(A4-6)娘が肩代わりしてくれた傷【長編小説】『少女が大人になるその時』

少女が大人になるその時

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【長編小説】『少女が大人になるその時』概要・目次

 それから橙子は、夜には毎日家に帰って凜花の好物を用意して待っていた。近ごろは凜花が夜もあまり家にいないということに、橙子はその時になってやっと気づいたのだった。家の空気は重かった。椿は表面的には凜花にひどく優しく接した。けれど、それが凜花への恐れのようなものであることも、実際はご近所での評判をやたらと気にしていることも、凜花にはわかっているようだった。剛志は我関せず、といったふうだった。彼は妹の悩みを聞いてアドバイスしてやるには未熟であり、一緒に悩んでやるにはあまりにも大人すぎた。毎日、孝太郎と剛志と椿の夕食を準備してからちょうど八時まで待ち、一人で食事をした。凜花が無言で帰ってくると、彼女の部屋の前に紅茶とデザートを持って行き、ふすまを隔てて声を掛けた。休日はまる二日ともあけておき、凜花を遊びに誘った。凜花はいつも友達だか彼氏だかと出掛けてしまったが、それでも橙子はずっと待ち続けた。

 今自分にできることが他に見つからなかった。我ながら情けないことではあったが、それは一種の罪滅ぼしのようなものだった。自己満足と言われればそうかもしれない。もう手遅れなのかもしれない。けれど、このまま凜花がおかしくなっていってしまうのをただ見ているだけというのはどうしてもできなかった。最初の方は凜花も橙子の行動にいちいち反発していたが、しばらくするとどうでもよくなったのか、ただ無視することに決めたようだった。

 幸いにして、凜花の傷はもう修復不可能なほど深くはなかった。半年ほどすると、橙子と目が合うようになった。それから月に一回かふた月に一回は橙子と買い物に行ってくれるようになり、夜も孝太郎たちが食事を終えた後に帰宅し、橙子と食事するようになった。テレビドラマでよく見るような、劇的な改善などなかった。一進一退を繰り返し、一喜一憂した。他に協力者もいない中で、そういう繰り返しは橙子をひどく疲弊させた。けれど、少なくとも子どものために何かできることがあるというのはよかった。自分の会社でも目立った成果を出せず、孝太郎との関係もぎこちなく、やることなすことすべてに徒労感を抱いていた橙子は、凜花を守るために自分が再びエネルギーを得たような気がした。もちろん当時の橙子はそんなことに思いも及ばぬほど、凜花だけを思っていた。凜花は傷つき、苦しみ、それは橙子にも比例してもたらされた。独りよがりにならずに、凜花の感情にリンクするのは簡単なことではなかった。

 うまくいかない時もあった。橙子は努力をし続けた。創業当時よりも大きなエネルギーで。この時のことを思い返すと、あれは凜花がチャンスをくれたのかもしれない、とさえ思う。誰にも理解してもらえない、この世でひとりぼっちの存在なのだと悲劇的に陶酔していた橙子に、自分の役割や、家族との関係、会社の方向性のヒントをくれたのかもしれない。そして九石家は、自然に椿と孝太郎対橙子と凜花、という図式になった。表立って言い争うわけではないが、くっきりとした国境が目に見えるようだった。食事の時間、会話、テレビの音量。そういったひとつひとつに双方の戦いの意志が宿っていた。そこに形式的国交以上の交わりはなかった。

 次の展開が待っていたのは、凜花が高校二年の冬のことだった。世界経済はたった一社の破綻によってがらがらと音を立てて崩れた。民間企業に長く勤めた友人がどんどんリストラされている、と孝太郎は他人ごとのように(そして半公務員にとってそれは確かに他人ごとだった)つぶやいていた。橙子の大学時代の友人たちの夫のうちの何人かは同じような危機に面したはずだが、そういうことはSNSには載らない。うまく切り取られ、編集されたキレイごとが行儀よく並ぶ。そういう場所では、ひどく個人的でかつ軽くボタンを押すことをためらうほど重すぎる話題を掲載することはタブーにあたる。

 世界じゅうが重苦しい空気に満ちていた。株価は半分に落ち込み、若者は就職できないままに社会に放たれた。月々のサラリーは地肌にぎりぎり当たらないくらいまで刈り込まれ、人々の生活にたわみのようなものはなくなった。ニュースでは連日、家計を切り詰める主婦のインタビューが流された。けれど、橙子は家で低いモーター音を鳴らす冷蔵庫をぼんやり眺めて思ったものだった。どうしてこういうことが起こるんだろう、と。この冷蔵庫は、何十年か前に画期的な発明としてこの世に出されて、その何代目かが数年前に我が家にやってきて、世界的な金融危機が起こる前も後もずっと変わらず、毎日ほとんど同じように食品に冷気を与えている。それなのに、と。物の価値は誰が、何が、どのようにして決めるんだろう。

 そしてそれは逆説的に、九石家のどんよりと淀んだ空気に風を吹き込んだ。凜花は上品な中高一貫校を辞め、家から少し離れた高校に再入学していた。凜花は成績がよく、幸いさほどレベルを落とさずに新たなスタートを切ることができたのだ。橙子にしても、前の学校は少し背伸びが過ぎた。事務所からの帰り道にある凜花の高校まで、毎日送り迎えをしてやった。そのささやかな日課は、橙子の心のお守りみたいになっていた。毎年のように暖冬が叫ばれる中で、その年の冬はとびきり寒かった。行きも帰りも、凜花の高校に着く頃にやっと暖房が効き始める。必然的に、会話は帰りのほうが弾んだ。午後五時過ぎでもあたりは暗い。夏の同じ時刻に比べて、周りの車も心なしか帰りを急いでいるように見えた。ヘッドライトがまるで記者会見のカメラのフラッシュのようにちらちらと行き交う。これはヒーローインタビューだろうか、それとも不倫の弁解会見だろうか。

 「お母さん、あたしお父さんに謝ろうかと思うの」凜花の申し出は突然だった。

 「そう。お父さんも喜ぶわ」橙子はハンドルを握って前を見つめながら、長い冷戦の終結に心からの安堵と一抹の寂しさを同時に覚えた。

 「あたしさ、高校変わったじゃん? なんかいろいろあったし。お金かけてもらったわりになんかパッとしないっていうか。でね、大学はお金のかからないところって思ってたんだけど、やりたいことできる学部が私学しかなくて」

 「やりたいことできたの。よかったねえ」

 「うん。で、お金かかるんだ。入学金とか。現役で合格したいから塾にも行きたくて。まいまいも行くんだってさ、塾」

 「それはお父さんと仲直りしなくちゃね」

 「でしょ。あの人、ほんと何もわかってくれないけど、収入だけは安定だし」

 「あなたもワルねえ」橙子はまだかろうじて幼さの残る娘と、密かな企みを共有できる嬉しさに笑みをこぼす。そして、仮にも会社の代表として、娘に金銭的支援をしてやれないことに心の片側で傷ついた。

 「じゃあ今日は、お父さんの好きなもの買って帰ろうか」

 「あと、もう夜の仕事いれていいから」ショッピングモールのほうへハンドルを切りかけた橙子に、凜花が続けて言う。

 「お母さんの仕事のある日は普通に電車で帰るし、別に晩ごはんを作るのが嫌だったわけじゃないし。なんか上手く言えないんだけど。それに、塾で遅くなる日もあるしね」

 「そう、なら塾の日は駅まで迎えに行くわね」

 「過保護だなあ、お母さん。仕事、頑張ってね。やってることの理念としては間違っていないと思うし」

 私も変わらなきゃいけないんだ、と橙子は強く思った。凜花が元気になるのを、心の底では恐れていたのかもしれない。ひどい母親だと自分でも思う。もちろん凜花がまたこんなふうに笑ってくれるのを、世界じゅうの誰よりも喜んでいる自信があった。けれど、もう橙子には言い訳できるものがなくなった。会社の業績をあげなければならない、なんとしても。

 運転席で、もぞもぞと背筋を伸ばす。

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(B4-1)電話のベルは相手の事情など考えもしない

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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