。」抑揚のないアナウンスが車内に響き、ゆるやかに電車が速度を下げる。ぴたりと停止位置に合わせて電車は止まった。お見事。橙子は心の中で運転手に拍手を送る。先の学生たちが降車した。一番やんちゃそうな例のヒロキくんが、さりげなく人ごみから栗毛の女の子を守っている。ふっと橙子の頬が緩む。そしてまだだ、と橙子はその場に踏みとどまった。彼らと同じ駅で降りてはいけない。もう私はあのころとは違う、五十八のおばさんなのだ。まさか自分が六十を目前にして、こんなにバリバリ働いているなんて、結婚当時は思いもしなかった。

 すごい選択と決断の連続だね、橙子の人生は。と大学時代から今まで唯一続いている友人であり、バイト仲間でもあった室田は、今ではビールジョッキではなく紅茶のカップを片手に言う。けれど橙子にとってそれは、新婚旅行の行き先を注意深く選び取るような選択でもなければ、値の張る英語教室の契約書に判をつくような決断でもなかった。自動的に線路が切り替えられるように、あるいは点々とばらまかれたパンくずを腹を空かせて拾い集めるように辿り着いた今だった。今以外の今は、どんな選択をしてもありえなかった。他の可能性について思いを巡らせることは時間の無駄だったし、それは橙子を少しだけやりきれない気持ちにさせた。今となっては、考えないわけではない。橙子が専業主婦なら、会社など興していなければ、もっと椿とうまくやれていたら、凜花はいなくならなかったのだろうか。そうしてまた、無益な思想に耽るのだった。

 結局、さらに三つ先の駅で電車を後にした。徐々に電車が混み合ってきたのだ。橙子はこの瞬間があまり好きではなかった。誰もが浮ついて、夢の中を漂っているような午後の延長線から、しっかりと地に足の着いた人々が帰るべき家へと向かう時刻に切り替わる瞬間が。そのまま人の流れに沿って、初めて降りる駅を後にする。

 七月第一週目の木曜日。時刻は午後六時まで十五分を残している、といったところだ。西の空にはまだまだ日が高く残っていた。日の沈む方向から方角を当てて遊んでいたのは私が子どものころだっけ、それとも剛志や凜花? 五分ほどぶらぶらと歩いてから、ハッピーアワーと称して生ビールを二百五十円で提供している居酒屋の扉を開ける。

 「いらっしゃいませ。おひとり様ですか?」電車の中で見かけた学生と同じ歳くらいの女の子が橙子に笑顔を向ける。まだ開けてから一時間も経っていない店内には、まばらに客が座っているだけだった。

 「できればカウンターじゃない席をお願いできますか? 一時間ほどで出るので」そう願い出た橙子に、「ゆりりん」と胸にバッジをつけた彼女はにっこりと笑ってボックス席に案内してくれた。席に座るや否や、外の看板の見て決めておいたきゅうりの一本漬けと生(なま)を、と告げる。ひどく渇き、そして底なしに空腹だった。かしこまりました、次回のご注文からはこちらのタッチパネルで、と膝をついた状態の彼女が言う。へえ、と橙子は思う。タッチパネルね。

 中年の男性店員が運んでくれた冷えたビールを一気に飲み干して渇きを癒し、ふう、と橙子はタッチパネルを取った。

 「スピードメニュー」「さらだ」「一品」「じゅうじゅう鉄板焼き」「ぴちぴち海鮮」「さっくさく揚げ物」「〆のご飯・麺類」「別腹♡デザート」とカテゴリーごとにメニューがずらりと並ぶ。これだけの種類のものを、この価格でなんて。日本の飲食業界が試行錯誤してきた歴史と、昨今の業績不振によって潰れていった企業の数々が偲ばれる。どれだけ飲食店が潰れても、どこからともなくまた新しいそれが取って代わるのだ。

 蝉の世代交代、あるいは人間の皮膚。毎日早起きして弁当を作り、夜にも少なくとも三品を新たに作り、食べ残されてゆく毎日を振り返り、橙子はやりきれなくなる。

 よし、と腕まくりをしてピッピッとタッチパネルを操作していく。こんなの簡単じゃない。スマホだってわりに簡単に使いこなせてしまうかも、などと思いながら、全ジャンルから二、三品ずつどんどん注文待機場所へ入れていく。生ビールをもう一杯とハイボールを二杯、日本酒を追加し、最後にずらりと並んだメニューを確認、「注文」ボタンを押す。あとは店員の誰かが料理を運んでくるのを待つだけだ。こちらは注文時にあたふたする必要もないし、伝票が間違って記載されることもないし、人件費も節約できる。なんて効率的なのだろう。誰にとっても素敵なシステム、タッチパネル。

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(B3-4)それはときどき私を襲う

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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