(A5-1)やっとここまで来た【長編小説】『少女が大人になるその時』

少女が大人になるその時

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【長編小説】『少女が大人になるその時』概要・目次

 九石家はまた新しい年を迎えていた。正月は年末に比べてテレビがつまらない、と凜花が餅を飲むようにして腹に収めながらぼやいている。橙子はというと、これまた大量の料理のつまみ食いをしながら腹の虫をなだめていた。

 「凜花、お餅食べ終わったら手伝ってね。お願いだから」橙子は家の中の唯一の戦力である娘に声をかける。

 「わーかってるって。お父さんもお兄ちゃんも、よくあんなにずっとだらだらしてられるよね。信じられない。人生の無駄遣いだよ」と、凜花はちらりと和室を見やる。テレビの中では、豪華絢爛な和服に身を包んだタレントたちと裸の芸人が大声を出している。橙子の事務所のタレントはこういう場には出ない。出ようと思っても出させてなんてもらえないのだけれど。半端に障子の開いた和室では、こたつの三面にひしめき合うようにして、椿が肩の上の方までこたつ布団をかぶり、他の三人が判をついたように同じ格好で寝そべっている。ピーナッツを延々と咀嚼している孝太郎、昨日恋人と徹夜で初詣に行き、ぐうぐうといびきを掻いて眠っている剛志、そして椿とぼそぼそと会話をしている、イタリアから一時帰国中の茉莉花だ。

 「うける。血って争えないよね」石膏で型をとって複製したような、見事なまでのシンクロを見て凜花が言った。彼女の中にも同じ血が流れていることには気づいていない。

 「え、なに」台所で調理をしている橙子の耳には、凜花の言葉が断片的にしか聞こえなかった。

 「ねえ凜花。悪いんだけど、お父さんにあんまり食べちゃだめだって言ってくれない? 夜はごちそうなんだから。あと、もう少ししたらお兄ちゃんに居間と和室をセッティングしてもらわなきゃ」橙子は、椿の前で孝太郎に何か指図をしたととられかねない発言をするのを差し控えていた。孫というのは、こういうときに強い。

 「あと、あなたもお餅はほどほどにね」

 「大丈夫、腹が減っては戦はできないじゃない。あんな質素な朝昼兼用ごはんで、四時までなんて持たないよ」大学に入って以前よりよく食べるようになった凜花は、皿にこびりついたチーズと溶けて固まった餅を箸でこそげとっている。

 九石家では、元日に親戚を集めて盛大な新年会を催すことになっていた。そのどこまでも前時代的な習慣の数々にも関わらず、この家にはおせち料理を食べる習慣がなかった。祖母に本格的なおせち料理を仕込まれていた橙子は、結婚当時拍子抜けした覚えがある。何でも、周人が若くて貧乏だった頃に、「お前には温かい飯を食う価値はない」だかなんだかを、近所の金持ちに言われたのが原因だそうだ。それ以来、周人は弁当から漬物からおせち料理に至るまで、冷たい食べ物を一切口にしなくなったそうだった。

 「頑固な人で困るよ。冷や飯はいつもわたしの茶碗に来ることになるんだから」と椿が橙子に漏らしていたことを橙子は覚えていた。あの頃、まだ椿と橙子は何とかコミュニケーションを図ろうとお互いが頑張っていた。ただ、椿にとって橙子はあまりいい嫁ではなかったのだろうし、かといって橙子はそれ以上どんなふうに頑張ればいいのか検討もつかなかった。悲しいミスマッチだったのだろう。

 そういうわけで、元旦の食卓にはおせち料理は並ばず、焼いた切り餅の入った東京風のすまし雑煮と、椿が京都から持ち込んだ、丸餅の入った京都風の白味噌雑煮の二種類をそれぞれが好きなだけ食べることになっていた。すましのほうの調理は周人が担当し、白味噌は椿が担当していた。元旦は女を台所に立たせちゃいけないんだけどな、まあこれは俺にはわかんねえから、と周人は椿と仲良く並んで雑煮をこしらえていた。橙子は、椿の作る白味噌の雑煮が好物だった。結婚して初めて食べた時には、その慣れない見た目に戸惑った。けれど白味噌で作る雑煮には、鶏肉や油揚げの出汁がよく染み出ていたし、ひとつひとつ丁寧に手でむいた里芋や、溶けた丸餅のおかげでどろりとした汁が体を芯から温めてくれた。そのある意味でのしつこさを持った雑煮は、周人以外の九石家の人間にはあまり評判が良くなかった。

 「橙子ちゃんがよう食べてくれてうれしいわあ」そんなふうにぽろりと京都の言葉が出るときの椿は、まるで母親のような優しさを持った人だった。周人が亡くなってからは、すましの方を橙子が担当している。そして、遅い朝食が終わるやいなや橙子は夕方の新年会に向けて料理を始めるのだ。椿はもう長いあいだ台所に立てないほど足腰が弱っていたし、茉莉花の方は壊滅的に料理ができない。

 「今日は、いち、に、さん……子ども入れて十七人か」橙子はこれから調理されてゆく食材たちとメモを見ながら集中する。今日ばかりは食費に口出しされることもない。いい素材を使って、思う存分料理の腕を発揮できる。九石家は皆、橙子の料理をいつも褒めてくれた。これだけの人数の好みを把握し、温かい料理を手際よく出すのは実に骨が折れたが、それでも皆が美味しそうに食べる顔を見ると、全てが報われた。十五人、楽になったものだと橙子は思う。周人が存命の頃は、周人の兄弟家族を含めて五十人分ほどの料理を椿と二人して大晦日の夜から徹夜で作っていたのだ。

 「お母さん、このコンロ空いてる?」今では料理を手伝ってくれるようになった可愛い娘が問う。凜花は今年成人式を迎える。椿にとびきりの着物を新調してもらい、ひどく機嫌がよさそうである。

 「使っていいよ。お母さん、そのあいだにピザ生地こねてるから」

 「よし。調理クラブ書記、いざゆかん」そう言って凜花はポーズを取り、大きな牛肉の塊に焦げ目をつけ始めた。

 「あ、料理用のワインがないや。お父さんの赤ワイン、使っちゃっていいよね」

 「いいんじゃない? お父さん、凜花の作る料理を食べられるならなんだって喜んで食べてくれるよ」橙子がそう言うと、凜花はにかっと笑って孝太郎の決して安くはない赤ワインの栓を抜いた。

 「ふう、休憩」凜花がどさっと食卓の椅子に腰掛ける。

 「もう休憩?」橙子はピザ生地を発酵させ、数の子サラダに取り掛かっていた。

 「牛肉の塊との戦いは、結構体力使うんだよ」凜花はしたり顔で橙子を見た。

 凜花の顔は、中学生の頃から見違えた。血色も良く、歯を見せて笑い、橙子とよく言葉を交わしてくれるようになった。橙子はこの上ない幸せが胸の中に広がるのを感じた。やっと。やっとここまで来たんだ。

 「数の子サラダ! 今年も正月がやって来ましたって感じだね。これ考えたの、あたしだから」凜花が声を弾ませる。おせち料理には使えないほど形の崩れた、けれども味は良い安い数の子を刻み、クリームチーズと和えて和風に味付けをする。これが抜群にあたった。四年前に凜花が思いつきで作ってから、九石家の新年会のクラッカーのお供として定番になっていた。

 「お茶、する?」と橙子が問う。新年会開始まであと二時間。ラストスパートにかかる前にちょっと一息入れたい気分だった。

 「食べちゃだめなんて言ってたのに。まあでも、冷蔵庫にある大量のプチシュー三個くらいなら」凜花がししし、と笑った。

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(A5-2)そして新年会ははじまる

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