(A4-4)味方がひとり、死んでしまった【長編小説】『少女が大人になるその時』

少女が大人になるその時

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【長編小説】『少女が大人になるその時』概要・目次

 周人の死は突然だった。足が悪く家にこもりがちな椿とは違って、周人は年齢に不似合いなほど元気な老人だった。毎日肉をたっぷり食べ、土地を貸している会社を訪問して回り、夕方には近所の大きな寺までジョギングを欠かさなかった。地域の自治会を牛耳り、長と名のつくものはなんでもやっていた。酒をよく飲み、たいていのことは笑って済ませるか、こちらが萎縮してしまうくらい凄んで解決した。人々によく慕われ、同時に畏れられていた。

 「人の上に立つ者に必要なのは、気遣いと威厳だ。末端の者の気持ちまで推し量ることと、彼らをもってすっかり降参させてしまうこと。どちらかに偏ってしまってもいけない。そして、金で解決できることは金で解決してしまう。これが無駄な争いを生まないコツみたいなものだ。お前もそうなれよ」そんなふうに、剛志に鼻高々でよく言っていた。戦後を生き抜いてきた人の代表者のような人だった。

 凜花はそういう周人の価値観にたびたび反発してはいたけれど、おじいちゃん子だった。学校でいい成績を取るたびにまず周人に見せに行き、毎夜そのヒゲの濃い頬におやすみのキスをしては「おじいちゃんちくちくする」と笑っていた。跡継ぎとして大事にされる十歳上の剛志に対抗するように、周人に取り入っているようにさえ見えた。周人の方も、可愛い孫娘に懐かれるのは悪い気はしないらしく、終始でれでれして物を買い与えていた。そして周人は、凜花が小学六年生の二月に何の予告もなく死んだ。急性心筋梗塞だった。それは凜花にとっては初めての「親しい人の死」だった。一月の試験で都内の中堅女子校に合格を決めていた凜花は、中学の制服を周人に見せられなかったことを悔やんで泣き続けた。あまりにも突然のショックにうまく対処するために、凜花は特定の理由を見出して泣くしかなかった。そしてそれから彼女は、たとえ休日であろうと毎朝制服を着て周人に手を合わせた。それはきっかり二年続き、ある日を境に凜花は法事のとき以外は仏壇のある部屋に近寄らなくなった。

 橙子にとって彼の死は、その葬式に圧倒されるばかりだった。これまでも町内の家に葬式の手伝いに行ったことはあったが、自分の家でとなるとまるで話が違った。地域の重鎮だった周人の葬式には、何百人という規模の人が訪れた。親戚や町内の顔見知りはもちろん、地元郵便局のほとんど全従業員から市議会議員まで参列していた。九割方は橙子の初めて見る顔だった。いつ使うのだろうと常々疑問に思っていた無数の湯のみを総動員して彼らにお茶とお茶菓子を出し、四方八方に頭を下げ、何十人分もの精進落としの料理を作り、座る間もないままにばたばたと過ぎていった。黙って座敷の隅で手を合わせ続けている椿は使い物にならず、町内の婦人に恐縮しながら指示を出し続けなければならなかった橙子に、故人の死を悼む暇など皆無だった。まるでその年くるはずの大雪と台風がいっぺんに到来したみたいな忙しさで、静けさと騒々しさが共存する奇妙な時間だった。
その後も四十九日が明けるまで、来る日も来る日も弔問客が訪れ、自宅はいつでも開放状態にしておかねばならなかった。幸いなことに、葬儀の後に椿が突如気力を取り戻し、弔問客の対応や粗供養の準備などは任せておけた。むしろ、橙子が下手に手出しをすると怒り狂いかねない様子でさえあった。触らぬ神に祟りなし。橙子は静かに創業後の忙しさに浸ることができた。そして周人の死から半年ほど経った頃、再び母家での共同生活が始まった。離れでは凜花の一人部屋がないから、というのは孝太郎の苦しい言い訳だった。けれど橙子は逆らわなかった。実を言うと、全くそれどころではなかった。

 橙子の会社はなかなか会社らしくならなかった。家賃や光熱費、電話回線やインターネット、各種手続きにかかる費用、交流会費などの出費がかさむ一方、収入は皆無だった。最初の一円を稼ぎだすことがこれほど困難なことだとは思いもしなかった。これまでに費やした時間を全てパートに充てていたら、などという皮算用をしないこともなかった。減りゆく銀行残高は、橙子を焦らせた。

 「少なくとも三年は儲からないわよ。五年もしたら、会社らしくなってくるかもね」室田はそう言って励ましてくれた。五年。それは橙子にとって永遠にも聞こえたし、慌ただしくしているうちにすぐに過ぎ去ってしまいそうな期間でもあった。凜花の学費の支払いに参加できるのは高校からかしら、と橙子はわずかな後ろめたさを抱えて孝太郎の好物を作り続けた。

 事業内容はぶれにぶれた。そもそも「女性が自分らしく生きる」ための事業というのはどういうものなのか、さっぱり検討もつかなかった。女性が好きに悩みを書き込める会員制のサイトを開設したが、コメントはおろか誰一人登録すらしてくれず、一方で会社員を続けている大学時代の友人にインタビューして回っても、それをどんなふうに扱えばいいのかわからなかった。彼女たちは「自分らしさ」とは無縁に日々奮闘しているようにも見えたし、すでに自分らしく生きているようでもあった。交流会で出会った美容事業を営む女性経営者から美顔器の物販を持ちかけられ、ワンルームが美顔器の在庫で山盛りになったころにその人と連絡がつかなくなってしまったこともあった。

 孝太郎に相談できるわけもなく、赤字が三年以上続いた。事業はどれもぱっとせず、事業とすら呼べないまま消えていった。パートの収入を赤字補てんにあてがい、「自分らしさ」は相変わらず不在だった。事務所の隣の部屋から大学生が鍋パーティをしている声が聞こえたりすると、何のために会社をしているのか、と自問しないわけにはいかなかった。金を払って雑誌に載せてもらい、費用対効果は出せず、受注した仕事も値踏みされることが多かった。ひとりで会社を始めた世間知らずな主婦は、プロの世界ではおいしいカモになってしまった。室田から借りた五百万が底をつきた時、橙子は悔しくて、家にも帰らず事務所で一晩泣き続けた。けれど橙子はそこで諦めるわけにはいかなかった。五百万稼ぐまで。室田への借金を会社の利益で返せるまでは、諦めない。橙子はこれまでの日々がいかに守られた、ぬくぬくとした暮らしだったかを思い知らされていた。

 「家に帰ってくるのが遅すぎないか。凜花はまだ中学生なんだぞ。私立で高校受験がないとはいえ、母さんがお前を悪く言うのをなだめながら夕飯を作ってるんだぞ。かわいそうだとは思わないのか」ある日曜日の夕方、孝太郎は橙子がまとめておかずの下ごしらえをするのを見て言った。凜花は友達とカラオケに行き、サラリーマンになった剛志は貴重な休日に恋人と出掛けていた。昇進した孝太郎はもう残業する日は少なく、毎日のように家で夕食を摂っていた。一方の橙子は交流会や事務処理に追われ、夕食の支度に間に合わない日も多かった。

 「毎日ってわけじゃないじゃない。それに、夕食は作って行ってるんだから、ほとんど温めるだけでしょう」橙子は大量のほうれん草を茹でながら言う。

 「そういうの、たくさん作りすぎないでいいから。こないだの里芋、悪くなってたぞ。母さんが腹壊したって」

 「そう。じゃあもうあまり作らないようにするわね」橙子は必死で抑えた。

 会社は私のわがまま。

 この人は私の扶養者。

 「会社、儲かってるのか? パートに行っていたほうがよかったんじゃないか。結局凜花の学費だって、僕が払ってるだろう。帰ってこない日、何してんだよ。僕の知らないところで、何してるんだ。室田さんには迷惑かけるなよ」

 「うるさいわね!」橙子は意図せぬところで自分の声が発せられるのを聞いた。私は今手にしている包丁でこの人を刺してしまうことだってできるのだ。そんなことをぼんやりと考えた。

 「孝太郎くんだって、ずっと忙しかったじゃない。本当に毎日仕事だったの? 剛志の時も、凜花の時も、あなたは休みの日に子どもたちのいいとこ取りをしてただけじゃない。子どもを育てるっていうのが、どれだけ大変かわかる? わからないでしょう。会社で言われたことをその通りにハイハイやって、給料もらって、家に帰ったらご飯ができてて、お風呂が湧いてて、私も男に生まれたかったわよ! それにお義母さんがいたのよ、私には。あの、重箱の隅をつつくことが趣味みたいな人が。もうたくさん。凜花だって、もうお漏らしするような年齢じゃないんだから。いい加減私を解放してよ。遊んでるわけじゃないんだから、会社をやったこともないくせに」

 言いすぎている。私は言いすぎている。だめ、止まって。心ではそう願っているのに、口は止まらなかった。

 「勝手にしろ。借金と犯罪だけは勘弁しろよ」孝太郎は、橙子が起業をすると宣言したあの時と同じように判断を放棄した。

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(A4-5)娘のためを思って

書いた人

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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できることなら、十四歳という年齢はすっとばしてしまえるのがいい。
冬に元気をなくす母親と、影の薄い善良なフィンランド人の父親を持ち、ぼくは彼らの経営する瀬戸内市の小さなリゾートホテルで暮らしていた。ある時なんの前触れもなしに、ぼくにとって唯一の友達であったソウタが姿を消した。学校に行くことをやめ、代わり映えのしない平穏な日々を過ごすぼくの生活に、少しずつ影が落ちはじめる。

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