(A4-5)娘のためを思って【長編小説】『少女が大人になるその時』

少女が大人になるその時

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【長編小説】『少女が大人になるその時』概要・目次

 凜花は、家であまり話さなくなっていった。事情を聞いても、「学校の勉強が難しくて」だとか、「おじいちゃんのこと思い出しちゃって」などと言うばかりだった。初めの方はそんな調子だったが、その言葉はだんだんと「あたし、お母さんみたいな母親だけには絶対にならない」「家より仕事が大事なんでしょう。話しかけないで」という言葉に変わり、ついにはほとんど口をきいてくれなくなった。

 それでも凜花は学校で友達と楽しく過ごし、好きなアイドルのコンサートにもしばしば出掛けていた。不良のように髪を染めたりピアスをあけたりすることもなく、外向きにはよくありがちな反抗期の一部分のように見えた。そしてそんな凜花の闇は、思わぬ形で明るみに出た。

 娘さんが万引きをしまして――。とある雑貨店からの連絡を受けた時、橙子は事務所でその月の収支計算をしているところだった。支出の欄を埋めながら近ごろの会計ソフトは賢いわ、などと考えていると店から電話が入り、飛び上がったのだ。スポンジに顔を押し付けているような、息をするのさえ苦しいほどの猛暑日の、一番暑い時刻だった。

 「娘さんの言葉を信じるなら、万引きは初めてだそうです。学校や警察に連絡してもいいのですが、反省しているみたいですし、幸いお店に被害もなかったことですし。二度とこんなことをしないようにお家でしっかり指導してくださいね」

 くだらないつけまつ毛を前に、何もかも知ったふうに物を言う雑貨店の若い店長の言葉に、凜花を引き取りに行った橙子はほとんど土下座する勢いで詫び続けた。車での帰り道、橙子は半ば強引に近所のショッピングモールにあるアイスクリーム店に立ち寄った。最近できたばかりの新しいモールだったが、橙子も凜花もそれまで電車に乗って同じチェーンのショッピングモールには何度も行ったことがあり、それが少し近づいただけのことだった。

 「ねえ、知ってる? 今くらい暑いと、アイスクリームってあんまり売れないんだって」
 「凜花、ストロベリーチーズケーキともう一つ何にする?」
 「暑いねえ。アイスクリームがうらやましいわ」

 橙子は凜花に声をかけ続け、二人してアイスクリームを食べた。凜花は一貫して沈黙を決め込んでいる様子で、行き場を失くした橙子の問いかけのほとんどは、ガスの抜けかけた風船のごとく中途半端な状態で宙にばらけた。唯一、二人のあいだに会話が成立したのは、「怒んないの」「当たり前でしょう」「ふうん」というやり取りだけだった。

 その日の夜、孝太郎は娘のしでかしたことを怒りでもって迎えた。孝太郎があれほどまでに怒りを露わにしたのは、後にも先にもあの時だけだった、と橙子は思う。こめかみには血管が走り、目は充血し、それなのにその瞳は娘を見てはいなかった。

 「万引きだなんて、お前はこの家の恥だ。成績なんてよくなくてもいい、顔が悪くたっていい。けどな、人様に迷惑をかけることだけは許さない。そういう人間は、社会のクズだ」それはある意味で正論だった。つけいる隙のない、まっとうな正論だった。けれどその時の凜花は、全くもって正論を必要としていなかった。

 「うん」凜花は死んだ目で応えた。

 「お父さんの目を見なさい。剛志を見てみろ。ちゃんといい大学に行って、それなりに楽しくやってるじゃないか。剛志よりもお前は甘やかして育てられてきたんだぞ。何が不満なんだ」

 「うん」

 「うん、じゃないだろう。お父さんは訊いているんだ。お父さんも怒りたくて怒っているわけじゃない。娘に更生してほしくて、優しさで言ってるんだ」

 「嘘つき」凜花が父親をきっと睨む。

 「成績だってなんだって、いつもお兄ちゃんと比べるじゃない。あたしは、何もできない素直でか弱い女の子でいれば、守ってもらえるっていうの? 馬鹿みたい。それじゃ人形じゃない。お兄ちゃんはいいよね、ここの跡継ぎになればいいんだから。あたしはあたしの人生を作ってかなきゃいけないの。この家にあたしは必要ないんだから」

 「凜花」橙子の声は、誰の耳にも届かなかった。孝太郎が握ったこぶしが、感情を抑えこまれて食卓の上で震えていた。

 「それに、娘のためとか言ってお父さんがちゃんとあたしを見てくれたこと、ある? 優しいふりして、自分の身を守ろうとしてるだけでしょ。今日のことだってご近所さんにばれないかどうかだけが心配なくせに。何なら、万引きしましたってプラカードさげて近所を行進してやろうか。お父さんなんて、あたしがエンコーしてたとしてもあたし自身のことなんて心配しないくせに」

 「凜花」橙子は凜花の小刻みに震える肩にそっと手をおいた。橙子は耐えていた。今日は、今日だけは絶対に凜花を叱ってはいけない。この子に誰も味方がいない今日、母親の私が味方じゃなくてどうする。何をしたって、どんなこと言ったって、この子の絶対的な味方でなきゃ。肩を通して凜花の感情が流れ込んでくる。この子、何にこんなに怯えているのだろう。

 「お前、そんなことしてたのか」

 「してやるわよ、明日にだって。あんたなんて大嫌い」

 ゲームエンドだった。凜花は席を立ち、自分の部屋に引っ込んでしまった。ふすまで区切られた正方形のだだっ広い平屋の母家では、それぞれがひとつの部屋を確保するのでやっとだ。凜花のせせび泣く声がダイニングまで届いていた。孝太郎に言わなければよかったかもしれない、と橙子はちらりと思う。孝太郎と凜花は、それから実に数年ものあいだ互いに口をきかなかった。

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(A4-6)娘が肩代わりしてくれた傷

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ことば、文字、文章。 それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。 文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。 そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。 私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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