(B4-1)電話のベルは相手の事情など考えもしない【長編小説】『少女が大人になるその時』

少女が大人になるその時

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【長編小説】『少女が大人になるその時』概要・目次

 三月の終わりというのは、ひどく内的で独特な空気に満ちている。四月から大きく環境や立場が変わる人も、そうでない人も、今のうちに見知った空気を吸ってエネルギーをためようとする。それにも関わらず、もう自分のうちの半分はそこを離れている。咲き誇る桃の花、つぼみをつけ始める桜たちが、容赦なく春を運んでくる。さあ、さあ、さあ! 立ち止まってゆっくり感傷に浸る余裕など与えてもらえない。そして人々は気づく。五月頃になって気づく。ああ、と。なんだかせわしなくしているうちに、もうこんな季節になっちゃったな。前ってどんなふうだったかな。桜は散り、若葉は茂り、梅雨の支度を始める。いつだって、人よりも植物や天気のほうが季節をよく知っている。

 今年の三月は、いつものそれといくぶん違っていた。気が触れたみたいに上がったり下がったりを繰り返す気温は、人々の体力を奪いながらどうにかその存在を示そうとしていた。研究者たちの予想に反し、花たちは暖かい冬を越して、早すぎもせず遅すぎもせずいつもどおりに花を咲かせた。お腹から出てきそうになる胎児を懸命にとどめておこうとする妊婦のように。そんなふうに「いつもと同じ春」を迎えようとする自然に、人間が目新しさを付け加えていった。「今年の春のトレンドファッションは〜」「春にオープンしたばかりのこちらのお店では〜」「この春に施行される予定の法律による影響は〜」といったぐあいに。人間はそんなふうに目印的に、一年前の春と十年前の春と百年前の春を見分けていた。そして自然のほうは自然のほうで、毎年確かに新しく生まれた花を咲かせ、手つかずの真新しい空気を吹き込んでいた。

 それなのに、橙子にはいつまでも新しい春は来なかった。コートを脱ぎ、四月から入ってくる新しい社員を面接し、カレンダーをめくった。太陽にあたためられた風が橙子の首筋を撫ぜた。春は口に手を添えながら声を上げて、季節のダイアルを進めようとしていた。それなのに、橙子自身はいつまでもそこに立ち止まったままだった。一年と三ヶ月前のあの日から。いや、と橙子は思う。私はあるいは、進んでなんていなかったのかもしれない。世界に置いて行かれていたみたいに感じていた起業前のあの時からも、自由を知った気でいた鳥かごの中の学生の時からも、一歩も。じっとそこに座っていた状態から、立ち上がってその場でぐるぐると回転して、見える風景が少しばかり変わっていくことに満足していただけなのかもしれない。私以外の何もかもは、私が生まれた時から私とは関係のないところで進んでいるんだわ。橙子は自分がいない世界を想像してみる。何も変わらない。株価も、今年のトレンドファッションも、取るに足りない小さな居酒屋のメニューでさえも。私が世界に与えている影響なんて、いい意味でも悪い意味でもゼロなんだ。それなのに、凜花がいない世界は、まるで何もかもなくなってしまったみたいだった。橙子には、夫も息子も(そしてあの姑も)、自分で作った会社も残っていた。でも凜花が欠けた世界では、それらはずいぶんと色あせて見えた。

 時計とカレンダーに日々押し出されるようにして迎えた今日。三月二十一日は凜花の誕生日だ。日本のどこか、あるいは世界のどこかで彼女は二十五歳を迎えたのだ。

 二十五。にじゅうご、25。Happy Birthday. 橙子はもう何年も中身だけ替えて使っているシステム手帳の余白に、それらの数字やローマ字をだらだらと書きつけていた。そしてはたと気がつく。ああ、凜花は私が剛志を産んだ歳を越えてしまったんだ、と。それはちょうど上も下もない階段の踊り場にいるような感じに似ていた。

 「お誕生日おめでとう。せめてあなたがいま幸せだといいのだけれど」呟く声は、自分の耳にさえ届かなかった。

 橙子は娘の誕生日に、打ち合わせを三件と大量の書類の整理をこなしていた。失踪した娘の正しい誕生日の過ごし方なんて、橙子は知らなかった。めそめそなんてしていられない。だってあの子は死んだわけじゃないんだもの。

 午後五時半。株式会社Oneselfがいちおう定めている定時が訪れる。世話を必要とする子どもや老人がいたり、夕方の時間を別なことに使いたいと考える何人かの社員はもっと早くに会社を後にしていたし、他の企業に派遣されているタレントはもちろん事務所には常勤しない。他県のイベントに参加しているタレントもいる。そういうわけで、事務所にいるのは多くてもだいたい十人くらいのマネージャーと数人のタレントだけだった。あまり残業は推奨していないけれど、週の勤務日数を減らすために残業をする社員をあえて止めることもしない。橙子はいつものように定時で退勤し、帰宅するつもりだった。誕生日を祝うわけでもなく、かと言って通夜のように偲んでみたりするでもなく、いつもどおりの一日を終える予定だった。電話を留守電に切り替えるのは、橙子の役目だった。

 ピリリリリリリリリリリ。

 まさに電話機に手をかけようとした瞬間、平均的な電話機のそれよりも高い音で、電話が鳴り響く。

 「代表、どんまいです。ぎりぎりアウトですが、対応してあげましょう」電話の近くにいた四十代半ばの男性社員が振り返って橙子に笑いかける。ひどく痩せて長身の彼は、仕事にのめり込むあまり数ヶ月前に離婚したばかりだった。

 「杉藤くん、そういうところよ。あなたの結婚がうまくいかなかった理由」橙子は酒の席で離婚の相談を受けていた時から妙に距離が近づいた彼に、親しみを込めた無遠慮な一言を浴びせる。

 「お電話ありがとうございます、株式会社Oneselfでございます」普段よりも一オクターブ高いよそ行きの声で電話に応じる。

 「あ、もしもし。時間ぎりぎりに申し訳ありません。代表の九石さんはいらっしゃいますか? 私、町田と申します」電話の向こうの男性が控えめに問う。

 「九石は私ですが……町田さん?」橙子は聞き覚えのある名前と、電話越しの声を一致させようと試みる。

 「九石さんでしたか。お久しぶりです。会社にお電話してしまって申し訳ありません。携帯を失くしてお義母さんの番号がわからなくなってしまったもので。町田です。町田芳幸」男性の声が一段階下がる。

 「町田さん」橙子は今度こそ確信を持ってそう言った。

 「そうです。ちょうど会社が終わる頃にお電話すれば、お仕事の邪魔にもならずにお話できるかと思いまして。最後にお話してから一年と三ヶ月です」町田は抑揚なく言った。

 「ええ、ええ、お久しぶりです」橙子はほんの少し周りを気にして言った。背を向けてくれている杉藤が耳を澄ましているのがわかる。町田は指折り数えて五時半になるのを待っていたのだろうか。そうだろう、と橙子は思う。凜花の夫はこういう男だった。ひどく几帳面で、気遣いができて、傷をつけないように控えめに凜花を包んでいるような。

 「今日が何の日だか覚えていらっしゃいますよね、もちろん」電話の奥の声は、それでいて橙子の知る町田とはどこかしら乖離しているようだった。

 「誕生日よ、あの子のにじゅう」「僕は今日を迎えるまでに凜花が帰ってこなかったら、あなたに連絡を取ろうと思っていたんです。何かを前に進めるために」橙子が言い終えるのを待たずに、町田は畳みかけた。

 「今、心場駅の北出口にあるコーヒー店にいます。もしお時間が許せば、少しお話できませんか? 三十分か一時間。お義父さんの夕食には間に合うように」決して威圧的なところのない、それでいて拒絶できない話の持っていき方をする男だ、と橙子は思った。あの時もそうだった。凜花が倍以上も歳の離れた彼と結婚すると言った時。町田は論理的に、そしてその後で感情を込めて、孝太郎に白旗を揚げさせたのだ。

 「先出るから、あとお願いね」受話器をおろし、杉藤の背中に告げる。

 「今の、お客さんじゃないでしょ。旦那さんでもない。僕嫉妬しちゃうなあ」杉藤は背中を向けたままでおどけてみせる。彼の顔は見えない。

 「何バカなこと言ってるの。凜花の旦那よ」

 「凛花さん」杉藤はそれだけ言って、再びキーボードをかたかた言わせ始めた。

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(B4-2)義理の息子というその人

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ことば、文字、文章。 それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。 文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。 そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。 私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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