(A5-3)この家の血を抜いてあげる【長編小説】『少女が大人になるその時』

少女が大人になるその時

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【長編小説】『少女が大人になるその時』概要・目次

 「ごめんなさい、あっちのほうで話し込んでしまって」
 新しいつまみの皿を持って、ようやく凜花の救出に向かった。橙子は一年の中で元日が一番忙しく、気を遣い、それでいてひとつも楽しくない日だと随分前から確信していた。

 「ああ、おかえりなさい。ありがとうね」朱音の劣化したゴムのようなねちっこい話し方と、食欲を一掃してしまうような香水が橙子を華やかに出迎える。

 「ちょうどよかった。今ね、凜花ちゃんに橙子さんの会社のこと聞いてたの。なんだかよくわからなかったけれど。女性の自分らしさがどうとかって……具体的にはどういう仕事なの? ほら、主人なら介護用製品を作る、みたいなそういうの」

 「そうですね」橙子は少し迷い、真面目に考えこんでしまう。どんなふうに伝えればいいのだろう、と。地方の小さな新聞社の記者に説明するときも、税理士の先生に説明するときも、採用活動をするときも、いつも困ってしまう。

 どんな仕事をしているのですか?
 女性が自分らしく生きるための提案をしています。

 それは具体的にはどういう仕事なのですか?
 お料理教室をしたり、健康セミナーをしたり……。

 それがどうして女性の自分らしさにつながるのですか?
 ………。

 それは室田にも再三言われていることだった。手段が目的になっている、と。先ほどの剛志の発言が蘇る。それに、この敵意むき出しの朱音に一体どうやって伝えればいいというのだろうか。

 「まだ手探りなんです」橙子は半分正直な気持ちで答えた。

 「女性はライフステージがどんどん変わるから、アイデンティティのようなものが保ちにくいと思うんです。そういう人に、何か新しい生きがいのようなものを見つけてもらおうと思って。セミナーや小さなイベントを開いているんです」

 「ああ」朱音のピンクのルージュが大きく広がる。唇だけが妙に浮いて見え、まるで砂漠に取り残された浮き輪みたいだ、と橙子は思った。

 「そういうのって、要は定年退職した高齢者の生きがい探しと同じってことよね。うちの会社でもそういうのやってるのよ。まあうちの場合は製品で莫大な利益が出るから、社会貢献ってところね。生きがいを探すのに、お年寄りからお金を取るわけにもいかないし。ねえ、徹さん」最後の部分だけ甘えた声を出す。「今どき、ああいうって本当にいるんだね。ドラマじゃあるまいし」前に凜花と一緒に朱音の悪口で盛り上がったのを思い出しながら、橙子は怒りを押さえ込んでいた。

 「僕は素敵だと思う。女性の生き方は、いまだに社会では本当に抑圧されているんだと思うからね。男性だってなかなか自由奔放に生きるってわけにはいかないんだろうけど、子どもを生むのは女性だからね。うまくいってほしいと思っています。頑張ってくださいね」徹がにっこりと政治家的なほほ笑みを橙子に向けた。ああ、そういう発言はありがた迷惑なのに、と橙子は徹に礼を言いながら、鬼の形相をして自分を睨みつけている朱音の視線に気づかぬふりをする。

 「凜花、悪いんだけどデザート用意するの手伝ってくれる?」橙子は今度こそ、娘と二人でつかの間の心の休息に向かった。

 農業の合間を縫って周人がほとんど自分で建てたという古風で図体の大きな一軒家は、夏場は風通しがよく過ごしやすいものの、冬場は誰もいない深夜の病院のごとくしんとした冷たさに包まれた。静かに、しかし着実に酸素を奪い、二酸化炭素を生みだす石油のストーブのよく効いた部屋から廊下に出ると、新鮮な空気に一気に頭が醒めるようだった。台所に着くまでに酔いまですっかり醒めてしまったように思われた。

 「あー、疲れる。なんっか九石家のテンションってあたしだめなんだよね。我ながらいい感じに対応はできてると思うんだけど。お母さん、あたしってほんとにここの子?」シュークリームを芸術的に組み立てながら、凜花が少し声を落として言う。

 「間違いなく私の子よ」と橙子はキウイを剥く手を止めて凜花を見る。「多分、私の子だから、九石と合わないのかもね。なんつって」

 「お母さん、ほんとよくやるよね」

 「あらあ、デザート用意してくれてるの」りん、と突然鈴が鳴ったような声に驚いて振り向くと、百合子が台所の戸口に立っていた。壁に耳あり障子に目あり。この天然が服を着て歩いているような人は、全く油断ならない。

 「手伝おうか? それとも洗い物でもした方がいい?」

 「いえいえ、お義姉さんはゆっくりなさっていてください。今日はお客様なんですから」橙子は驚きのあまり思わず掲げた果物ナイフを、慌ててまな板に下ろした。

 「そう? 悪いわねえ。最後の片付けは手伝うからね。それはそうと」百合子は重大な用を思い出したかのように橙子をまっすぐ見つめた。

 「前から思ってたんだけど、ここのトイレって再生紙なの? あたし、再生紙って固いから嫌なのよね。結婚する前は確かもっといい紙だったから。あのエスなんとかってブランドがいいわよ。わたしもちょくちょくここ来ることもあるし、よかったら替えておいてね」

 その言葉を残して、百合子はさらりと立ち去ってしまう。朱音ほど嫌味なわけでもない、茉莉花ほど無責任なわけでもない。でも橙子はこの百合子という存在が一番気に食わなかった。

 「もうあんたの家じゃないじゃない」気が付くと橙子は泣いていた。まな板の上のキウイがみじん切りのごとくぐちゃぐちゃになっている。けれど決して私の家でもないのだ、この先ずっと。言葉はそのまま橙子に返って来た。

 「ごめんね、お母さん、心が汚いね。凜花はこんなにもいい子なのに。でもどうしよう、どうして私ばっかりこんな思いをしなくちゃいけないんだろう。凜花も剛志もいるのに、私はこの世でひとりぼっちなんだって、誰にも理解してもらえないんだって思いが頭にこびりついてるの。もう何年も、何十年も」

 「いや、あたしだったらとっくに離婚してるよ、こんな家。お母さんよく頑張ってるよ。ねえ、これはハタチの誕生日に言おうと思ってたんだけど」凜花がプチシューで膨らんだ頬をさらに膨らませて、にっこり笑った。

 「なに?」

 「あたしさ、三年生になったらお母さんの会社でインターンしようかなって思うんだ。専攻をジェンダー社会学にしようと思っててね。女性の自分らしさ、なんて研究テーマにぴったりだと思わない?」さぷらーいず、と言いながら凜花が紅茶の用意を始める。

 「ほら、早く果物むいちゃって。紅茶冷めちゃうから」凜花は酒のためか、照れのためか、初恋色に染まった頬をぷくぷくさせた。今日が初めての酒ではないのだろう。そう言えばこの子の浮いた話って全然聞かないな、と橙子は思う。

 「ねえ、それ本気?」橙子は手元のいちごのヘタを取るふりだけしながら訊いた。

 「だって三年のインターンって就活に関わるんでしょう。お母さんの会社、スタッフも少ないし、自分で言うのもなんだけれどなんだか事業もぼんやりしてるし、教えてあげられることはきっと少ないよ。就活の実績にもきっとならないだろうし」

 「いいのいいの。あたし、日本のザ・しゅーかつってほんと嫌なんだよね。真面目な子は、みんな一年の時から就活で言えるポイントを稼ぐためだけに大学生してるの。ばかみたいでしょ? みんなもこんな就活制度はおかしいって言ってるのよ。それなのに誰一人そこから抜け出せない。頭いいから偉そうな理屈はこねるくせに、頭いいから社会のレールを外れるのが怖くて、何もできないのよ。だっさいでしょ。で、あたしはというと、ださいのが一番怖い」ほらなんか怖くて寒くなってきたし、と凜花はおどけて身震いしてみせる。

 「ありがとう凜花。小さい頃から、凜花には無理させてきたね。気を遣わせてしまってごめんね。こんなお母さんでごめん」

 「四月からだからね。それまではサークルとか楽しむんだから。ほら、行こう。デザート第一弾。あたしたちの深夜労働は、まだまだ長いよ」語尾をおどけたふうに伸ばして、凜花は橙子のそばを通り過ぎた。

 「うっ、廊下さむっ。ねえ、お母さん」台所の入り口で凜花がこちらに背を向けて立ち止まる。

 「あたしさ、お父さんとかお兄ちゃんにはあんまり理解してもらおうとか、家事のこととか、期待しないんだよね。できないの、もう。でも、お母さんにはまだ期待しちゃってる。だから怒ったり、いらいらしたりすると思う。それはごめんね。そういうのは、たぶん自分に怒ってるの。でも、あの時本当に味方でいてくれたのはお母さんだけだったから、あたしはお母さんには自分を作らなくて済むんだよ。だから今度はあたしがお母さんの魂を救ってあげるね」

 橙子の目の前で、凜花のふわふわしたパーカーの輪郭がみるみる崩れていく。今日ばかりは、目が充血していたって酒のせいにできてしまう。橙子は頬を流れる熱いものを腕で拭きながら、声を押し殺して果物を切る手を動かした。

 「ありがとう、優しい凜花。お母さんがあなたから九石の血を抜いてあげるから。あなたは私の娘」

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(A5’-1)夏は終わり秋が腰を落ち着ける

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ことば、文字、文章。 それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。 文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。 そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。 私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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