(A4-3)夫がわかってくれない【長編小説】『少女が大人になるその時』

少女が大人になるその時

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【長編小説】『少女が大人になるその時』概要・目次

 それから二度目の猛暑がやってきた。太陽は年を追うごとにますますその威力を増し、乾いた大地にはバーゲンセールのように次々と台風が押し寄せた。地元の中学校の評判を嫌った凜花は小学五年生の二月から塾に通い始め、自宅から電車で三十分ほどの中高一貫校への進学を希望していた。九石家には、にわかに金銭的必要性が生じた。周人と椿は、女の子に教育をつけることに金を出してくれるような人たちではなかったし、孝太郎の稼ぎでは不足はなくとも余剰もなかった。橙子は一年かけて入念に起業準備をし、週に二度は室田について回って勉強し、さらに週に二度はパートにも出ていた。そしてある日、橙子は孝太郎に二度目の説得を仕掛けた。ちょうどその日は、剛志がサークルの飲み会で帰ってこず、凜花も塾でできた友達の家で勉強合宿をすると言って不在にしていたのだ。

 「孝太郎くん、私起業するから」起業本を山積みにし、室田からの借用書が置かれた机で、風呂あがりのアイスクリームを冷凍庫から取り出した孝太郎に宣言する。

 「まだ言ってるのか。パートだって行ってるじゃないか。それじゃ不満なのか? そんな本を読んで成功できるほど、甘い世界じゃないぞ」

 「あれは資金を貯めるためよ。おねがい、家事には支障がないようにするから」

 「凜花の中学にかかる金のことか? それなら凜花に事情を話して、高校からにしてもらったらどうだ。子どもだって、あるもので生きていくってことを学ぶべきだと僕は思う」くたびれた白いシャツの下でむくむくと育っている孝太郎の腹が揺れる。

 「ねえ、孝太郎くんは、今までみたいに女の子が黙って家事をしていたら機嫌よく生きていける時代だと、本気で思ってるの? 社会の大きな流れみたいなものはそりゃ孝太郎くんのほうが知ってるだろうけれど、一人の女として、息子と娘を持つ母親として、人間の変わり目みたいなものを肌にひしひしと感じるのよ。ここで止まっていたら、何もかもに置いて行かれて朽ちるしかないの」

 「君は何の話をしているんだ? そんなに教育が大事か? 言ってみろよ、大学の時に習った文化人類学が大人になって何の役に立った? 数学が、古典が、僕たちが毎日暮らす上で、どんなふうに使えるんだよ。学問なんて、生活を犠牲にしてまで無理につけるものなんかじゃない」孝太郎は最近、こんなふうに何もかもにうんざりしているような話し方をする。

 「日本はまだまだ学歴社会なのよ」橙子は震える声を下唇で噛み殺す。泣いてはいけない。

 「学歴は切符なの。子どものうちにしか買えない、人生の切符なの。大人になった凜花に行きたいところができたとして、そこに行く資格さえないなんて、そんなのあんまりだわ。剛志の時は、何も言わなかったくせに。男女差別よ」

 「君はいつからフェミニストになったんだ?」孝太郎の声がさらに荒くなる。

 まずい、と橙子は気づいた。こんなことを言うために孝太郎と話をしているわけではないのに。どうしていつもこんなふうになってしまうんだろう。

 「ごめんなさい、言い方がまずかったわ。孝太郎くん、私はもちろんあなたを愛しているし、尊敬もしているし、感謝しているし、支えたいとも思っている。それはわかっているでしょう?」ふう、と一息ついてから孝太郎の右手に自分の両手を重ねる。

 「そんなふうに、二十年もやってきたのよ。毎日毎日、飽きることなく。飽きることも許されず。これはもしかしたら甘えなのかもしれない、わがままなのかもしれない。でも、私は本当に心の底から、何か新しいことを必要としているの。買い物に行って、掃除をして、洗濯をして、PTAの集まりに行く以外の何かを」孝太郎のアイスクリームが、袋に入れられたまま汗をかく。こちこちに固まった心が溶けてゆく。

 「ねえ、孝太郎くん。私は学生時代から止まってしまってるの。あなたに出会って恋に落ちて、そのままここまで来てしまったの。子どもができて、あなたは昇進して、世界はこんなにも変わって、私は何も変わらないまま」熱い液体が瞼を通過する。

 「おねがい、迷惑かけないから」おねがいおねがい。やっぱりうまく説明できない。

 「好きにしたらいいよ。ただし、借金取りと警察が家に来るようなことだけはやめてくれよ」孝太郎はもう橙子の目は見ておらず、形を失ったアイスクリームを再び冷凍庫に戻し、ぺたぺたと裸足のままで寝室へ引き揚げていった。

 「家族に迷惑をかけない」

 橙子は続く数年のあいだに、自分の発したその言葉がいかに無責任だったかを思い知った。起業をするということは、家族に迷惑をかけるということとほとんど同義とも言えた。

 その年の九月、橙子は株式会社Oneselfの代表取締役になった。都内の小さなワンルームマンションで、とても会社の事務所らしいとは言えなかった。何の保証もないただのパート勤めの主婦が法人名義で部屋を契約するというのは、とてつもなく骨の折れることだったし、ありとあらゆる行政手続きが橙子の起業を阻んでいるように思えた。室田の助けがなければ起業にすらこぎつけなかったろう。けれどそこでパソコンに向かい名刺を作ったり、サイト制作の業者を調べたり、スーツを着て室田の行くビジネス交流会に付いて行ったりしていると、自分は本当に会社の社長になったんだ、という悦びがじわじわと橙子を満たしていった。自分はもう、檻の中の嫁でも、身動きの取れない母親でもない。九石橙子なのだ、と。そしてここはまぎれもなく自分だけの城なのだ、と。

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(A4-4)味方がひとり、死んでしまった

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
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