(B3-4)それはときどき私を襲う【長編小説】『少女が大人になるその時』

少女が大人になるその時

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【長編小説】『少女が大人になるその時』概要・目次

 料理は驚くべきスピードで運ばれてきた。ほとんど全ての料理が運ばれてきた時、橙子はまだ最初のきゅうりを食べ終えていなかった。

 「お待た、せいたしました。なる、『鳴門鯛たっぷりの釜飯』は三十分ほどお時間をいただきます。そ、それ以外のご注文は、すべてお揃いですか?」滑舌の悪い慣れない様子の男の子が、やっとのことで決まり文句を口にする。ええ、ありがとう、さらりと礼を言い、橙子は再び一人になった。

 「わお」橙子は思わず呟く。目の前には、たこわさ、冷やしトマト、だし巻き卵、ぱりぱりの何かが載った大根サラダ、鯛とマグロの刺身、あじのなめろう、チーズ春巻き、なんこつ唐揚げ、夏の肌着のように薄いピザ、鮭茶漬け、バニラアイスクリーム、みたらし団子、それと今となっては何を頼んだのかわからないおやきのような何かが並んでいた。ハイボールに口をつけながら橙子は、わお、ともう一度心の中で呟く。私、これを全部一人で食べるつもりなのかしら。けれど、橙子は知っていた。これから一時間かけて、自分が目の前の品を残らず体内に収めてしまうこと。最後の釜飯とデザートもしっかり食べてしまうこと。

 橙子の身には、時どきこういうことが起こる。何もかもがすっかり嫌になって、何も考えられなくなって、何も考えたくもなくて、とにかくたくさんのものを食べてしまうときが。それはがらんとした事務所の中でお中元のお菓子を相手に現れることもあるし、椿と孝太郎が眠ってしまったあとにひとりで台所の片付けをしているときに現れることもあった。そういうときの食べものは、安くて体に悪いものであればあるほどよかった。体内に取り込まれたときに、がたがたと煙を吐くうるさい工場の風景が思い浮かび(工場の煙は、あるいはクリーンになったのかもしれない)、誰の感情も感じられないものがよかった。その瞬間は、三月の健康診断で糖尿病の気があったことも、二週間後に雑誌の取材があることも、どうでもいいのだった。

 料理は悪くなかった。確かに塩からく安っぽい味はしたけれど、まずくて食べられないなんてことはなく、酒もすすんだ。それが橙子の気持ちをさらに暗くさせる。適度に混み合いはじめる店内。次々にスーツ姿のサラリーマンや、慣れた様子のカップルが橙子のボックス席を通り過ぎ、席に案内されてゆく。彼らの目には、橙子には筋肉質で大食漢の連れがいて、いまは手洗いにでも行っているように映るのだろう。

 突然、目の前の景色がどろりと溶け、境界を失っていった。口の中で、甘ったるく溶けたアイスクリームがほんのりと喉を冷やす。

 外は真夏のむっとした熱気、店の中は寒いほどの冷気。
 テストを控えた学生、電車で席を探す老婆。
 家で寿司をつまむ孝太郎、安居酒屋で大量の料理をかかえる橙子。
 運良く定時に仕事を終えたサラリーマン、自分で勝手に仕事を終えた橙子。
 結婚するタイミングを失ったカップル、離婚するタイミングを失った橙子。

 どうして何もかもが綺麗に分かれているのだろう、と思う。どうしてすべては切り離されて、それぞれでやっていくしかないのだろう。それなのに、他の何かに成り代わることはできない。橙子は自分の髪が一本一本ぱらぱらと落ちていく様子を想像する。爪の先が剥がれ、血管一本一本、そして最後には細胞がひとつひとつに分かれ、番号を付けられるさまを。それらの細胞には、やはり細かく切り分けられた橙子の感情が付帯することになる。凜花を恋しく思う気持ち。椿を憎む気持ち。大手企業の営業社員への悔しさ。専業主婦を貫いた友人への羨み。そして彼女たちへの優越感。孝太郎を疎ましく思う気持ち。孝太郎にどうしても認めてほしいという気持ち。孝太郎を愛する気持ち。私の感情の数は、私の細胞のそれと比べてどちらが多いのだろう。そして、そうやって何もかもを細かく刻んだ後、すべてはどろどろに溶ける。橙子も、目の前の空いた皿も、店員も、東京も、地球も、宇宙も。ひとつの例外なく混ざり合った後で、また公平に分配された「個」が作り出される。今度はもっと均されたかたちで。がやがやとした店内にひとりきりでいることは、橙子を余計に孤独にした。五十八歳を迎えるということは、こういうことなのだろうか。楽になりたい、と橙子は思う。涙は出なかった。

 「お待たせいたしました」可愛らしい女の声で目が覚める。あわてて顔を上げると、橙子を席に案内してくれた女子学生と思しき店員が例の釜飯を橙子のテーブルに置くところだった。ほんの五分、いや十分ほどだろうか。うたた寝をしていたようだ。頭の中で誰かがけたたましく鐘を鳴らしているみたいだった。雪が溶け、春が来たと知らせる樹々のざわめきではなく、親しい誰かを亡くしたときの葬式に響くような、不吉な音だった。

 「ご注文の品はすべてお揃いですか? お飲み物はいかがでしょう。熱いお茶もご用意できます」先ほどのぎこちない男の子に比べこちらは慣れた様子で、橙子の状態を見て臨機応変な言葉を発する。

 「ありがとう。熱いお茶と、冷たいウーロン茶をおねがいできる?」橙子は何とかそれだけ言った。かしこまりました、と空いた皿を下げながら彼女はそれだけ言った。橙子をいぶかしがるようなそぶりはおくびにも出さない。今はこの距離感が心地よかった。食欲はまるで失せていた。

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(B3-5)それは個人の傾向と時期の問題だ

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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