(A5-2)そして新年会ははじまる【長編小説】『少女が大人になるその時』

少女が大人になるその時

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【長編小説】『少女が大人になるその時』概要・目次

 午後三時五十分。最初の客である、園田徹(そのだとおる)、朱音(あかね)夫妻が到着した。彼らは九石家の所有する田んぼに隣接する空き地に仰々しくフォルクスワーゲンを停め、近所の目を引いた。

 「こんにちは」うわ懐かしい匂い、と毎年お決まりの文句とブレスレットをじゃらじゃらとぶら下げて朱音が入ってくる。

 「明けましておめでとうございます。今年もよろしく」徹と朱音が九石家の皆に挨拶をした。

 「明けましておめでとうございます。遠路はるばるお疲れ様でした」橙子は調理を中断し、しおらしく頭を下げた。

 「あら橙子さん。ベンチャーは忙しいって聞くけれど、元日はさすがにお休みなのね」朱音はいつもの調子でけらけらと品なく笑った。

 「はあ」橙子はため息混じりで苦笑する。凜花が隣で「さすが」と呟いている。

 「朱音。お義父さんにもご挨拶しよう」

 一方、朱音の夫であり天下の園田工業の社長は、人間ができている。どうしてこの人が朱音と結婚したのか、橙子は今でも疑問に思っていた。
 それから百合子の娘であるあき夫妻とその子ども、同じく息子の海斗夫妻とその二人の子どもがほとんど同時にやって来た。五歳の女の子と三歳の男女が揃い、九石家は一気に騒がしくなった。最後に今は二人で暮らしている森野健二、百合子夫妻が一時間遅れで到着した。空き地に様々な大きさ、価格帯の車がずらりと五台並ぶ。まるで世界じゅうのあらゆるチョコレートが集められたバレンタインのデパートみたいに。先に到着していた面々は、すでに料理をフライングしはじめていた。ここから深夜に及ぶどんちゃん騒ぎが始まるのだ。

 「やっぱり橙子ちゃんの料理はおいしいねえ。こんなふわふわのピザ、お店みたい」細いシルエットの百合子が相変わらずの無邪気な笑みで言う。

 「百合おばちゃん、これあたしが作ったの。食べて」凜花が百合子の皿にローストビーフを載せる。

 「お、うまそうだな。おじさんにもくれるか」隣で百合子の夫、健二が皿を出す。凜花は喜々として健二の皿にローストビーフを山盛りにした。

 「うまい! ビールがすすむ」将来いい嫁さんになるぞ、と言って眉を下げる健二のグラスに、凜花がすかさずビールを注ぐ。

 幼少期から断続的に続く「会」や「式」とつくもののおかげで、凜花はすっかりそういう席での正しい振る舞いを身に付けていた。それに、年の離れた兄やいとこたちに囲まれ、歳下としての立場をわきまえた行動を取れる子になっていた。そういう点で、凜花は孝太郎とひどく似通っていた。少なくとも、社会に出て苦労はしないだろう、と橙子は思う。

 「そう言えば凜花ちゃん、今年成人式だよねえ」百合子が思い出したように言った。

 「そうなの。おばあちゃんがすっごく素敵な着物買ってくれてね、百合おばちゃんにも成人式の写真送るね」

 「いいわねえ」百合子が隣の健二を見て言う。

 「うちのあきの時なんて、レンタルで済ませちゃったのよ。お母ちゃん、外孫には上等なものはいらないって買ってくれなかったもんね。あんたの稼ぎもよくないしね」百合子が唇を尖らせてみせる。

 「そうだったの」橙子の隣で消え入りそうな声で言う凜花の顔から笑みが消え、気まずそうにする。

 「凜花、次のピザがもう焼ける頃じゃない? 一緒に取りに行こうか」橙子はさりげなく凜花を遠ざけようと試みた。勘のいい凜花は、頷いて席を立った。

 「ああ、凜花ちゃん。久しぶりねえ。成人のお祝いあげるから、座って座って」

 和室の出口付近にいた朱音が背中を通りすぎようとする凜花の腕をつかみ、呼び止めた。つん、ときつい香水が脳内に消臭剤をぶちまけられたように鼻を突く。橙子は思わず凜花の右腕を掴む手に力を入れてしまうが、ぽんぽん、と凜花の左手になだめられて、その手を離した。

 「久しぶり、朱音さん。そのブレスレット素敵」凜花が朱音のそばにひとつ空いていた座布団に腰掛けた。橙子は諦めてそのまま一旦台所まで下がることにした。

 百合子は、人の気持ちを推し量るということをしないのだろうか。せめて彼女に、まだ酒も飲めない年齢である凜花の十分の一ほどの思いやりでも備わっていたなら。橙子は台所でピザの具合を確認し、新しいクラッカーの封を切りながら苛立っていた。体のことで嫌な思いをしたことはないのだろうか。いや、病弱な人がみな聖人君子のように弱い人の気持ちがわかり、気遣いのできる優しい人だというのはきっと偏った思い込みなのだろう。子どもが結婚して健二くんと二人暮らしは寂しいのよ、と最近の百合子はまたことあるごとに九石家に出入りしていた。幸いにして橙子は平日は会社に出ているし、椿のボケ防止にもいいのだろうと自分を納得させていた。家に帰ると百合子お得意の生け花で家中が彩られていることも少なくない。そんなときは、橙子は花粉症の自分が悪いのだと思うようにした。橙子の仕事が多忙を極めているときも、家で夕食を一緒に食べていくことはあっても決して作ってくれることはなかったけれど、それでも橙子の料理を褒めてくれるだけましなのだと思うようにした。橙子は念仏のようにそういう「心がけ」みたいなものを唱えていた。もう、今の幸せを九石の人間に奪わせはしない。

 新しいつまみの皿を持って戻る途中、茉莉花が「橙子ちゃ、ひくっ」と橙子を呼び止めた。まだ六時にもなっていないのに、彼女はすでにひどく泥酔していた。

 「ねえ、橙子ちゃん。今ね、剛志にね、結婚なんてろくでもないわよって教えてたのよ。今じゃ海斗もあきも結婚しちゃったからね。ほら見なよ、壊れたラジオみたいに脈絡もなくわめき散らす子どもたちに、それをあやすことに必死な母親たち。新年会もろくに楽しめないのよ。ひどいと思わない? それに朱ねえ。あの人は金持ちと結婚して、なんか大切なものを失ったね。この世の本当の美しさを感じる心、みたいなのをさ。ねえ、剛志。あんたもそう思うでしょう」

 「僕は孫の顔を早く見たいと思うけどね」茉莉花の隣で孝太郎が代わりに答えた。

 「何言ってんのよ、あんな姑で橙子さんもきっと苦労したでしょうよ」ねえ、茉莉花が橙子を再び見上げる。

 「いえ、そんな」話が次々に飛ぶ茉莉花に、橙子は小さな皿をひとつ手渡した。

 「まあ座って座って」茉莉花が左に詰め、橙子が座れるスペースを作り出す。

 強引に誰かを引き止めるやり方は、先ほどの朱音そっくりだった。断るわけにもいかず、橙子は残りの皿を一旦机に置いた。普段食卓として使われることのない長い机の上では、表面の乾いた大根サラダと脂の固まったもつ煮込みが捨て置かれていた。橙子はさりげなく料理をまとめ、皿に綺麗に盛り直した。

 「ほんとできた嫁だよね、橙子さん。わたしだったら絶対に無理」そう言って茉莉花は、橙子の手元と机の対角線上にいる椿を交互に見やる。

 「母さん悪い人じゃないんだけどさ、なんていうか姑にはしたくないタイプだよね。まあわたしの性格じゃ、どんな姑でも無理かあ」あははっ、と酒のおかげで彼女の声はよく響く。彼女はこの公の場で、橙子にどんな返答を求めているというのだろうか。

 「でもさ、橙子さんも会社なんてよくやるよねえ。朱ねえの旦那さんとか見てたら、社長だけはやりたくないって思うもんね。かと言って雇われるのも性に合わないから、自由気ままなフリーランスってわけなんだけど」

 「雇われるのも案外悪くないよ」本人にそのつもりがあるかはわからないが、剛志が助け舟を出してくれた。かなり酒を飲んでいるはずなのに、まるで滝修行をする僧侶のように静かにぴくりともせずに話す。剛志は、決して愛想がないというのではないが、あまり感情の揺れが見えない子だった。そんな剛志も三十を超え、腹周りに少し貫禄が出てきた。

 「お、さすがメガバンクの期待の星。よっ、日本一!」茉莉花は剛志のグラスにビールを注ぎ足している。橙子はさりげなく茉莉花の空いたグラスに水を注いでやった。茉莉花はもう六十歳に手が届きそうな年齢のはずだが、すらりとして年を感じさせない。独身、子無し、海外、自由人。茉莉花にはそういう類の要素が盛りだくさんだった。

 「そりゃ時間の拘束も長いしさ、自由のきかないことも多いけど。色んな意味ですごく勉強になる。組織の力のことも、その中にいる俺という小さなコマのことも、人間の経済活動のことも、日々疑問符だらけだよ。でも俺は、二十代をあの組織で過ごしたことにそれなりの能動性を持っている。そういう自由がきくのも、独身のいいところではあるよな。辞めたくなったらいつでも辞められる」と剛志は左の口角を余分に上げながら言った。それは剛志の笑う時の癖だった。

 「経済活動、ね」茉莉花が小馬鹿にしたように笑う。「人間って、どうしてそんなにお金に取り憑かれんだろうね。わたし、お金って嫌い。生きるのにそんなにお金って必要なの? 気ままに撮った写真をちょこちょこ売って、行った土地で出会った人に良くしてもらって、写真撮る代わりに泊めてもらったりして。そんでたまにこうやって自分の家族にも会う。そういう暮らしじゃダメなわけ」金に困ったことなど一度もない茉莉花が鼻をふくらませて言う。

 「銀行にいると、世界中のお金の流れがよく見える。怖いよ、金は。でも、人を救ったりチャンスをくれたりする可能性も秘めている。確かに金が人生の全てではないだろうし、それは生きるための手段であって目的になってはいけないんだろうなとは思う。けれど、金のことをよく知ろうともせず、その存在を拒絶するように生きるような生き方は、金の亡者と紙一重だよ。知ってる? 本当のお金持ちは、お金のことなんて考えないんだよ」剛志は含み笑いをして、ひとつ飛んで斜向かいにいる朱音をちらりと見やった。

 「ちょっと剛志」さすがに橙子は見かねて剛志を制そうとした。

 「まあそうは言っても」剛志は橙子の方は見ずにそのまま続けた。茉莉花は据わった目で静かに剛志を見つめている。

 「俺も毎日ずっと真面目に働いてるわけじゃないけど。同僚にも給料泥棒みたいなやつはいるし、そういうやつが飲み会で上司に気に入られてうまく出世コースに乗っかったりするし。あんまり根性入れ過ぎると、おかしくなりそうになる。そういう意味では、茉莉花さんみたいな生き方に憧れなくもない。俺、ちょっと子どもらと遊んでくるわ」

 最後はにこりと爽やかに会話を締めてみせた。剛志はいつからこんなふうにしっかり自分の考えを話せるようになったのだろう、と橙子は息子から目が離せなくなった。凜花が小学校に上がった頃は、妹のほうがしっかりしているなんて言われていたのに。

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(A5-3)この家の血を抜いてあげる

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