(B4-2)義理の息子というその人【長編小説】『少女が大人になるその時』

少女が大人になるその時

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【長編小説】『少女が大人になるその時』概要・目次

 「お待たせしてすみません」ちょうど客が入れ替わる時間帯のざわめきの中で、町田は禁煙席の一番奥にある四人席に座っていた。

 「いえ、こちらこそ急にお呼び立てしてしまって。コーヒーでよろしいですか?」

 「あ、自分で買いに行きます」

 立ちかけた橙子のお腹がきゅう、と音を立てた。どんなにシリアスな場面であっても、人間の肉体はマイペースな活動をする。

 「何か軽食も一緒に買ってきますね。僕もお腹が空きました」赤面する橙子に、町田は優しく微笑んで席を立った。

 町田は、前に橙子が見た時よりもひどく痩せていた。頬はこけ、スーツはだらしなくだぼついていた。人は本当につらいとき、痩せる人と太る人がいるのだという上手い例を彼と二人で作れそうだと思ったほどだ。町田の上等な大きな鞄からは、ノートパソコンと大量の紙資料が覗いていた。

 この人の仕事は何だったけ、と橙子は思う。確か東京駅に大きくて立派なビルを構える商社。海外出張も多く、かなり忙しい人なはずだった。凜花が子どもを産んだら、孝太郎が本局勤務をしていた頃の橙子のようになるのではないか。橙子はそんな心配もしていた。町田のものと比べると明らかに見劣りのする端のほつれた鞄を机の影に隠すようにして、携帯電話を取り出した。孝太郎に「帰ることは帰るから夕食は一時間遅らせてほしい」とメールを打つ。たとえ定時に退社したとしても、橙子の毎日は分刻みに動いていた。ずっと独身を貫き、新婚三ヶ月で妻を失った町田の読みは甘かったのだ。こんなふうに、いつもどおりに終わるはずだった凜花の二十五の誕生日は少しずつ輪郭を変えていった。

 「どうぞ」目の端が町田のズボンの折り目を捉えた。彼が机に持ってきた盆には、溶けたチーズの挟まったパニーニと温かなカフェラテが二つずつ載せられていた。きゅる、と橙子の腹がもう一度鳴る。罰当たりな私の肉体。

 「時間もないので、召し上がっている最中にお話してもいいですか?」町田が自分の鞄からノートパソコンと資料を取り出した。そして町田は器用に片手を使ってパニーニをおおよそふた口で吸い込んだ。

 「それはもちろんですが」男の食べ方に唖然としながら、橙子は盆を机の隅に寄せてスペースをつくる。彼は私にプレゼンテーションでもする気なのだろうか。

 「行儀が悪くてすみません。何しろ時間は限られていますから」時間は限られている。彼はまるで朝食はパン派なんです、というくらいに自然に、そして当然の事実なのだというように言った。朝食はパンで、時間は限られている。時間を限らせたのはそちらじゃないか、とは言わなかった。橙子は彼と自分がどこか素敵なバーでゆっくりと話をしている場面なんて想像がつかなかった。一回りも変わらない義理の息子。ぞっとしない。代わりに橙子は、カフェオレを口に含み、パニーニに取り掛かる。

 「本当は、今日なんて来てほしくなかった」
 コンピュータが立ち上がるあいだ、町田は画面を眺めたままで言った。

 「凜花、凛花さんがいなくなって、彼女の二度目の誕生日です。何か進展はありましたか?」

 「いいえ。あったらもちろんあなたにも知らせているはずです。さっぱり音沙汰はなし。こちらから連絡を取ることはできないし、私にできることはほとんどないんですよ」

 あなたと同じく、と橙子は心のなかだけで付け加える。町田はこの一年と少しのあいだ、九石家からの接触を拒んでいた。孝太郎は町田が凜花を監禁でもしているんじゃないかと疑っていたが、それは九石家を含む関係者の家宅捜査の時に否定されていた。

 「できることはほとんどない」町田は顔を上げて橙子の両目を刺すように見つめた。その目には何も映ってはいなかった。病的に痩せた彼の顔に、目だけがぎらぎらと飛び出しているみたいに見えた。ほんのすこし前まで、そして今も戸籍上は娘の夫であるはずなのに、それは恐ろしい眺めだった。まるで橙子が彼の大切な花瓶を割ってしまったと告白でもしたような、責めたてる目つきだった。

 「僕は僕にできることをずっと考えていました。彼女の行きそうなところを毎日のように見て回り、名古屋にも行きました。そして、見てください」
 町田はいつの間にかテーブルにずらりと紙の資料を並べ、コンピュータの画面を橙子に見せた。そこには凜花のこの数年間の行き先、そこでの滞在ホテル、食事をした場所などが地図の上に示され、そのすべてに対して町田が聞きこみをした結果が詳しく書き込まれていた。

 「ひっ」橙子は思わず声をあげた。

 「なにこれ」反射的に身を引きながらも、橙子はそれらの資料に釘付けになっていた。パニーニに挟まれた橙色をしたチーズは冷え固まり、食欲をそそるよう網目で色付けされたその白くつるりとした表面は乾燥し始めていた。

 「ストーカーでも見るような目で僕を見ないでください」
 町田はいつもの爽やかな彼に戻り、相好を崩した。

 「なにも凜花さんの行動を逐一把握していたわけではありません。恋人同士として、そして最後の三ヶ月は夫婦として、彼女との他愛もないやり取りを何年かぶん遡っただけです」最近のコンピュータの保存機能は本当に優秀です、と町田はコンピュータの表面を撫ぜて見せた。

 「これは、何のために?」橙子はどくどくと波打ち始めた心臓をなだめすかしながら問うた。

 「もちろん凜花さんの居場所を探すためです。彼女は、大人と子どもを同時に自分の中に飼っていました。母であるあなたにはあまりそういう面を見せなかったかもしれません。知っていましたか? 彼女が二十歳の頃からあまり眠れなくなっていたこと。あなたの会社を手伝うようになった頃からです。大勢の人にじっと見つめ続けられる夢とか、マラソンを走っているのにいつになってもゴールが現れない夢とか、そういう実害のない夢がいちばんいやだ、と妻はよく言っていました」妻は、のところを町田は特別強調して言った。

 「知っていました」橙子は対抗するように答えた。やや強気に対応しなければ、彼の気迫に圧されておかしくなってしまいそうだった。

 「あまり眠れない日がある、というのは知っていました。でもそれが、凜花がいなくなることと何の関係があって?」

 「そして彼女は、たびたび暴れたりもしていました。そしていつもその後に、社会人にもなってかっこ悪い、と泣くのです。もう子どもじゃないのに、と。ひどく不器用だったのです」町田は橙子の問いを無視して話し続けた。

 「お母さんの魂を救うんだって、自分があの人の恵まれなかった半生を浄化してあげるんだって、意気込んでいました。たとえ血が繋がっていようと、そんなことは他人が外からできることじゃない。そんなこともわからないくらい、まだ子どもだったのです。あなたの会社ではエリートマネージャーだったかもしれませんが」

 熱っぽく話す町田の口元に、パニーニのマヨネーズがこびりついていた。ああ、あんなに急いで食べるからじゃない、と橙子はひどく冷静に彼を見つめていた。彼の話を心のなかに入れることを、体が拒絶していた。

 「いいですか、凜花はあなたから離れたかったんです。復讐の肩代わりをほんの少し休憩するつもりで、もう戻って来られなくなっている。戻り方がわからないんです。探してほしくないわけがない。探してほしがっているんです。だから、僕は僕のやり方で探している。じゃないと、彼女は永遠に戻って来ないかもしれない。僕は、凜花がいなくなったのはあなたのせいだと思っています」

 資料を指し示す町田の手はがたがたとふるえていた。冷房を入れたくなるほどの異常な暑さに見舞われた三月の終わりに、分厚いスーツを来て体を震わせていた。

 「じゃあどうしろっていうのよ」橙子は極力声を抑えて言ったつもりだったが、実際に喉の奥から飛び出た声は予想を超えてとげとげしくあたりに響いた。

 「じゃあ、私はどうすればいいんですか。どうすればよかったんですか。私は、凜花が望んでもいないのにあなたみたいに一人であてもなくあの子の行く先をなぞってなんていられなかった。だって私はあの子がお腹の中にいる時からあの子を知っているんです。血のつながった娘なんですよ。あの子の足跡をひとつひとつ辿らなくたって、凜花の考えそうなことはわかるんです。だから、今は前にも増して仕事をしているんです。あの子は自分のタイミングでひょっこり帰ってきますよ。凜花の言う魂の救済は、復讐の肩代わりだったんですか。私はあの子にそんなことを望んだことは一度もなかった。会社を手伝わせたのだって、あの子から九石の血を抜いてあげようと思っただけのこと」言いながら自分で何を言いたいのか、支離滅裂だった。凜花の考えそうなことがわかる? 嘘ばっかり。復讐を望まなかった? 孝太郎や百合子や朱音の悪口を言い合って共犯者にしたのは誰?

 ひどいめまいがした。

 「あなたにもできることがあります」

 橙子を見かねるように、町田が優しく笑った。この男のこの顔を見るのは、今日何度目だろう。

 「僕が凜花に出会ったのは、彼女が二十一歳の時。あなたもご存知、彼女が当時の僕の駐在先だったカンボジアに旅行した時です。つまり、その前の彼女を僕は知らない。羨ましいですね、お義母さん。あなたしか埋められないんです。この空白の二十一年間は」そういって町田はコンピュータの真っ白な年表を開いて見せた。

 「やめて」橙子は力を込めてノートパソコンを閉じた。ばちん、と不吉な音がしてそれは橙子と町田を隔てる壁を取り去った。海の色のように濃い青のネクタイが揺れている。優しい微笑みの皮をまとった下の町田も興奮していた。

 「残念ですね。お義母さんは凜花さんに戻ってきてほしくないんですか」
 彼は心底悲しそうな顔をして橙子を見つめた。その両目からは、もう飢えた獣のような攻撃的な感情は消え失せていた。

 「あなたと一緒にしないで。凜花と出会ってまだ数年のあなたに言われたくない」

 「愛は一緒にいた年数で測ることのできるものですか? 孝太郎さんと橙子さんは、さぞ以心伝心でいらっしゃるのでしょうね」
 町田は何もかもお見通しだ、という嫌らしい目つきで目を細める。

 「いいですか、僕は確かに凜花さんと二年と少ししか一緒にいられませんでした。けれど、僕にとっては最初で最後の理解者だったのです。そして、僕が初めて丸ごと守り通したいと心から思った女性でした。ずっと独り身だったのだから、それが三ヶ月経って元の木阿弥に戻っただけだと思われるかもしれません。けれど、それは正確には戻るということではないんです。全然違います。双子が違う人間であるように、凜花さんと出会う前と失った後の僕は、まるで違う人間なんです。一度手に入れた大切な何かを失うということは、そういうことなんです。お義母さんは、孝太郎さんを失ったことがないから」

 お母さん、と橙子は思う。八歳の時に父と離婚し、それから橙子の知らないところでひっそりと亡くなった実の母。けれどここで母の話を持ち出すのは、事をややこしくするだけだ、と橙子は知っていた。

 「それに今はひどく宙ぶらりんな状態ですしね。いずれにせよ、僕は事態から目をそらし続けるのは何にもならないと思っています」いずれにせよ。この言葉を聞いて、橙子は町田が凜花の死を視野に入れていることを悟った。自分には向き合う勇気のなかった可能性。絶対にあってはならない事実。

 「お時間を取ってすみませんでした」まるで長い夢から唐突に目醒めるように、町田はぴりっとした顔で机を片付け始めた。「さあ、僕が片付けておきますから行ってください。孝太郎さんが家で待っているんでしょう」

 橙子は帰りの電車のあいだじゅう、言葉にできない焦りを感じていた。簡単に言ってしまえば、入学試験に必要ないと思っていた科目がいきなり試験科目に追加され、希望の学部を受けることも叶わなくなった受験生のような気分だった。この一年と三ヶ月、橙子は自分が一番傷ついていると思っていた。会社の人間は、沈みがちな橙子に気を遣って何倍も真面目に仕事をするようになり、孝太郎や椿は半ば諦め、その代わりに何か別なことを心配しているふうだった。橙子が傷ついていることだけが、唯一の凜花の居場所のように思っていた。けれど、今日会った町田もまた深く傷ついていた。あるいは橙子よりも深く。彼には本当に凜花しかいなかった。彼には孝太郎も、剛志も、おそらくは室田のような存在もいなかった。孤独に人生を送り、その孤独に自らをうまく馴染ませ始めた頃に凜花と出会い、恋に落ち、そして瞬く間に彼女を失った。

 私と凜花は血がつながっているのよ、と橙子は心で呟いた。他人のあなたが割って入るような余地はない。左の中指で電車の銀色の手すりを何度も小突いた。隣のサラリーマンが舌打ちをし、中指の爪と指の間から血が滲んでも、橙子にはそれをやめることができなかった。

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(A5-1)やっとここまで来た

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