(A4-2)企業家の妻としての先輩【長編小説】『少女が大人になるその時』

少女が大人になるその時

▼概要・目次はこちらをご覧ください▼
【長編小説】『少女が大人になるその時』概要・目次

 「起業、ね」橙子が未だにやり取りを続ける数少ない学生時代の友人である室田は、少しだけ笑って言った。

 「ある意味ですごく橙子らしい選択だとは思う。まさかそっちに振れるとは思わなかったけどね」

 かちゃり、とコーヒーのカップをソーサーに戻す彼女のあごが一瞬だけ二重になる。恋人たちを乗せたボートが生みだすさざ波のように。女性はこういうところから歳をとっていくのだ、と橙子は思う。室田の夫はやり手の経営者であり、ITを駆使してぐんぐんと会社を成長させているという。室田はそのサポートをしているうちに仕事の面白さに目覚め、今では五つのプロジェクトを統括しているのだそうだ。

 「私はイチから起業したわけじゃないから知らないけど、創業時って本当に大変みたいよ。その覚悟はある? そもそも橙子は、どうして起業するの? 何か別のことじゃだめなの、家で料理教室をするとか」

 「家ではそういうことは絶対にできないんです。私は、私が私を取り戻せる場所が欲しいんです。何かに怯えながら自分を殺していくような場所じゃなくて」

 「相当病んでるね」ふっと息を吐きながら、室田は再びカップを手にする。

 「ちょっときつい言い方をするけどね、会社ってね、誰かの役に立たなきゃ成り立っていかないの。橙子が橙子を取り戻して、誰かのためになる? 誰かの心を癒したり、楽しませたり、便利だなって思ってもらえる? そういうことよ、起業って」

 「私は室田さんに憧れています」冷めたコーヒーをごくごくと飲み干し、三回深呼吸をしてから橙子は目の前の元先輩の目を見つめた。

 「答えになってないよ」下を向いて吹き出した室田のつむじに、ところどころ白髪が混じっている。

 「私みたいな人、もっと他にもいると思うんです。ろくに社会にも出ないまま結婚して、子ども産んで、子どもが成長してきて、あれ、私って何してるんだろう。こんなふうに漫然と人生を過ごして、それは果たして替えのきかない自分だけの人生なんだろうか、って疑問に思っちゃうような人たちが。そんな人たちと一緒に、自己不在感みたいなものを強く持つ人たちと一緒に、女性の新しい生き方を提案していくようなことがしたいんです」

 「へえ」口から五センチほどのところでカップを止めたまま、室田が橙子を見つめる。結構いろいろ考えてるんだね。

 「わかった。まあそういうの、いいと思うよ。でも、そういうぼんやりとした理念の原石みたいなものもそれはそれで大切なんだけど、具体的にどんな事業をしていくのか、考えなきゃね。私の友達にも、そんなふうに思ってる子たちは、確かにいる。そしてこれから、ITの発達によって人間の生き方はどんどん幅を広げていく。役割を持たなくなった人が自分の中に役割の芯みたいなものを見つけられるような仕事が必要かもね。精神科医ばっかりに頼るんじゃなくて」ちょっと待ってね、そう言って室田はどこかへ電話をかけ始めた。

 木曜日の午後三時を少し回ったところ。橙子の家から電車を乗り継いで四十分ほどの駅にあるささやかなショッピングセンターの中の、よくある大手チェーンカフェの硬い木の椅子に二人は座っていた。じめじめとした六月の天気が、屋内施設に独特の湿気を落としている。ジューン・ブライドなんてうそだ、と橙子は思う。こんな季節に、晴れやかな結婚式なんて向いていない。

 例えばこんなふうにあからさまに日本にあてはまらない西洋文化はまだ見分けがつくけれど、じわじわと茹でガエルのように日本を染め上げてきた西洋文化を、もう私たちはうまく切り離して考えることができないのだろう。ロボットと人間のハーフみたいな顔つきをしてコンピュータのキーを叩くサラリーマン。すっかり空になったロイヤルミルクティーのカップと五杯目の水の入ったグラスをそばに置いて栄養学の勉強をする大学生。天気と旦那と食べものの話を三時間も続けている、橙子よりも少し上の歳の主婦たち。スマホをいじりながら一言も言葉を発しないカップル。それぞれの事情を抱えた様々な立場の人が、同じ午後に一同に会している。ねっとりと貼りつく乾きかけた海水のような空気をわけあって。ここにいる人たちの共通点を見つけようとしばらく考え込んでいたが、やがて窓から見える色とりどりの傘に興味を奪われてしまう。人間ほど、ありとあらゆる色を身につけようとする生きものはいないのではないか。その事実の善悪が、橙子には判断がつかなかった。

 「ごめんごめん、でも交渉成立」と室田が橙子にピースサインを送った。橙子の意識は戻される。正常な、人間としてうまく世界に馴染んでいくための場所まで、きちんと降りてくる。

 「旦那に伺いを立ててたのよ。投資について」アメリカのホームドラマでサプライズを企む演技をする使い古された俳優のように、室田の口角が少し上がる。

 「あなたの会社に投資をするわ。五百万、無期限無利子でどう? ついでに私が二年間、コンサルしてあげる」金額のところを言う時にだけ、室田の声がやや小さくなった。

 「本当ですか」思わぬ申し出に、橙子の声が場に不釣り合いなほど大きくなった。これだけ人がいるにも関わらず、カフェはまるでオーケストラに演奏されているように正常な音量を保っていた。

 「でもね、条件がある。孝太郎にはちゃんと話さなきゃだめだよ。確かにあの子はひどく保守的なところがあるし、わかってもらえないかもしれないけれど、でも会社をやるときに配偶者の理解は絶対に必要なの。特にその人とそれなりに長く連れ添いたい場合には」孝太郎に反対されていることも、室田には伝えてあった。椿という堅牢な砦のことも。

▼続きを読む▼
(A4-3)夫がわかってくれない

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

新刊発売中!

できることなら、十四歳という年齢はすっとばしてしまえるのがいい。
冬に元気をなくす母親と、影の薄い善良なフィンランド人の父親を持ち、ぼくは彼らの経営する瀬戸内市の小さなリゾートホテルで暮らしていた。ある時なんの前触れもなしに、ぼくにとって唯一の友達であったソウタが姿を消した。学校に行くことをやめ、代わり映えのしない平穏な日々を過ごすぼくの生活に、少しずつ影が落ちはじめる。

『レモンドロップの形をした長い前置き』
著者:田中千尋
販売形態:電子書籍のみ
販売価格:450円(※Kindle Unlimitedをご利用の方は無料で読めます)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。