(B3-5)それは個人の傾向と時期の問題だ【長編小説】『少女が大人になるその時』

少女が大人になるその時

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【長編小説】『少女が大人になるその時』概要・目次

 「リン、あ、九石凜花ちゃんのお母さん、ですよね?」
 知り合いなど誰もいないと油断していた頭の上から突然声をかけられ、びくりとする。見ると、見覚えがあるようなないような女性の顔があった。

 「そう、です、が」予期せぬ展開に、頭が少しだけクリアになる。人間の本能とは、実によくできている。

 「覚えておられないですよね。わたし、凜花ちゃんの高校の同級生でした。二度ほどおうちに遊びに行かせてもらったことがあります。今西麻衣子です」そう言って人懐っこく笑う顔を、橙子は数分のあいだ、実際には二秒ほどぼんやりと見つめていた。

 「あ、まいまい、ちゃん」橙子は化粧っけのないブレザー姿を頭に思い浮かべる。凜花と同じ塾に通い、よく家での凜花の話にも出てきた子だ。

 「そうですー! 覚えててくださってたんですね、うれしい。お一人で来られてるんですか?」彼女のトーンがひとつ上がる。

 「そうなのよ。こんなことめったにないんだけどね。まいまい、綺麗になったわねえ。おばさんわからなかった。お化粧なんてしてるんだもの。服もほら、なんか大人っぽい。それに少しスリムになったんじゃない?」橙子は頭の中のブレザー姿と、目の前のさらりとした水色のチュニックに白のパンツ姿の女性を見比べる。

 「そりゃあもう二十四ですから、化粧は一応してます。あと、太ったんですよわたし。お褒めいただいて光栄ですけれど」と、少し照れくさそうに顎を引く。

 「女の子はちょっとぽっちゃりしてるくらいのほうがかわいいのよ。街歩いてたら、ここは骸骨の住処じゃないかってたまに思うことあるもの。冗談じゃなく」
 失礼します、と店員が橙子の席にお茶を二杯届ける。

 「よかったら座らない? この釜飯、せっかく頼んだんだけどもうお腹いっぱいになっちゃって」橙子はなるたけ元気そうに聞こえるように声を発する。

 「あ、でもお友達と来てるわよね。ごめんなさい、引き止めてしまって」

 「いいんですか?」まいまいの顔がぱっと輝く。

 「わたし、大学の同期たちとの同窓会で来てるんですけど、社会人組の子たちが幹事は院生組でやれって、あ、わたしまだ学生してるんですが、みんな院生は暇なもんだと思ってるんでしょうね。直前までいろいろと調整させられるわ、残業だのなんだので遅れてくる子はいるわで、まだろくに食べてないんですよ。会社で働いてる子とは、やっぱりどうしても話が合わなくて」そう言いながら橙子の前の席に座った。

 「まだ離れて三ヶ月しか経ってないのに、なんかもうあの子たちは遠い、わたしとは違う世界に行っちゃんたんだな―って感じがします。羨ましいとか、逆に優越感とかではなくて。なんだか寂しいけど、もう会ってもあんまり話すことがなくて」お母さんも召し上がります? とまいまいはしゃもじを手にする。

 「私はいいわ。よかったら全部食べて。ちょっと飲みすぎたみたい」ついでに食べすぎたみたい。まいまいが来たのが、店員が皿を片付けてしまった後でよかった、と橙子は心のなかで思う。

 「まだ勉強してるのね。それほど学びたいことがあるのは、きっといいことよ。大抵の子は、やりたいこともないままになんとなく就職しちゃうから。学部は、どこだっけ?」大学生になった凜花は、まいまいの話をしていたかしら、と思う。

 「工学部です。電気電子機械技術総合学部っていう長ったらしい名前なんですけど、専攻はスマホとかタブレット端末です。最新の研究は、すごいところまで行ってるんですよ」まいまいの口調が熱くなってくる。

 「そうなの。おばさんは、まだぽちぽち打つ方の携帯電話だから、そのあたりのことはよくわからないのよ」

 「ゆくゆくはもっと直感的に、これを使ってこれをするっていうんじゃなく、何がしたいかをコマンドすればすぐにアプリが起動するユーザーインターフェイスを」あ、ごめんなさい、としゃもじをマイク代わりにしていたまいまいが、橙子の開いたままの口に気づいてトーンダウンする。

 「楽しそうね。将来はそういう会社に行くの?」

 「できれば」まいまいは困ったように笑った。

 「まだわからないんですけど。一年浪人してるし、あんまり卒業を遅らせたくないなっていうのはあるんですけど」

 「お嫁にも行き遅れちゃうかもしれないしね」橙子は冗談ぽく笑ってみせた。

 「あ、実は、来年の春に結婚するんです」まいまいが突然しおらしく、顔を赤らめる。橙子の席にやってきた時も、お酒で多少は赤かったのかもしれない。

 「そうなの、おめでとう! 今日はお祝いね。他に何か注文しない?」

 「あの、それで、その」彼女の歯切れが悪くなる。

 「どうしたの? 気分でも悪い?」

 「あの、その結婚相手というのが、お母さんの、リンのお母さんの会社の社員で、それは偶然なんですけど、それで」

 「うそ、誰?」橙子は驚きと好奇心と喜びが混じった声で身を乗り出す。

 「聞いたんですけど」まいまいは一瞬ぐっと詰まる。
 「聞いたんですけど、リンがいなくなったって」

 ああ、この子はこの時を待っていたのだ。と橙子は思う。この話題を自然に切り出せる時を。

 「そうなのよ、その様子じゃあの子の居場所知らないわよね」橙子は努めて何気ない声を出した。

 「まだ、見つかってないんですか」まいまいの問いは、問いではなかった。

 「警察には届けてあるんだけどね、音沙汰なしよ。携帯も切ってあるみたいだし」

 「なんか」二十四歳の彼女は、橙子の前で高校生の少女に戻っていた。

 「なんか最近、すごく二極化しているんです、わたしの周りが。上手く言えないけれど。こんなことをこのタイミングでリンのお母さんに言うのはいけないのかもしれないけれど、でももう自分の中に留めきれなくて、だからちょっと聞いてもらっていいですか。お時間、大丈夫です?」

 「もちろん」
 もちろん、と橙子はもう一度自分に言い聞かせ、にっこりしてまいまいを促す。家に帰ったって、もうあそこで私に求められているのは家政婦仕事だけだもの。

 「実は、大学四年の時に学部の子が自殺したんです。そんな仲が良いわけでもなかったんですけど」彼女が無意識に声をひそめる。自殺。橙子が目を逸らし続けてきた残酷な事実が、妙に現実味を帯びて迫ってくる。

 「はじまりはそれだったのかもしれないし、それがきっかけでたわたしが気づいただけかもしれない。自殺の原因は就活だろうってみんなは言ってました。そんなくだらないことでって。それで人生決まるわけでもないだろうにって。でも、たぶん話はそんな単純じゃないんですよね。最後の引き金をひいたのは就活かもしれないけれど、きっとこれまでのその子の人生で色々なことがすり減っていて、その時点でいよいよもうやめてしまえばいいって思ったんだと思うんです、生きることを。わたしには推測することしかできないけれど、ちょっとわからなくもないんです、その子の気持ち。それからわたしの周りで、二つのタイプの人間がでてきたんです。言ってしまえば『幸せな人』と『不幸せな人』みたいな分かれ方をしてきているというか」

 「うん」橙子は何も言わずに聞いてしまうことに決めていた。

 「就活がうまくいったとかそうじゃないとか、結婚しているとかそうじゃないとか、そういうのじゃなくて。疑問を持たずに日々を過ごせる人と、何かに気づいてしまった人、みたいな。大学を卒業したくらいから、だんだんその傾向が出てきたんです。前者は総じて幸せそうで、後者は苦しそう。そして、前者に属する人たちと話していると、ほとんど反吐が出そうになる。こういう人たちが、大げさにいうと人間社会ってやつでうまくやっていくんだろうって。わたしはその人たちとほんとうのことは何も話せていないのにって。疑問を感じても、それに答えがない限り、悩み続けることに少なくとも意味みたいなものはないじゃないですか。でもそれからどうしても目を逸らすことができない。そういうのって、わかりますか?」

 「わかるわ」橙子は大きく頷く。頭の動きに合わせて、脳みそまでずり落ちてしまいそうだった。

 「わたしたちの世代にも、そういうのはあった。今の子たちのほうが十年くらい早いような気もするけれど。つまりね」汗をかいて水たまりを作っているグラスを右によける。

 「それは個人の傾向と時期の問題なの。歳を重ねると、まいまいの言う『後者』を初めて体験する人の割合が増えてくる。そういうときに、若いうちに『後者』の状態を通り抜けておくことが大きなアドバンテージになるってことがわかるわ。疑問のない状態が長ければ長いほど、そのリカバリーは取り返しがつきにくくなる。そのギャップは、場合によっては人を死に追いやることだってある。同級生のその子は、小さい頃から押し込めてきた疑問たちが一気に解決しちゃったんでしょうね。ああそうか、死ねばいいんだって方向に。でもわかるから。もう少し大人になれば、今のあなたのような子はきっとぐっと楽になるから」

 「歳上の人はみんなそう言います」少女の目がきつくなる。

 「大人になればわかる、歳をとればわかる、あなたはまだ若いからって。じゃあいったい、わたしは今のわたしをどうなだめてやればいいんですか。その然るべき時が来るまで、じっと待ってなきゃいけないんですか。今のわたしもわたしの人生の一部なのに」そこで彼女は息継ぎをした。それまでずっと忘れていたみたいに、深く。

 「ごめんなさい、こんなふうに言うつもりじゃなかったのに」

 「いいの、それもわかるから」ちょっと待って、と言って橙子は温かいお茶を二つとアイスクリームをひとつ、タッチパネルに打ち込む。

 「リンの話をしようと思っていたんです。二極化のこと。リンはたぶん、気づいたんじゃないかってこと。あの子は、高校の時から何が社会にとって価値のあることかを見極めようとしていたみたいに思います。その時のわたしは全然気づかなかったけれど、ふざけて馬鹿みたいなことをしていた時も、高校二年の夏から塾に行きだした時も、いつも周りの、社会の流れみたいなのを隅から隅まで注意深く読んで、そこにうまく自分を合わせようとしていたみたいな感じだった。友達は多かったけれど、リンの内面を知っている子はいなかったんじゃないかと思う。わたしも、そしてリン自身も含めて」

 「母親の私にも、それはさっぱりわからないのよ」

 「リンが心配なんです。あの子、昔から思い込んだら突き進んじゃうところがあったし」

 「そうね、そう。若いうちは、よく考えることとそれを解決しようとすることを一緒くたにしてしまうのよね。もうこれ以上頑張ってもしょうがない、って」そしてそれは、もう十分長く生きた私にだってうまく分けて考えることができないでいる。

 「でもほんとに、歳を重ねたらちゃんと図太くなれるから。だから、今どうこうしようなんて考えないで。次に桜が咲くころには、状況は少しだけ良い方へ向かっているはずだから」

 だから。橙子は遠くにいる凜花に向けて叫ぶ。

 お、お待たせいつっ、しました、と最後の注文を運んできたのは、例の初々しい男の子だった。

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(A4-1)大人になって失う自由

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